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高野山旅行記 煩悩を置いていく荷造り

高野山の宿坊に泊まりにいく。
世界遺産である高野山を堪能したかったのと、和歌山初上陸を果たしてみたかったのと、たまには仏教的価値観に埋没してみたくて。

一泊二日の宿坊荷造りだが、つい先日トルコ8日間から無事帰還したばかりなので、一泊二日ごときの荷造りを完全になめきっている。

そういえばトルコ旅行では、1年ぶりの海外旅行ゆえに、結構たくさん荷物を持っていってしまい、結局一度も使わなかったものも多かった。
今回は一泊二日であるし、国内なので、何か物足りなかったとしてもいくらでもリカバリーが効くだろう。ということで、今回はできるだけミニマルな荷造りをしてみた。

まずは絶対に必要なものを入れる。
現金とクレジットカードと保険証が入った財布、スマホ、スマホの充電器。絶対に必要なものというとこれくらいだ。
次に、なくてもギリギリなんとかなりそうだが絶対にあったほうが良いものを入れる。替えの下着、靴下、Tシャツ。常備薬。歯ブラシ。

……荷造りが終わってしまった。
待て待て、本当にこんなに少ない?さすがにもうちょっとなんか持っていくべきものがあるんじゃない??

高野山観光時の行動に想いを馳せる。
山の天気は移ろいやすいと聞く。天気予報は曇りだが、折り畳み傘と撥水パーカーを入れた。
高野山は山であるので虫が多いと聞いた。虫除けスプレー。

コスメも入れようとしたところで、そういえばコスメ(というかメイクという行為)って、煩悩じゃない?ということに気づく。

仏教においては、高位の者ほど着飾らないというルールがある。

http://www5a.biglobe.ne.jp/ivy/butukokoro.html

上から如来、菩薩、明王、天(部)である。
如来や菩薩に比べると、明王や天(部)はなんかジャラジャラしたりゴテゴテしたりしている。

尊格が高い、つまり修行によって欲から解放された者ほど、着飾らなくなる。着飾ることはそれが他者宛の、あるいは自分宛の見栄であり、見栄とはよく見られたい、よく見られる自分でありたいという欲望から生まれる。修行を積み、悟りに近づいた者ほど欲望がなくなるわけだから、見栄をはって自分を飾り立てることもなくなるのだ。

そしてわたしの荷造りの話に戻る。
メイクは考えれば考えるほど見栄だ。顔としての機能はすっぴんで完成されているのに、それを見栄えよく整える行為がメイクだからだ。したがって宿坊泊にコスメは不要だ。煩悩の塊だから。

トルコ旅行で大活躍した自撮り棒も煩悩だ。如来は自撮りとかしない。

着圧ソックスは煩悩……煩悩か??一瞬煩悩かと思ったが、着圧ソックスとは、脚を細くするためのものではなく、元来はむくんだ脚を癒すためのものであるので、煩悩ではない。

ネイル補強オイルは……ネイルは煩悩といえそうだが、単に爪を潤し強くするためのネイルオイルはギリギリ煩悩ではなさそうだ。

コスメは煩悩だが、日焼け止めは煩悩ではない。日焼けも度が過ぎると軽度の火傷になる。ドライアイ対策の目薬も煩悩ではない。
スキンケア用品は煩悩……煩悩??

アクセサリーは100%煩悩。服と靴以外の着飾りグッズは煩悩以外の何者でもない。ダメ。

「これは煩悩か、煩悩でないか?」という斬新な尺度を手に入れたわたしの荷造りは瞬く間に完了した。こんまりの「ときめくか、ときめかないか?」よりも明確である(ような気がする)し、断捨離のときの基準としていいかもしれない。

これは煩悩です!という荷物を削ぎ落とした結果、一泊二日とはいえ、荷物がとても少なくなった。デイパックの半分にも満たない量だ。普段いかに煩悩で荷物を増やしているのかということは明示的にわかったのでよかった。

煩悩のせいで増える荷物はとても多い。
イスタンブールで青い服が来たいと思うのも、モスクで可愛いスカーフを頭に巻きたいと思うのも煩悩だ。
夏だからこれこれこうなフレッシュなメイクがしたいと思うのも煩悩。
旅先でお気に入りのかわいいアクセサリーをつけたいと思うのも煩悩だし、人に見せられるような髪型にするためにヘアスタイリング剤を使うのも煩悩だ。
さらに旅行先で買うおみやげなんて煩悩もいいところだ。これまでそれがなくても生活できたのだから、そのおみやげはいらないもの、不要なものだ。いらないのに何らかの理由があって欲しがるのは欲望であり煩悩だ。

たかだか数日の旅行の荷造りですらこんなに煩悩によって選ばれたモノが幅を効かせるのだから、我々は普段煩悩によっていらないものを(いらないが、欲望としてそれを欲したものを)相当買いまくっていると思う。家にあるあれもこれも究極的にはいらないのだ。
先月、ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』を読んだ。雑に要約すると、女の欲望と、男の見栄が資本主義の生みの親である、という本だった。女が何かを欲しがる。すでにそれを持っているが、より上質なそれを欲しがる。そして、男は女の欲望を叶えることによって女を獲得し、獲得した女によって男同士で見栄を張る。
ゾンバルトの説く資本主義は近代初期の資本主義であったが、この男女の性愛と見栄で資本主義のサイクルが回っているのは現代資本主義も同じだと思う。

現代的資本主義の中に生きる我々が贅沢、すなわち煩悩から完全に逃れるのは難しい。煩悩を前提とした経済サイクルの中に我々の生活が組み込まれているからだ。この煩悩をできるだけ取っ払いたいと願うなら、それこそ古典で読んだ平安貴族たちのように出家などして俗世から離れるほかない。俗世にいながら煩悩を捨て去るのは本当に困難だ。

仏教的な煩悩を、現代風にノイズと解釈すると、ミニマリストが流行る理由もわかる気がする。貧乏だからではない、ノイズを避けたくてモノを、さらにはモノを欲しいと思うその気持ちを捨てるのだ。ミニマルな生活は出家と同義となる。身を悩ませるものから己をできるだけ遠ざけ、自分の身のまわり、自分の近辺だけに最低限の注意を払って生きていく生活だ。

トルコに行ったときのスーツケースは、どこに何が入っているか荷造りをしたわたし本人ですら完全には把握できていなかった。
が、煩悩センサーに引っかかったモノをすべて削ぎ落とした高野山行きのリュックサックは、どこに何が入っているかわたしは完全に把握している。この自分のまわりのごく小さい範囲での全能感が癖になるとミニマリストであることは快感だと思う。

と高野山のある和歌山へ向かう途中、東京駅でこれを書いているが、家を出る前に手癖で自分の頭にヘアクリップをつけてきたことに気づいた。ヘアクリップは煩悩か?誕生日プレゼントにもらった、ALEXANDRE DE PARISのヘアクリップ。フランスでひとつひとつ手作りされているため、普通のヘアクリップより上質で高価だ。かなり贅沢の資本主義、かなり煩悩の香りがする。

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