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装いの意味

いつもちゃんとした格好してるよね、と言われることがよくある。

制服から解き放たれた大学時代のときからすでにそう言われていた。

そう言ってもらえるのは嬉しいが、そもそも「ちゃんとした格好」って何なのだろう、と思うこともあった。

服を着るのは何のため

まずは捕まらないため。現代人は服を着ないままその辺をうろついていると捕まる。着衣は現代人ならば必須のエチケットだ。

次に、外気温から身を守るため。暑い季節、寒い季節、冷房がよく効いた部屋、それぞれ必要となる装いは違うはずだ。

最後に、人の目を楽しませること。

この最後の装いの目的は、「自分は人の目なんて気にしない、好きな服を着ている。人のために服を着るなんて虚しい」と思う人もいるだろう。あくまでわたしの装いの目的は、という話をしている。

人の目を楽しませるといっても、何も奇抜な格好をしたり人目を引くほどのおしゃれをする、という話ではない。

その場において、人を不快にさせない、できれば人があら素敵ねと思ってくれるような服装をする、という意味である。

たとえば、夏場。
わたしは露出の多い服装は好きではない。
これはわたしが自分の体型に自信がないからではなく、汗ばんだ肉体をこれみよがしに見せつけられたら暑苦しいという気持ちがわたしの中にあるからだ。なのでわたしも他者に汗ばんだ自分の肉体を見せつけたくない。

近年の東京では、暑い日は40度を超える。
そのような暑い日には、わたしは体にまとわりつかないオーバーサイズのコットンやリネンのワンピースやスカートを着ることが多い。ワンピースは裾から風を通すので涼しい。コットンやリネンは汗を吸ってくれるので、不快感も少ない。
足は素足にサンダルを履く。生爪だと彩りが物足りないと感じるので、赤やターコイズブルーのペディキュアを塗る。

この服装ならばわたし自身も涼しいし、見る人にも涼しげな印象を与えると思う。これを「見る人を楽しませる」ことと呼んでいる。
わたしは「他者にどんな印象を与えるか」で服を選んでいるということになる。

四季があると人を喜ばせる装いが容易い

日本に帰国して驚いたことのひとつが、日本人の四季への感覚の鋭敏さである。

近年は温暖化で夏は暑く、冬は寒くなる傾向にあるが、それでもなおわたしから見ると日本人は四季感覚を大切にして、服装に落とし込んでいると思う。

たとえば、春と秋はさほど気温が変わらないが、好まれる色合いが違う。
春であれば、ピンク、黄色、淡い緑などの瑞々しさを感じさせるパステルカラーが好まれる。
一方で気になると、ボルドー、マスタードなどのこっくりとした重みのある色が好まれる。

春ならばこんな装いが、秋ならばこんな装いが好まれる、とある程度決まっていることは、人を楽しませる服装選びにおいてはメリットになる。

冠婚葬祭での服装

服選びがもっとも制限されるイベントのひとつが、冠婚葬祭だ。
冠婚葬祭における服装はもはやマナーとしてある程度固まっており、自由が効く部分が少ない。

わたしの母は、冠婚葬祭での服装マナーに厳しい人だ。
母はわたしが成人してからというもののずっと「いい大人になったのだから、早く喪服を買いなさい。パールのネックレスとイヤリング、布の黒いハンドバッグとパンプスも揃えなさい。真っ黒なコートも1着は持っておきなさい」と言ってきていた。

親族が亡くなり、お通夜と葬式を行なった知り合いがいる。

彼女が言うには、最近はお通夜であっても喪服を着てくる参列者がほとんどであるとのことだった。

ただ、その喪服のディティールがあまりにもチグハグで粗雑な人が多いと感じたとのことだった。

お通夜では、服装は自由だが、喪服を着てくる人も多い。喪服を着てくるならばコートやバッグや靴も喪服に合ったものに揃えるべきだが、お通夜だから気が抜けてしまったのか、白っぽいコートを着てきたり、靴が黒いパンプスでなかったり、カバンが革製品であったりして悪目立ちする人が少なからずいたとのことだった。

それに比べてあなたはちゃんとした格好をしていたね、と言われた。ここでもやはりそう言われた。
冠婚葬祭での装いに厳しい母親に感謝である。

「ちゃんとした格好」の正体

それは、「その場においてどう見られるかを意識した服装」なのだと思う。

どんなに自分の好きなファッションであっても、それがその場に相応しくないのなら、「ちゃんとした格好」とは思ってもらえない。

いい年の大人であれば、その服装がまわりの人にどう見られるか考えられて当然、という考えが我々の心のどこかにあるのだと思う。

ちゃんとした格好をしたいなら、服を選ぶときに考えるべきことは、自分の体調でも、自分の気分でも、今日のラッキーカラーでもない。

今日自分はどこに行って何をするのか、どんな行動をするのか、誰と一緒なのか、などである。
これにはかなり想像力を要する。
そしてこの想像力は、経験の積み重ねからしか生まれてこない。
あのときはあの服を着て行って失敗したな、あのときはあの服を褒められたな、という経験が想像力の源になる。

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