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私の転職経験 涙の時代 最終回

転職しました!さあ人生はこれからです。

辺境二年目の冬は最近になく雪が多い年でした。
だんだん、家の中の扉が開きにくくなって、周りの家に合わせて、うちも雪下ろしすることになりました。業者に頼んで、夫も雪の運びを手伝ったりしています。
なぜかみんな嬉しそうに見える。活躍の場を得ているということでしょうか。
(こんな風に考えること自体が考えがねじ曲がっている(笑))

秋の病院見学の後、リハビリテーション科医師として働きたい気持ちが強くなってきました。
隣県か関東に働くところを見つけて週末だけ辺境に戻ってくるのも良いかも、と考えました。

ところが、1月に再びA先生から電話があり、「当病院は役所みたいなものだから仕事を始める時期というものがあります。ハンコを持って来てください。」
あまりにも自然なその語りに、この前の見学に何か手続きがあるのかしら?
と考えて再び出向きました。
にこやかな院長先生がお給料のことも大切だよね、と福利厚生についても事務の人と説明してくれました。
給料は、標準よりは安いと思いましたが、社会保険病院と同じ程度でした。実は夫の病院でも事務長をしている義母と同じ給料だったんです。後から思えばそれも私には面白くなかったんですよね(小さい人間だ)。
一つ注意されたのは「バイトはダメです。ご実家の手伝いも旦那さんの病院もお給料もらっては困ります。」
その言葉にもう夫のところで働かなくても良いと思うと、気持ちが明るくなって、4月から勤務する書類にハンコを押していました。それくらい追い詰められていたんですね。

実家の整形外科外来は、両親と相談して中止にすることにしました。
私がたびたび辺境での暮らしを愚痴っていたので、母は自分の仕事をすることは一番大切とすんなりOK。
父は私が定期的に実家に来なくなるのを渋っていましたが、それはまた別の話、出来るだけ顔を見せるからと何とか了承してくれました。
(実際、父はそれからもしょっちゅう私の家にも来ているのです)

さて、夫です。私が「一緒に働くのはこれ以上無理。でも一緒に住んでいたい。」という気持ちを伝えました。
まさか家から出ていくとは思っていなかったと思いますが、息子と二人で仙台や東京で暮らすことも考えていました。(こんなことちょっとでも実家で話したら父はすぐに職場を見つけてきたかもしれません(笑))

義父母は、むしろ嬉しそうに、これから息子(私の夫)のことは私たちが支えるから心配しないでと力強く言われ、複雑な気持ちになりましたが、とりあえず〇。

結局誰も、夫の病院で私の仕事には期待していなかったんですよね。
二年間、慣れよう、役に立ちたい気持ちは私の空回りでした。
良い勉強になりました。

今回書いた、2年間のことは自分の中で封印していたんだと思います。
話すときも、息子が小さいから働けなかったとか、土地になれるのに時間がかかったとだけ話して、自分の暗い気持ちはオープンにできませんでした。

私の転職ストーリ-はこれでいったん終わります。

4月にスーツを着て、車で通勤する時の景色、水仙や梅、桜、モクレンが花盛り。
辺境の春は一気にきます。
その花々に後押しされるように私は病院で働き始めました。
医師として働く、自分の仕事がある、自分の靴に翼がついてスキップするような晴れやかな気持ちを春になると思い出します。

仕事を変えるか家庭を変えるか選択した時の思い出を書いています。


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