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図書館を使うことにした

今月の給与明細を見た。先月は残業時間が多かったので額面の給与が毎月の給与の1.5倍近かったが、徴収された額も相当多かった。

そういえばこんなに税金が引かれているのに、あんまり公共サービスを使えていないな、と思った。さらに、先月のクレジットカードの利用明細には、バカにならない金額を書籍費として使った記録が残っていたことも思い出した。
そうだ、図書館へ行こう、となった。

家から歩いて5分程度のところに区立図書館がある。大きい図書館ではない。
わたしが今読みたいと思っている本のほぼ全てが、その図書館には置かれていなかった。区の中央図書館にはあるようだった。
図書館の予約サービスを使って、中央図書館にしかない本を、最寄りの図書館で受け取る予約をした。土曜の夕方に予約をしたのだが、日曜の午前には最寄りの図書館から電話がかかってきて、「予約の本が届きましたので取りに来てください」とのことだった。Amazonより早い。

本の受け取りついでに最寄りの図書館をしばらくうろうろした。
「民俗学」のコーナーには、背表紙がピンク色の育児本、子育て本しかなかった。柳田國男の本は一冊もなかった。言われてみれば育児や子育てって民俗だな、と思った。

休日の図書館にはいろんな人がいた。自転車のヘルメットをつけたままの小学校低学年とおぼしき子供もいたし、ひとりできている中高年の男性や女性もいた。勉強室には学生らしき若い人たちが多かった。カウンターでわたしの前に並んでいた上品そうなマダムは、三島由紀夫『仮面の告白』の文庫本1冊だけを借りていた。
公共の場には階層がない。それが公共が目指すところだからだ。だから色んな人がいる。わたしもその「図書館にいる色んな人」のひとりに過ぎない。わたしの職場は丸の内にあり、国内有数のビジネス街である丸の内には基本的に同じような属性の人しかいない。「丸の内で働いている人」だ。程度の差はあれど、皆こぎれいな格好をして颯爽と歩いている。その辺の区民図書館のように、ヘルメットを被ったままの子供が走っていたり、受験生がいたり、いかにも休日のお父さんといった様子の気の抜けたおじさんがいたりはしない。
小中高大と難関私立に通った人が「世の中の人の平均偏差値は60くらいである」と、頭ではその理屈が明確に誤っていることは理解できるものの直感でそう思ってしまうことがあるように、丸の内OLを続ければ続けるほど、しかも丸の内以外で過ごす時間は少なければ少ないほど、「世の中の人間はだいたい丸の内で働いている」みたいな破綻した感覚に浸ってしまいそうになることがある。そんなわけないんだけど。これはかなり危険な感覚だと思う。なぜならそんなわけないので。

あんまり偏った感覚を持ちたくないな、持っているとしても「わたしが持っている感覚は偏ったものである」ということに自覚的でありたいな、と思う。偏りを偏りと自覚していないときに自己と自己以外の乖離が起こる。そしてその乖離に苦しむ。

民俗学といえば当然柳田國男だと思っていた。
が、わたしの最寄りの図書館がある生活圏ではそうではないのだ、ということがよくわかった。

元図書館員だった姉に聞くと、図書館にもある程度のすみわけがあるらしい。中央に近い図書館ほど専門的な本が増える。逆に、中央から離れたら離れるほど軽い読み物のような本が増えていく。柳田國男の本は中央図書館にはあるが、わたしの家の近所の図書館にはないのだ。
図書館の利用者には階層がないと感じだが、図書館同士ではある程度の階層はあるようだ。上等劣等の階層ではなく、フォーマルからカジュアルのような階層だ。

あんたが読みたがるような学術本はもっと中央に近い図書館に行かないとないよ、と姉から教わった。ということで国会図書館の利用者申請をしてみた。国会図書館にはありえないほど大きいカレーを出す図書館があるらしい。利用者申請が通ったら難しい本を読み、大きいカレーを食べたい。

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