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Bosnia and Herzegovina-ボスニア・ヘルツェゴビナ

サラエボには、バシュチャルシアという名前の旧市街がある。

旧市街には、相当昔からあっただろう白い石畳が敷き詰められ、歴史を感じさせる古い建物が立ち並ぶ。旧市街は、歩行者天国になっている一つの通りを中心に広がるように作られていた。

旧市街は、二つの部分によって構成されている。

半分は、トルコを小さくして切り取ったような風景だった。モスクやミナレットの特徴的な屋根や塔が空に突き出し、低い階層の重厚感のある木造の建物が隣り合わせに長屋のように、びっしりと建てられている。

通りの残り半分はオーストリアンハンガリアン帝国の時代に作られた。ウィーンにありそうな石造りの、頑丈で彫刻が施された背の高い建物が、これまた隙間なく立ち並んでいた。

旧市街の真ん中に、これらのヨーロッパの風景とトルコの風景がはっきり分かれる地点がある。

その地点には「ここから先はヨーロッパ。ここから先はアジア。」と石畳にマークが刻まれている。

旧市街のメインストリートにはそれなりにいつも人がいて、朝から深夜まで賑わっていた。

全身をつま先まですっぽりと黒い服でまとい、目の部分だけが見える女性が列をなして歩いているかと思えば、その横をアメリカのポップスターを思わせる肌も露わな女の子が真っ赤な口紅をつけて歩いている。

人種は多くが白人で、ごく稀に他の人種を見かけた。

男性も女性も、映画に出てきそうな整った顔立ちをしている人が多い。

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サラエボは盆地で風の通りが悪く、いつも空気が淀んでいる。

時にあまりの空気の悪さに咳き込んでしまう。

旧市街は、色々な匂いに満たされていた。街のあちこちでふんわりとした心地よい濃いコーヒーの香りが漂う。一方で、多くの人々が喫煙家で、タバコの煙がカフェやバーに立ち込めていない時は無い。道端には伝統的な肉料理、チェバッピを出すレストランが並び、その肉を焼く炭のような香ばしい匂いが通りを隔てた場所にまで漂っていた。

苦手だった香りは水タバコだった。サラエボの人々はムスリムが多いのでアルコールを飲まない。変わりに水タバコを多くの人が嗜んでいた。甘い苺を思わせる人口香料の香りのついた煙が、行く道に壁を作り出す。壁を通り抜けると、むせそうな甘い空気が鼻から肺に入りこむ。

週末は、旧市街のモスクの近くにある小さなパン屋さんで、1コロナで買える大きなパンを買うことにしていた。1つの小さなパンの周りに6つの小さな丸いパンをくっつけて大きなリングにした、片腕で抱える程の大きなパン。1コロナは60円くらいだ。

ワンコイン、それもたった100円にも満たない硬貨で買える大きなパンをカウンターのお姉さんから渡される度、なんともいえない満足感に自然に顔がほころんでしまう。

「フバーラ(ありがとう)。」

「モリーム(どういたしまして)。」

サラエボは、どこも物価が安くて、食材が美味しかった。パンの他に街の中心にある魚屋さんへ行き、新鮮な魚があれば購入する。そして、肉市場へ赴き、鶏肉と、なかなか入手が難しい貴重な豚肉も買う。

これが毎回の買い物パターンだった。

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旧市街の通りには、土産物屋が軒を連ねる。その多くが、金物のコーヒーセットを売る店だった。

この地で有名なボスニアコーヒーは、コーヒーを作るための小さなカラフェのような金物の入れ物にコーヒー豆の粉を入れ、水を注ぎ火にかけ沸騰させて作る。

火からおろした後、カラフェの中で粉が沈殿したら上澄み液だけを金物の小さなカップに注いで飲む。トルココーヒーのような濃厚なタイプのコーヒーで、味と香りが強く、ざらざらとした細かい粉を口の中に感じる。

多くの人々がエスプレッソの大きさのコーヒーを数時間もかけて、角砂糖をなめながら飲んでいる風景によく出会った。

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金物のコーヒーセットを売る店の他には、カラフルなビーズでできたサイフやバッグを売る店、サッカーのユニフォーム、ポストカード等、他の国でも土産物屋でよく見る物を販売する店が多かった。

そして、何故か1984年に開催されたオリンピックの狼のマスコットが未だに現役で、至る所に描かれているし、販売されている。まるで、当時の栄光にしがみついているかのように。

トルコランプやカーペット等を販売する店もあった。まるでアラビアンナイトに出てきそうな色鮮やかな衣装や敷物、家具等の商品を揃えた店舗は、眺めるだけでわくわくと心がときめく。

そして、この街はグルメな街でもあった。あちこちに軒を連ねるレストランでは、トルコを彷彿とさせるボスニア料理や、イタリア料理がよく出てくる。安くておいしいそれらの店は、独りでも通ってしまう程に満足度が高かった。アルコールが提供されない店が多いのが難点だったのだけれど。

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道路を下を向いて歩いていると、「サラエボのローズ」が目に入る。サラエボのローズというのは、紛争中に迫撃砲により殺害された人がいた場所にできた迫撃砲の跡に、赤い樹脂を流し入れたものだ。

まるで、こびりついた血が未だに広がっているかのようだった。

上を見上げると、建物の壁には銃弾の跡があちこちに残っている。まるで、銃撃戦は数日前に終わったばかりかのように。

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ボスニア・ヘルツェゴビナは、とても複雑な国だ。

ボスニア・ヘルツェゴビナという国は、2つの構成体から成る。1つの国に2つの国が存在するのだ。

ボスニア・ヘルツェゴビナとは別の、もう一つの構成国の名前は「スルプスカ共和国」という。この国に来る前は、ボスニアという国とヘルツェゴビナという国の2つなのかと勝手に考えていた。

スルプスカ共和国の国境内に入ると、同じ国なのに全ての表記がアルファベットからキリル文字に変わる。ボスニア・ヘルツェゴビナと、スルプスカ共和国の国境は、時に危険な地帯に変わることもある。

ボスニア・ヘルツェゴビナ内には、大きな都市が3つあった。

イスラム教徒が多く住むサラエボ。クロアチア系キリスト教徒が住むモスタル。そして、スルプスカ共和国内のセルビア系住民が多いバニャルカ。

それぞれの街が、それぞれの民族の中心都市のような役割を果たしていて、まるで首都が3つあるかのようだった。

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しかし、これらの三民族は、利用している文字は違っていて訛りの違いはあっても、基本的には通じ合う同じ言語で話している。しかし、「民族」と「宗教」でカテゴリー分けされた彼らのそれぞれの心の間には、相当な溝がある。

90年代の戦争では、これらの三つの民族が三つ巴の戦いを繰り広げたのだと言う。今では、国際機関の監視の下、「これらの民族は仲良く暮らしている」、ということになっているが、お隣さんとの間で煙がくすぶるような話を何度も聞いた。

三民族による足の引っ張り合いは政治的に如実に反映されていて、日常の至るところに影響が出ていた。大統領さえ三民族から選出され、8カ月ごとの輪番制なのだ。

ボスニア・ヘルツェゴビナに着いてすぐ、この複雑な状況に影響を受けた社会システムのせいで役所をたらい回しにされたこともあり、なかなか普通に生きるのが大変そうな社会だなと思ったのが正直な感想だった。

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家に帰り食材を冷蔵庫にいれた所で、友人が車で迎えに来た。

今日は友人がモスタルという街に行くと聞き、ついでに乗せて行ってほしいと頼んだところだった。

モスタルは、サラエボから車で2時間少々の距離にある。クロアチア系住民が多い都市だ。

友人は、アスールという。ちょい悪風おやじ、という言葉がぴったりはまる。白髪混じりの髪の毛を短くカットしていて、無精ひげが生えていた。いつもタバコを吸っていて、彼が通った後はタバコの匂いがする。彼もまたクロアチア系キリスト教徒だったのだけれど、彼は戦争が終わってから神を信じなくなったのだと言う。

今はどの宗教の施設にも入らないというポリシーを持っていた。

アスールは、運転が荒かった。ボスニア・ヘルツェゴビナの人々は運転が荒い人が多い。

彼は、スピードを上げた車で、反対車線に入って、前の車に追い越しをかけるのをさも得意げにするのだけれど、恐怖を通り越して脳が壊れているのではないかと思う程、対向車線の車が目の前ぎりぎりに近づくことがあった。さながら映画のチキンレース。

サラエボ近郊は、山道が多く、崖に道路が作られている。崖の上からの景色は絶景と呼べる程に地上から遠い。そんな崖の上の片側車線一本の道路で、100キロ程のスピードで追い越しをかけるのだ。たまったものじゃない。

車に乗っている間、助手席でドアの上の取っ手に必死にしがみつき、吐き気を催す程の緊張を味わわねばならなかった。

たまらず「スピードを緩めてくれない?」とお願いする。しかし、彼が「少し」落としたスピードは、未だに私にとっては猛スピードだった。額にも手にも、じっとりとした汗の玉がにじむ。モスタルに着いた頃には、私は既にぐったりしていた。

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モスタルという街は、本当に美しくて、おとぎ話に出てきそうな街だ。

数時間しか離れていないというのに、サラエボと違って空気が澄んでいて、空がとても高い。既に地中海気候であることを感じさせる。

街は、きらきら輝く美しいエメラルドグリーンの川を挟んで両岸に広がっていた。遠くから見ると所々にミナレットが空に突き出している。

旧市街の中心では、観光名所になっている丸いアーチ型の橋が両岸を結び、その周辺の岩山にはたくさんのレストランが川を望むように作られていた。橋は、戦争で一度壊されてしまったものを復元したのだと言う。

橋の両岸には、土産物屋がずらりと並ぶ。どこも同じような商品なのだけれど、カラフルで眺めて見ているだけでも楽しい。商品のバラエティは、サラエボよりも多い。

観光客はクロアチア他、様々な地域から一日だけのエクスカージョンで来ることが多いのだろう。ここでは、ボスニアコロナとクロアチアクナ、そしてユーロも流通していた。

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街の中心部には、戦争で廃墟になった建物がそのまま残されていた。ショッピングセンターも駐車場も、激しい銃撃戦の中心であったことを如実に物語っている。穴だらけどころか、コンクリートがぼろぼろに崩れ落ちている。

あちこちに、壊れたままの住宅が生い茂る草に囲まれて残されていた。「オーナーが出て来なくて、何もできない不動産が多いらしいよ。紛争が終わって随分経つけれど、まだまだ戦後処理はかかるだろうな。」とアスールは言う。

日差しが強くて、太陽が突き刺さるような感覚がある。一通り観光をしたところで、カフェに立ち寄った。

「俺はEU市民なんだ。だから、いつでもこの国を出ていけるんだけど、出ていかない。やっぱりここが俺の故郷なんだよね。」とアスールが話し出す。

「戦争中、俺はサラエボに住んでいたけど、戦況が悪くなったら、逃げられるようにクロアチアパスポートを持っておいた方がいいって誰かに言われてね。危険だったんだけど、クロアチアパスポートを取れたんだよ。母親はクロアチア人だから。父親はボスニア人だったけどね。だから、今はクロアチアとボスニアの両方のパスポートを持ってる。」

「その時クロアチアの役所は動いていたの?」

「色々ツテを使って人に頼んでね。どうにか発行されて、パスポートは入手できたんだよ。ラッキーだった。まぁでも色々あって、俺はボスニア軍で働くことになったんだけど、途中で事情が変わってね。最終的には俺はクロアチアのスナイパーになってた。」

「じゃあ、サラエボの人達も撃つことがあったってこと?」

「そう。紛争が始まった時は、サラエボにいたけど、全然分からなかったよ。紛争が始まったと聞いて、気づいたらもう街中が戦争状態になってた。利口な奴はすぐに国を出たよな。のろのろしてたら取り残されちまった、そんな感じだった。紛争が終わった時もよく分からなかったなぁ。俺にとってはただサバイバルしてたってだけ。遠くから人を撃つことに慣れてね。人は風船みたいなもんだ…。」

アスールは胸元からタバコを取り出して、火をつけた。

彼は、普段からとても饒舌で、戦争の事を話したがるように聞こえるのだけれど、饒舌に話していて途中で突然口をつぐむ。まるで脳は思い出すのを拒否しているみたいに。

アスールのように、先祖を遡ると、先祖は別の民族が混ざっていることは多い。DNAレベルで言えば、恐らくこの国の人々は皆同じようなDNAを共有している。

「今はラマダンだからムスリム共は、朦朧としてんな。店も閉まってる所あるし。ちっともやることに意味ねえ断食なんかして、昼間朦朧としてるなんて、本当にくだらねぇ。」

アスールは、タバコの煙をふーっと吐き出しながら、吐き捨てた。

英語で話しているとはいえ、それなりにムスリムのいるこの町でのこの発言は暴言も甚だしいのだが、彼にとっては恐らく全ての宗教心が敵で、憎しみを吐き出す対象だった。彼は、いい人なのだが普段から口がとても悪い。言ってはいけないことを止められない。一緒にいると、なんとも居心地悪く感じることがあった。

ラマダンは一か月程続くのだが、この期間ムスリムの人々は、日が出ている間は食事をしない。水も飲まない人は飲まない。場合によっては、朝4時くらいから夜8時半くらいまで日が出ているので、日中は体力的に辛い人もいるだろう。

「人を撃つのに慣れたらなー、戦争にいるのが普通になってくる。感覚が変わるんだ。それから俺は雇われ傭兵になって、他の国でも戦うようになった。儲かるんだよ。傭兵は。一回やるだけで家が買える。」

アスールは、嬉々として笑いながら話し続けた。マンガに出てくる傭兵キャラのようだった。

「でもしばらくして、奥さんにやめてくれって言われてね、辞めたんだ。平和になったもんだよ。だけどね、たまに行きたくなるんだよ。なんでなのか分からないんだけど。戻りたくなる。」

午後はアスールが親戚の家に行くと言っていたので、私は他の友人と会う予定を立てていた。それまで時間がある。

時間つぶしに街を歩き、少し市街から離れたキリスト教会に入った。中に入ると、驚いた。壁に飾ってある全ての絵が虐殺を示唆する絵だったからだ。しかも、どれもアマチュアな絵で、血の描かれ方が何ともおどろおどろしい。驚いた顔をして壁を見つめるアジア人の私に、神父が話しかけてくる。

「辛い記憶を忘れないように、この地域で起こった事を絵の形で記録してるんです。地元の人々によって記憶を元に描かれた絵なんですよ。二度と戦争はしてはならないという戒めでもある。」

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夜会う約束をしていた友人は、語学学校で以前知り合った友人で、アミラと言った。たまたまモスタルにいるのが分かって、連絡を取り、会うことになったのだった。

彼女は薬学部の学生だった。ムスリムだったけれど、ブルカはかぶっていない。茶色のウェーブのかかったボリュームのある長い髪の毛がゆらゆらと揺れていた。いつも物静かでゆったりと話すのだけれど、しっかりとした言葉で発言する女性だった。

レストランで待っていた私の前に着席すると、日が沈んだら手をつけるわ、と言いつつウェイターに水と食事を頼んだ。

「昼にね、ちょっと時間があったから、教会に行ったんだけど、虐殺の絵が全面に飾ってあって、びっくりしたの。この国はまだまだ心の傷と戦ってるのね。」と私が言うと、アミラは「んー」と言いながら少し黙り、静かに話し出した。

「私は、戦争中に生まれたの。サラエボで。父と母が住んでいたアパートにも銃弾は飛んできていて、毎日たくさん人が死んでくのを目の当たりにしていたけど、それでもまだその辺りには住民はそれなりにいたんだって。そんな中、お母さんは私をアパートで生んだの。」

「アパートで?自分達だけで?」

「そうみたい。私は兄弟が2人いるんだけど、父母は毎日必至で家族を守ったみたい。ムスリムって名前で分かるものなんだけど、名前でムスリムだと判断された人が近所から連れ去られたりすることもあったみたい。もちろん連れ去られたら、殺されちゃっただろうし、やっぱりそんな生活を何年もしてたら、戦争が終わってもなかなか心が切り替えられないと思う。」

「そうだよね、その時代を生きた人はトラウマだよね。」

「私たちは戦争は経験してないけどね、やっぱり戦争の話は普段からいっぱい出て来るし、民族ごとに教育が分かれてたり、色々と複雑なの、この国。あっ、時間が来た。やっと飲めるわ。」

携帯電話を覗き込みそういうと、アミラは運ばれてきた水をゆっくりと飲み、前菜に手を付ける。

「でも、もう戦争からは随分経ったし、若い人は色々もっと前向きにやりたいって思ってるのよ。でも政治は難しいわね。この国の政治は、ちょっと社会がうまくいかない原因になってると思う。皆、若い人はね、この国の仕組みが変わらないことに苛立って、国を出て行ってしまうの。」と自嘲気味に笑う。

確かに、ボスニア・ヘルツェゴビナの若者は、出稼ぎに出てそのまま帰らなくなってしまっている、というニュースを耳にしたことがあった。

「私がたくさんの語学を習っているのは、このためなの。色々な言語が話せれば、西ヨーロッパで雇ってもらえる可能性が高いから。でも、私は最終的にはここに戻って来たい。他の国で学んだことを、家族のいるこの国で生かしていけるようにしたい。」

この国で出会う多くの若者は、こういう前向きなエネルギーを持つ人が多かった。

一方で、ある世代から上と話すと、どうも政治的な発言が多かったり、戦争によって抱えたトラウマから抜け出すことができず、他の民族との間でいさかいを起こしそうな発言を耳にすることが多かった。このネガティブな空気は、どうしてもあちこちに漂っていて、若者だったら自分達が現状を打開できないもどかしさや、もやもやした感情を抱えるだろうと、滞在時間の短い私でも感じた。

「確かに、他の国で学んだこと、そのシステムや雰囲気ごと持って返ってこれたら、そういう若い人がどんどん増えたら、色々と変わっていくのかもね。」私は、ふわりとした答えを返したけれど、この国がそんな短期間に大きく変わることを想像することは難しかった。

その夜は、モスタルの旧市街の小さな3回建てのブティックホテルに泊まった。昔からあった石造りの建物を最近ホテル用に改装したんだろう。部屋に入った瞬間、まだ新しい建築材の匂いがした。部屋には、モダンな白黒の絵が数枚飾られている。部屋のすぐ外にある木製の階段は作りが軽く、人が歩く度に大きくきしむ音が鳴り響く。

何故かシャッターが半分閉まった、少しだけ開かれた窓からは、外で騒ぐ若者の声が聞こえてくる。ベッドに横になり、ぼんやりと外にあるオレンジ色の街灯を見つめる。

戦争の真っ只中にいるって、どういう感じなんだろう。

殺せと言われたって、きっと私は殺せない。殺るか、殺られるか、という選択肢を問われた時、私はどうするだろう。相手は近所の知り合いで、見た目も似たような人間なのだ。戦うだろうか。

守らなくてはならない人間がいたら、戦うかもしれない。

うとうとと眠りに着いたところで、スピーカーから大音量で流れるアザーンに起こされた。4時前後だった。アザーンはイスラム教のお祈りだ。モスクがある所では、各モスクのミナレットから大音量のアザーンが一日5回流れる。アザーンは必ず男性により唱えられ、お祈りを唱える人により聞こえがかなり違う。どうやら、私の泊まったホテルはモスクのすぐそばで、特別元気な祈祷者のお祈りに当たったらしい。彼のアザーンは、強く張りのある声で最後の言葉をピンッと跳ねさせるタイプだった。私は、彼はきっととても健康で元気な人なんだろうと思った。

朝食後、来た時と同じようにアスールの車に乗り、また恐怖と戦いながら帰路に着く。またもやサラエボに着いた時には、手に汗をびっしょりかいていた。

旧市街の横で車から降りると、丁度昼時で町中からアザーン、キリスト教会の鐘、そして他の色々な宗教施設の鐘が重複して鳴り響いていた。長い時間をかけて育てられた、それぞれの宗教文化が、自分達の種類が他と違うことを主張し合う音

近くに見えるモスクは、毎週金曜日の午後にはお祈りをしにくる男性でいっぱいで、車両がいつも道路にはみ出ているのだけれど、今日は車は止まっていなかった。

家に着くまでの間、頭の中をぐるぐると考えが巡る。

私は、バルカン地域のエキスパートでもなければ、この地域の歴史を深く学んだことも無い。そして戦争を経験したことも無いし、戦争のような危機的な状況にいたことも無い。

全くこの地について素人外国人の私には、異なる文化を表面的に学ぶことは面白かった。ただ単に、自分の文化と違うから、学ぶ対象として興味深かった。そして、目の前にある複数の文化が、それぞれまた互いに異なるから面白かった。

一方で、この地域において同じようなDNAを共有し合う人々同士が殺し合うきっかけになったのが、宗教と民族を元に、互いが「異なること」を認定し、分類別に人々を分けた制度の結果だった。

もし宗教、民族を分ける術が無かったら、どうだったんだろう。それでも人々は何かしら種別をつけて戦う相手を決めて紛争しただろうか。そういう時期だったんだろうか。

そういえばサラエボ事件も、この地で起こっている。1914年、もしフェルナンド公が、パレードで他の道を走ったら、第一次世界大戦は起こらなかったかもしれない。それでも、やっぱり積年の恨みつらみを持った勢力同士のぶつかり合いで、他の事件が起きて戦争をしていただろうか。

IFを話しても仕方ないけれど、殺し合いを避けられた過去は無かったのだろうか、と考えてしまう。

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家に着き手早く昼食を済ませると、普通のコーヒーが飲みたくなり、コヴァチ通りの坂の途中にあるMinistry of Ćejfに向かった。このカフェはかわいらしい見た目で、店の前に数席のテラス席が用意されている。

夏はこの場所で、外でゆっくり香りの良いラテを飲みながら甘味の無いキャロットケーキを食べ、オレンジ屋根の並ぶ旧市街の素敵な風景を眺めつつ本を読む時間が私のお気に入りだった。甘いデザートばかりのこの街で、ここのケーキだけは優しい、安心する甘さだった。

旧市街の景色を眺めていると、真っ黒な衣装で全身をすっぽりと包み込んだ目だけをのぞかせた女性が、物珍しそうにこちらを見ながら坂を上がって来て、私と目が合った。隣にいるTシャツ短パンの男性と一緒に目の前を通り過ぎていく。

アジア人は珍しいので、目立つのだろう。この地域では物珍しく話しかけてくる人がいたり、差別的な言葉をかけて来る人に出会うこともあった。女性は目を伏せ、そのまま過ぎ去っていった。

私は、あんな黒い衣装を身にまとって暑くないのかな、と考えていた。あの衣装を着るのは、あの女性にとっては守られているような感覚なんだろうか。心地いいんだろうか、それとも不快に思う時もあるんだろうか。それとも毎日のことだから、何も考えないのだろうか。

私は、以前イスラム教に対して、強いステレオタイプを持っていた。9.11が起きた後すぐにアメリカの大学に留学し、メディアから流されるイスラム=過激な原理主義、危険な人達というイメージをそのまま素直に吸収していた。

しかし、実際のところ、イスラム教を嗜む人々と話すと、そんなイメージとは全く異なる人々ばかりだった。時にとても気性の荒い人に出会うこともあるけれど、大抵は穏やかで、過激集団とは似ても似つかぬ、のんびり、ふんわりした雰囲気を持った人が多かった。実際、過激な集団に属する人はもちろ会ったことが無い。あの黒装束の人も、隣の男性も、きっと話してみれば至って普通だ。

そして私がイスラムの世界の人々と関わるようになって一番興味深かったのが、一人ひとりルールの解釈が違う点だった。お祈りの仕方、ラマダン、豚肉、酒、服装、生活様式全てに至るまで、同じ地域でも厳しい人から緩い人まで様々で、色々な地域の人々と話して、個人個人のルールと、それに伴う感情、考え方が異なるのを知っていくことは面白かった。

日本を出て住むようになって、宗教の在り方には本当に驚かされた。他の国には、宗教省が設置されている国もある。いくつかの国では、宗教は政治、外交と一体だった。

私は自分自身を、戦後育ちの実に平均的な日本人だと思っている。生まれた時は神社でお宮参りをし、お盆には仏教寺に墓参りに行き、クリスマスを祝い、新年は神社で新年詣でをし、結婚式は神道と西洋式両方、そして死ぬときは仏教寺に埋葬される、という宗教色が強い国からすると、ちょっと不思議かもしれない、日本の普通の社会環境で育った。

そして、他の多くの東京に住む日本人と同じように信仰心が薄いと思っている。今まで生きてきて、この地の多くの人々のような信仰心の強い人々と関わりを持った時間は短い。

もし戦前に生まれていたら、この考えは違っただろう。神風特攻隊が成り立つ程に天皇は神であり、崇拝されていた。あの時代に育っていれば、私も日本の神を崇拝していたに違いない。

外国に住むようになってから良く聞かれることがあった「宗教は何か?」という質問には、「神道と仏教を少し嗜む無宗教」と答えている。宗教色の強い国では、無宗教と答えると神について説かれることもあって、面倒だった。

信仰心の薄い私からすると、宗教を中心とした生活を送り、宗教や文化背景が元で対立し合う人々を理解することは難しい。どうして、神に振り回されて行動様式を変えるに至るのか理解ができない。理解できないけれど、それぞれ勝手に信じてやりたい事をやればいいと思うし、それが心の支えになるならば、それで結構だと思う。それで、お互いの信仰心を尊重して、仲良くすればいいじゃないか、と思う。

しかし、長い歴史をかけて育まれた、異なる信条を持つ者同士のお互いへの感情というのはそんなに単純じゃないらしい。言語が一緒でも、だ。

互いの文化を尊重しようと努めたって、ステレオタイプは生まれ続けるし、異文化間のいさかいは生まれ続ける。そして、それら全てが政治に反映され、社会システムまでもが影響を受ける。

この地では、信条、背景が異なる者同士が、お互いを認識しつつ生きていくことの難しさを毎日のように目にする。

信仰心を理解できないことで既に混乱している私の脳は、どうしてこの地の社会システムは信条を優先し、物事を複雑化させることを許しているのか、と更に混乱した。生活に支障が出る程に複雑なのだ。

どの土地でも、他文化への寛容な精神を育むべきであることは間違いない。けれども、それだけじゃこの民族らの溝は乗り越えられないように見える。積年の、積りに積もった歴史の上に発生するべくして起きた紛争。そして、それが終わっても、まだくすぶり続けるわだかまり。

単一民族の日本で、戦後平和の象徴となった天皇の下、近所の誰とも宗教的な繋がりの無い新興住宅街で育った私にはきっと、一生理解することはできないんだろう。

彼らのこだわりや、許せないこと、絶対に譲れないポイントが何なのかを。


本に目を落としていた視界の端に、動く物が見えて、ふと顔をあげると、対面にある椅子に茶色い猫がぴょこんと飛び乗って、こちらをじっと見つめてくる。

私はテーブルに左手の肘を立て顎支えながら猫を眺めた。この街はのら犬とのら猫だらけだった。

猫は自身の右手をひとしきり舐めた後、椅子の上で丸まって眠り出した。

猫の後ろには、旧市街のオレンジ屋根が連なる。

こんなにも、穏やかな時間が流れている。

ここが戦場だったなんて。

嘘のような平和な時間。


宗教も民族も政治も全部乗り越えて、この平和がずっと続けばいいね、と猫に向かって心の中でつぶやく。


この地で生きる人々がずっとずっと幸せに生きられますように。


神様なんているかどうかわからない。

わからないけれど、神様に願いたい希望を心の中で唱えた。

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こんにちは、れとです。

この物語は、私がサラエボに滞在していた記憶を元に、実際に現地で出会った人々を元に創作しています。

最後の写真は、サラエボのお墓です。墓石は、紛争中に亡くなった方のものがほとんどです。こういう墓地が町中にあり、公園にも墓石が建っています。

戦時中、埋める場所さえ足りなくなって、どこもかしこも墓場になりました。


まだまだ戦後から脱却していないボスニア・ヘルツェゴビナ。

この国は、本当に複雑極まりなく、本当に色々と大変な国です。

外から来ると、現地の人々や仕組みを理解するのも一苦労。一緒に過ごしていて、現地の人々の行動に違和感を感じる瞬間も多く、仕事を一緒に行う上でどうすればうまくいくのかと頭を悩ませたことが多くありました。良い経験でした。

一方で、感性の柔軟な若者は本当に元気で情熱的。インターネットのおかげでこれだけ国境が薄くなった今、様々な知見、視点を得た彼らの下、新生ボスニア・ヘルツェゴビナになったらいいね、という希望も持っています。

今は遠くから、いつまでもボスニア・ヘルツェゴビナの人々を応援しています。

もっとボスニアに興味がある方は、こちらの記事もどうぞ。

>>>【ボスニア・ヘルツェゴビナ】サラエボおすすめ観光名所をお散歩

写真:れと

参考地図:Ontheworldmap.com

☑ おすすめのレストラン

Dzenita↗ ボスニア料理

Cakm pakm↗イタリア料理

Ministry of Ceif

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