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よくフィジカルの話をするよね〜と言われた

私は心身二元論を信じている。というかしっくりきている。
心身二元論とは、平たくいうと「人は魂と肉体でできている」という考え方のことだ。「心身二元論」という言葉を知らなくとも、心身二元論の考え方に馴染みのある人は多いんじゃないかと思う。

「おのさんってよくフィジカルの話をするよね〜」と友達に言われた。
いや、わたしに言わせればみんながフィジカルの話をしなさすぎるのだ。

自己肯定感を上げるにはどうしたらいいか。低い自己肯定感にはどんな背景があり、どう対処すればいいのか。
ストレスの多い社会の中で心穏やかに過ごすにはどうするのがいいか。自分を大切にするとはどういうことか。
というような議論はわたしのまわりではよくされている。人気トピックだ。だがこれはいずれも魂の話であって、肉体の話ではない。

わたしの中では、これらと同じくらい肉体の話がされて然るべきだということになっている。体力をつけるにはどうしたらいいか、効果的な筋トレは何か、何を食べるのが体にいいのか、といった個体の肉体の話も、大柄であることや小柄であることが存在にどのような影響を及ぼすのか、というような社会の中での肉体の話も。

魂は人気トピックだが、肉体は少なくともわたしのまわりでは不人気トピックのようだ。みんなあまり話さないし、わたしがペラペラと喋っていると「あなたはよくフィジカルの話をするね」と言われたりする。同じくらい魂の話をしていても。

魂は人気トピックなので、魂のカテゴライズは流行るが、肉体のカテゴライズは流行らない。なんならちょっと差別的ではないか、とすら言われたりもする。私の中では肉体も魂も「当初は生まれもった要素が大きいが、時が経つと後天的な要素により左右されるもの」ということになっているが、肉体的なカテゴライズは差別的、精神的なカテゴライズはそうでない、と広く受け入れられているとすると、世では肉体は先天的、精神は後天的だと思われているのかもしれない。

フィジカルが違えば世界の見え方は違う。
歩ける人と歩けない人、目がいい人と目が悪い人は、程度はあれど世界の見え方が違う。それと同じように、大柄な人と小柄な人、体力のある人とない人、丈夫な人と虚弱な人は、同じ世界に住んでいても世界の見え方は異なっているはずだ。
他者を理解するためにはフィジカルの話を避けて通ることはできないと思う。こういった状態でわたしはそうは思わないけどあなたはそう思うんだね、という魂の話と同じように、わたしの肉体はこれくらいの負荷なら全然耐えられるけど、あなたはそうでないから気をつけたほうがいいね、というように、肉体の差異を考慮に入れて他者を理解したほうがいい。「え!?そんなことでバテてるの!?わたしは全然平気だよ」ばかり言っていても仕方ないというか、意味がない。
わたしは体力がありよく食べるほうなのだが、学生時代友達と一緒に旅行に行き、わたしのペースで食べたり観光したりしていたら、わたしほど体力のなかった友達は体調を崩して寝込んだ。あれはわたしも友達も、我々のフィジカルの差異を考慮していなかったから起きた事故だ。20代の元気な女性ふたりなら、同じことを同じくらいこなせるだろうとふたりとも思い込んでいたのだ。それ以来わたしはひとりで旅行に行くことが多くなった。

こういう事故が起こるので、わたしはたとえみんながフィジカルの話をしてくれなくても、わたしだけは虚空に向かってフィジカルの話をし続けるつもりでいる。「わたしはこういう人間です」という説明を、精神と肉体両方の面からしているだけだ。体が大きく、力が強く、よく食べてよく寝る人間です!と独り言を言いまくっていたからなのか、体力を要する旅行やたくさん食べるイベントなどに声がかかるようになった。体力あります!よく食べます!と独り言を言っておいてよかったと思う。

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