マルコ福音書・「金持ちの男」のくだりから

先日、某オンライン講座にて新約聖書を読んだ時のこと。そこに出てきた内容で、ちょっと驚いたくだりがありました。

マルコ福音書に、お金持ちの男が「自分は旧約に書かれていることは全て守っているが、永遠の命を頂くにはどうしたらよいのでしょうか」とイエスに尋ねる場面があります。

そこでイエスは、「財産を売り払い、貧しい人々に施せば天に富を積むことになりますよ」と言うのですが、お金持ちの男はさすがにそれは出来ないと立ち去っていきます。

イエスは、財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことか、と言われたそうです。

そうねぇ、それは難しいわぁ・・・けれど、洗いざらい寄付しないと、イエスは神の国に入れないと言っているし、困ったわねぇ、と思って聞いていると、中世の神学では、次のように解釈したそうです。

こうしたイエスの言葉は、「福音的勧告」であり、全ての人がこれに招かれているのではないとのこと。つまり、全ての人が何もかもを捨てて神に仕える(例えば修道院に入る)ことを促されているわけではなくて、そういう生き方をするべく選ばれている人もいれば、そうではない人もいる、という考え方があるそうです。

そして、聖書のある1か所に書かれていることを、絶対にそうでなければいけないと読んでしまうと、キリスト教的生き方が非常に偏ったものになってしまうことがあるので、1か所の記述からそれが聖書全体の考え方なのだと思い込まず、バランスを取って受け止めて解釈していく必要がある、ということでした。

こうした解釈も、キリスト教の柔軟性の高さを示しているんだな~と思いました。

全てを投げ打って祈る修道士のような生き方は、今の私にはできないです。

それ以前に、日常生活においても、時間が無かったり、体力が持たなかったりして、今はやりたいことの6割程度しかできていないなぁ、と思います。

世の中は長引くコロナ禍で、気軽に何かできる状態でもないですが・・・

しかしそれでも、いつか落ち着いた暁には、今の自分にできるやり方で、何かできるといいよなぁ・・・とぼんやり思っている今日この頃です。

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