あの鼈甲色のおしゃれ眼鏡と自意識の話
中高生のとき、おしゃれな眼鏡をかけることができなかった。
学生時代のわたしは真面目で勉強ができ、先生からも覚えめでたい優等生だった。少なくともそう自認していた。
中高生のころ、伊達メガネがファッションとして流行っていた。当時読んでいたSeventeenでは、キメにキメたモデルさんが外しアイテムとして伊達メガネをかけていたものだった。
今思うと、あの時期はおしゃれ眼鏡誕生期だったのかもしれない。視力矯正器具ではなく、ファッションアイテムとしての眼鏡が世に認められ始めた時期。
眼鏡屋で母が、「昔は地味な眼鏡しかなかったけど、最近はおしゃれな眼鏡がたくさんあるんやなあ」と感心していたことを思い出す。
わたしは中学から視力が下がり始め、高校生になる頃には裸眼で黒板の文字を読むことは難しいほどの視力になっていた。
眼鏡屋に行くと、おしゃれな眼鏡がたくさん並んでいた。黒縁のスタイリッシュな眼鏡、メタルフレームかつエレガントなデザインの眼鏡、テンプルが大理石柄の一癖ある眼鏡……。
その中でひときわ気に入ったのは、鼈甲柄のプラスチックフレームのボストン型の眼鏡だった。
それはまさにファッション雑誌の中のモデルさんがかけていたようなオシャレな眼鏡だった。試着してみると、わたしの顔にもよく似合っていた。
しかし、そのときはたと思った。
真面目な優等生である(とまわりから見られているであろう)わたしには、おしゃれ眼鏡はそぐわないのではなかろうか、と。
真面目な優等生がかける眼鏡といったら、フレームの素材はなんだって構わないが、無地で地味なものと相場は決まっている(少なくとも当時のわたしは本気でそう思っていた)。真面目な優等生は真面目な眼鏡をかける。おしゃれは眼鏡なんてかけないのだ。
きっとこのおしゃれ眼鏡をかけて学校に行ったら、まわりは驚くかもしれない。わたしのキャラじゃない眼鏡だから。急に色気づいたと思われるかも。
そう思うと、そのおしゃれな眼鏡は買えなかった。
結局わたしは真面目な優等生に相応しい真面目な眼鏡を買った。その眼鏡を学校にかけて行くと、クラスメイトたちは「似合ってる。より頭がよく見える」と褒めてくれた。そりゃあそうだろうよ、そういう眼鏡を選んだのだから。
真面目な優等生であるところのわたしは真面目な眼鏡をかけるべきで、おしゃれ眼鏡をかけるべきではない。おしゃれ眼鏡は流行に敏感なキラキラ女子にこそ相応しい。わたしには似合わない。
その思いは大学生になってもあった。大学生なんてみんなほとんど大人なのだから、キャラと違う眼鏡をかけたことで何か言ってくるような奴などいないだろうに、なぜだかわたしは頑なにおしゃれ眼鏡を避けていた。
だが、そんなわたしにも転機が訪れた。
それは就活中だった。1dayインターンに参加すべく、紺のリクルートスーツとトレンチコート、3cmヒールのパンプスで家を出て駅に向かった。
だが、改札も目前というところで立ち止まってしまった。どうにも足が動かなかった。どうしても面倒くさかった。インターンに参加すること、そのためにこれから電車に乗ってオフィスまで行くこと、全部が途方もなく面倒くさく感じられた。
わたしは踵を返してノロノロと家に帰って横になった。インターンの担当者である人事には急病のため欠席させてくださいと電話した。その嘘を信じてもらえていたのかはわからないが、体調を心配してくれる人事の方に罪悪感を覚えた(その節は大変申し訳ありませんでした)。
そして、これまでこういった重要な予定を当日キャンセルしたことなどなかったから、「わたしもドタキャンとかすることがあるんだなあ」と妙に他人事のように感心してしまった。
その日の昼食にはドミノ・ピザをとった。ピザを食べながら、終活のせいで消化できていなかった、録り溜めたアニメを観た。
アニメを観ながら、「わたし、全然真面目じゃないな」と思った。真面目な優等生は、インターンを当日に仮病でキャンセルして、ピザ食べてアニメ観たりしない。
「真面目な優等生」という自己認識が音を立てて崩れていった。
真面目であるというアイデンティティをすっかり失ってからは、なんの躊躇いもなくおしゃれ眼鏡を買うようになった。だって真面目じゃないもん。真面目じゃないのに真面目だと思いこんで好きな眼鏡が買えなかった学生時代の自分よ、お前はアホであった。
つい先日、少し奮発してトムフォードのとてもおしゃれな眼鏡を買った。おしゃれ戦闘力53万の、金色の金具が映える黒縁のボストン眼鏡だ。眼鏡は顔につけるものなので、戦闘力は高ければ高いほどいいだろう。
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