キリストと共に死んだ経験について
多くの者は死んでいない。聖書のことばが、実践できないから理論となっている。
わたしも、かつてそれを経験していたので分かる。
なぜ、これが、出来ないのか?いつもわたしの中にあった疑問だった。
聖書のことばが、わたしに成就したのは、キリストに属するために、自分を十字架につけたからだ。
この試みをしてきた多くの猛者たちの失敗をわたしは知っている。
多くの人たちの言い訳は、「肉でそれをやろうとしたって」無理なのだというもの。
彼らは、だから、キリストが十字架についたのだ。この信仰が大切なのだと言うしかなかった。
しかし、わたしは言う。どうやって十字架につくか?それを、彼らは知らなかったと。
興味のある人は、以前書いたこのブログからその方法を探せばいい。
わたしは、勝利した。神がわたしに勝利を与えた。
勝利の証しとして、死んだことの確認もしておいた方がいい。
パウロのいう「肉の業」が出来るかどうか、やってみよ。
死んだ者にとって、「肉の業」は消滅しているため、行うことが出来ない。
キリストを復活させた神の力を体験し、キリストと共に死んだという、パウロが言った意味がこれで、分かる。
パウロは、ローマ7章で自分の中の罪の力の話をし、8章で罪からの解放の話をした。
彼は、すべての者を獲得したいがために、すべての者のようになった。
しかし、彼は、罪の奴隷ではない。
なぜなら、神の霊が彼を支配していたからだ。神の霊が支配していれば、肉ではなく、霊の支配下にある。
だから、このことを知れ!パウロは、罪を犯していなかった。
ローマ7章を曲解してはいけない。「わたしは何をしているのか、わからない」と言ったのは、罪の力をわからせる「たとえ」なのだ。実際に罪を犯していたわけではない。
さて、あなたも自分の衣を子羊の血で洗って白くしてほしい。
もし、白く出来たら、本物の福音(愛だけでなく聖さも)他の人たちに伝えてほしい。
水と霊によって生まれた人、新しく創造された人は、自分の衣をイエスの血で白くした。
その人は、本物の宣教者だ。
アーメン