鍵盤の鬼
世に出る演奏を持ちながら、世に出ることなく去った。
「○○先生は、いつから入ってるんですか?」
ドアが開いた。
「御無沙汰してます」
『江戸川くん、ポカリ買ってきて』
「あ、姉さんちょっと」
『いいから買ってきてよ』
小銭を渡してきた。
相変わらず練習の虫だ。
顔を合わせるのは当日やリハーサルの会場だけで、楽器店で会うことは少なかった。
持ってるレッスンも曜日が違う。
年下ながら、僕よりだいぶ前に師事した。
東京芸大のピアノ科出身の姉さん。幼児の頃からヤマハっ子。
僕とはまったく違う、それでも同じ先生に師事し、残った弟子は姉さんと僕だけ。
ピアノ講師として、僕はまだ駆け出しだった。
"鍵盤の鬼"は僕がつけた姉さんの異名で、生徒が知ってるほど内輪で広まった。
姉さんはひたすらに練習していた。
弦のように細い、綺麗な人だった。
そんな姉さんが30歳を手前に退職する。
先日師事も終えた。
コンクールの実績もそれなりにあって、掲載されるプロフィールは華々しい。
しかし、ピアニストとして世に出ることはなかった。
最後のレッスンを終えた姉さんに、花束を渡すために楽器店を訪れた。
『見送り?それ渡して【告別】でも弾くんでしよ。幸せになれとか言って』
「お疲れ様です。姉さん、5番に入りませんか?」
『そこでいいんじゃない?』
定員2名の2番に入った。
「一応言いますね。考え直しませんか?」
『もう手続きした…。何か弾くの?』
「はい」
『替わって』
「えっ?僕が上(右)に座るのはちょっと」
『替わって!』
姉さんが弾いてくれる。
並んで見たことはない。
【ラフマニノフ−ピアノ協奏曲第2番】
演奏が始まってすぐに気づいた。
姉さんは僕に求めている。
この曲はコンチェルト。
なのに姉さんが弾いているのはソロ・アレンジではなく、原曲のピアノパートだけだ。
僕に求めている。
ピアノ弾きにしか分からない、なんて強く官能的な誘いだ。
流石と言うしかない。
派手なムーブメントを使わずに、速さと技術で物語を描いている。
芸大らしい固い演奏だとも言える。
この人が姉であることを誇りたい。
ピアノに青春を捧げた姉さん。
師から女としての甘えを指摘され、狂ったように練習を重ねた。
細い体が反動を殺しきれない。
ピアノ演奏は全身運動。
脱力状態の打鍵には、相応の反動が伴う。
姉さんがキャリアの最後に、僕に見せてと求めている。
第1楽章を弾き終えると、二人は明確な意志を持ってポジションを入れ替えた。
【ショパン−ワルツ 嬰ハ短調 Op.64-2】
同じフレーズが6度現れる。
ピアノに限らずソロ演奏において、繰り返しの部分は表現が難しい。
3回目
『Brillante』
姉さんから指示が出た。
[Brillante]は「輝かしく」という意味の発想記号。
ここは[Piu mosso]が一般的だ。
4回目
『Piu Brillante』
僕が憧れ、追い続けた姉さん。
姉さんの真っ直ぐなピアノが大好きです。
ツィーグラー奏法でいう理想音には、諸先輩方が挑んだが、それでも答えとされるまでには至らなかった。
ピアノの音はハンマーで叩いた弦の振動。
鍵盤で操作するには物理的な限界がある。
それゆえ音を追求するツィーグラーは、宗教論のそしりを免れかった。
しかしそれはあった。
いや、ないと言うべきだろうか。
極端な技法で、音をそのように錯覚させることが出来る。
感性に委ねた結果として、体現しているピアニストは幾人も存在する。
5回目
応じます。
あやかしの様な技法を、師から受けました。
姉さんには申し訳なく思います。
2フレーズだけ弾かせてください。
Museに愛されなかった姉さん。
これが答えです。
C#を打ち終わった僕の右手を、姉さんがポンと叩いた。
『なーんだ、キッズみたいじゃん。期待しちゃったよ』
「まだ2割しか弾けなくて」
『人のこと[鬼]とか言っといて、江戸川くんは[悪魔]だよね』
「すいません、ハハッ(笑)」
『悪魔のように…美しかった。先生を頼むね』
涙を流す姉さんを置いて2番を出た。
僕は受付に預けた花束を引き取った。
誇り高い鍵盤の鬼に、花束なんか添えてたまるか。
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