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レモンから #シロクマ文芸部

 レモンから始まった。

 たわわに実っているレモンの木々を眺めながら彼女は思っていた。この瀬戸内海に面した潮風の吹く街に引っ越してきたのは10年前のことだった。今では夫と二人、立派なレモン農家になった。

 ずっと好きだった彼がある日家に招いてくれた。下心は大有りだった。既成事実を虎視眈々と狙って、あれやこれや準備して出掛けていった。なのに彼の目には私はチラッとしか写っていないようだった。なんであの時家に招いてくれたんだろう。今でも不思議だ。羊の皮を被った狼のフリならまだしも、羊マトリョーシカのような人だった。思い出のレモンのパスタを作ってくれて、それがすごく美味しかった。無邪気に笑いながら、レモンを絞った彼。覗き込んでいたせいでレモンの飛沫が目に入って泣いていたら、ちょっとだけ困った顔をしていたっけ。

 その後、本格的に失恋して、傷心旅行でこの街にやってきた。恋愛のゴタゴタした気持ちなんか馬鹿馬鹿しくなっちゃうくらいの抜けるような空と潮風に、昼間っからビールをプシュッとしたりして、上等な休暇を過ごしていたら、電話がかかってきた。酔いも手伝って、ついつい

「私はここでレモン農家になりますから、送ってあげますよ、レモン」

と言ってしまった。そして今ここにいる。後悔なんてしていない。だって、レモンは可愛いし、空も風も大好きだ。農家の仕事は大変なことも多いけど、隣には大好きな夫がいる。あれ、そういえば、あの人どこに行ったんだろう。

「下田さ〜〜〜〜〜〜ん」

「ねえいい加減にして。
 せめて、旧姓下田さ〜〜〜〜んって呼んでくれる?」

 仕事を辞めて、この地に住み着いた私を追いかけてきてくれた人。それが夫だ。愛してるなんて甘い言葉は囁かないけれど、私を呼ぶ声、触れる指、包む視線、全部から、私のことが好きで好きでたまらないことがわかったし、今も変わらない。この人との暮らしはかけがえがなくて、隅から隅まで愛おしい。例え「下田さ〜〜〜〜ん」と呼ばれても、この〜〜〜〜〜〜の部分に愛を感じるんだから私も相当イカれてる。

 なのに今もまだレモンのパスタを作って、一口目を食べるときだけ胸の奥がちくんとすることがある。これを人は未練と呼ぶのか、それとも、若気の至りと呼ぶのか、よくわからない。ただ一つだけはっきりと知っている。

 レモンから始まった。この幸せが。

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小牧部長、今週もよろしくお願いいたします。
これを書いていて、部長が以前紹介されていたロミロミのレモンクッキーが食べたくなりました。ポチッとしちゃおうかしら。

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あやしもさんのレモンから広がったレモンたちの隅っこに加えていただきたくて、書きました。あやしもさんが作ってくれた相関図、めちゃくちゃ活用させていただきました。(活用した感じが出てないけど、実際とても役に立ちました)

コッシーさんのスピンオフを読んでいて、つい

「章なんて、レモン農家になってしまえ!」と思ったところから始まりましたが、一番幸せになってほしい下田さんを主人公にさせてもらいました。コッシーさん、下田さんをお借りしました。ありがとうございます。

たくさんの方がスピンオフを書かれています。どれも素敵な作品ばかり。あやしもさんがまとめてくださっているので、ぜひみなさんこちらから愛しきレモンたちをお楽しみください🍋

いただいたサポートは毎年娘の誕生日前後に行っている、こどもたちのための非営利機関へのドネーションの一部とさせていただく予定です。私の気持ちとあなたのやさしさをミックスしていっしょにドネーションいたします。