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「おやじはニーチェ」by高橋秀実さん を読んで考えたこと

友人から紹介された本です。
母は女性だけれど家父長型認知症かもしれないと思いました。

家父長型認知症
これは高橋さんが作った言葉です。
認知症になった、いいえ、お母さんが亡くなる前から認知症だったお父さんに対してこう名付けました。

お母さんがすべての家事、生活の雑事を行ってきました。お父さんがやることはお母さんが言いつけたことと、仕事だけ。
座れば食事がでてくる、着替えは着る順番にたたまれておいてある。
お父さんの認知は低下していきましたが、生活は支障がない。
でも、お母さんが亡くなった時、お父さんの生活も死んでしまったのです。

本の中にはお父さんと高橋さんの会話が載っています。
それは現存への問いにもなっています。記憶、自己の存在とは何なのか高橋さんはお父さんとの会話の中で考察します。

略「いまいるところはどこ」
父「どこ?」
...
父「ここってどこだ?」

おやじはニーチェ 高橋秀実著より

認知症のお父さんの取り繕いの会話は、高橋さんにお父さんの過去を思いめぐらせます。そして自分自身の存在について考えさせるのです。

認知症の親の介護をしていると白黒ではなくグレーの部分が多いのです。
なだらかにマーブルのように記憶が作り替えられて、つながっていく。
作話とも言いますが、全くの嘘ではないその人の過去で出来事が誤って表出される。
母も子供のころの実際の話と大人から聴かされた話が重なって見事なストーリーをつくっています。
見当識が低下して、自分がどこにいるかわからないけれど、過去の自分のストーリーを持っている。

家父長型認知症の母の行動は、ちょっと奇妙ですが、母の中では統一が取れていると私は考えています。
今は母入院中。
母から距離を置いたときにこの本を読んでよかったです。
早く帰ってきてください。また、お母さんのストーリーを聞きたいから、それが今の母を支えていることがわかったから。


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