love once upon a time ⑲

昨日浴衣で寝た結果は、とちゅうでおへそより上、胸あたりまで肌がかゆくなってしまいパジャマに着替えました。しばらくは昼間着るようにしようかな~。

車の免許をとったのは1999年。マレーシア、クアラルンプールのホテルで1年働き、円稼ぎに一度帰国を決めてホテルを辞めた。帰国するまでの間暇な時間があったので免許を取ることにした。
教えてもらったのはDannyだったかな、なんか名前違う氣がするけど。マレーシアは個人の教官と契約して教えてもらう。教える資格を持っている人は「L」の文字を看板とかに書いてあって分かる。Dannyのお兄さんの漢方屋さんは住んでいたコンドミニアムから見えて、漢方で痔を治すのかひどい痔のおしりの写真がショーウィンドウに飾ってあった。ここに入ったら痔だと思われるなと思ったけど一番近かったのでここにした。Dannyは中国系。1時間いくら、も交渉するんだけどわたしはRM22だったと思う。マレー系の男の子はノートをのぞいてみたらRM16だった。まあそんなものだよね。
当時はコンドミニアムの近くに広い空き地があって、まずはそこでグルグル回ったり8の字に走ったりする練習をして、2日目か3日目には路上に出た。行くのはDannyが行きたい鳥の籠屋さん。美しい籠だけ買っていたのか、鳥も飼っていたのか、それが彼の趣味だった。彼が行きたいところにわたしが運転する。Dannyはすっかりリラックスしている。渋滞の中、わたしはN、ニュートラルに入れても車が動くと知らなかった。そういう基本的な情報は0で路上を運転していた。Nに入れて、安心してブレーキも離すとうしろのタクシーにコツンとやさしくぶつかった。「あれ?」と思ったらDannyはすっごく怒ってうしろのタクシーに怒鳴り込もうとしていた。横にいたバイクのおじさんが「ぶつけたのはこのお嬢ちゃんだよ」とDannyに伝えた。Dannyはめっちゃ怒ってたけどわたしも「え~~~~それ常識なの!?教えてよ~~~」と思っていた。
テストを受けるタイミングも自分で決める。もういいかな~と思ったらDannyにテストを申し込んでもらう。日本と同じ、教習所内と路上。教習所では韓国人の女性とお喋りした。彼女はこどもの留学に付き合っていっしょにマレーシアに住んでいた。当時わたしはそういう留学スタイルを知らなかったのでとても驚いた。
教習所内のテスト、縦列駐車で車がエンストして「終わった、、」と思ったけど「いつもエンストするから大丈夫」と続けられて無事全部受かってその日のうちに免許をもらった。当時免許は長いもので10年まであった。今でもそうなのかな、、。

その後帰国して実家は駅から11分なので全然運転せず次にマレーシアで仕事が決まるまで運転しなかった。次の会社では車や社宅が支給されて(ガソリン代も定額支給)車通勤だった。日本人社長に「全然運転してません。」と言ったらさいしょの2日間は運転猛練習になった。マレー系の事務のおばちゃんが横に乗ってくれて社宅と会社を何往復も練習した。「このモスクが見えたら左折するの。」と教わって初めての道を走った。ここでまたサイドブレーキを入れたまま社宅まで走ってしまい社宅でブレーキを踏んでもブレーキが焼けちゃってきかなかった。機転をきかせておばちゃんがキーを抜いてくれたけどそうじゃなかったら社宅に突っ込んでいた。社宅は渋滞がなければクアラルンプール中心部から40分くらい走った郊外にある住宅地にあった。1軒屋で、慣れれば普通なんだけどうちっぱなしのコンクリートの壁、すべての窓に格子がついていて「刑務所みたいだな」と思って最初はちょっと怖かった。ホストファミリーの妹や友達はみんなクアラルンプール中心部にいたのでナビもなかったけど必死に運転して会いに行った。1年ちょっと住んだかな、結局この社宅とはあまり相性が良くなくて、会社にコンドミニアムの1部屋を持っている課長さんがいて「住む?」と聞かれたのでそこに引っ越した。家賃いくら?と聞いたら「いくらがいいの?」と聞かれて、また日本人社長にいくら払ってもらえますか?と聞いて会社と交渉してもらった。場所はものすごくローカルだったけど新しくて住み心地がよかった。
ホストファミリーの家 → 大学の寮 → 1部屋だけ借りたコンドミニアム → ホテルの1部屋 → 会社社宅1軒屋 → 会社社宅コンドミニアム、帰国してからも親の会社の1部屋に住まわせてもらったりしてずっと借りぐらしのアリエッティみたいな生活だった。

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