「さよならを言うために」(恋愛小説)

こんにちは。久しぶりに小説のアップロードです。この間完結したものです。


親子ほども歳の離れた二人の恋愛を描きます。

全部で9話、文字数としては6万字弱となります。

※作中に未成年による喫煙や、青少年にとって好ましくないとも取れる表現がございますが、話の筋を明確にするための表現ですので、それらの行為自体をこの小説は推奨・容認するものではございません。そちらはご理解下さい。


この小説は、「小説家になろう」にもアップロードしております。

それでは、ご用意頂けた方のみ、お進み下さい。



一話 彼女の影



僕と彼女の出会いは美しかった。彼女はまだ十四歳で、僕はもう四十を過ぎていた。

その頃僕は、昔取った杵柄を活かして子供の家庭教師なんかをいくつか引き受け、その収入で細々と暮らして酒を飲んでいた。酒が好きなわけでもないけど、ほかにしようがなかったのだ。

いくつもいくつも日々が積み重なって、それは苦しみであり、僕はいつもそれをいなすことしかできない。そんな人生をもう四十年も続けていた。子供の頃、親はよく僕を可愛がってくれた。学生時代は成績も良くて、アメリカなんかに留学もしたし、仕事に就いても優秀だと上司に認められていた。でも、毎日少しずつ澱のように溜まっていく悲しみだけは、とどめようがなかった。どうして悲しいのかなんてわからなかったのに、僕は少しずつ少しずつ、自分が死に近づいていくのを感じていた。

一時はギターなんかも手に取ったけど、それはもちろんやり場のない悲しみからだと自分でもうわかっていたから、それが自分を蝕んで誘うのが見えたとき、僕は「ギターももうよそう」と家の押し入れに入れてしまった。

女や友達に困ることもなかったし、友達からは「頭の良い人」、「頼りになる人」として尊ばれて、または女からは「詩的な人」なんて言われたこともあった。どいつもこいつも勝手なはずなのに、僕は「頼むよ」なんて言われたら断れないし、「そばにいて」と言われたら離れる気にはなれなかった。でも、誰も本当の僕を見つめていてくれたことはなかった。なぜ僕がそんな孤独を抱えることになったのかなんて、僕にもわからなかったけど。

二十歳を過ぎてから何度か僕は自殺騒ぎを起こして、そのたびに僕の家をいつも訪れてくれていた友達は、「俺が来なかったら、死んでたぜ」と、ベッドに寝そべる僕に向かって言った。彼は他にも何か言いたげな顔をしていたけど、僕はそれにいつも、「悪いね」とだけ答えた。

僕の絶望は少しずつ育っていって、今では一足一足それが増えていくことで、街を歩くのだって辛かった。“今すぐ死にたい。”そう思いながらいつも歩いた。それに、そんな絶望を内に抱えながら家庭教師として子供に接するのは、もっと辛い。“でもそれもしようがない。僕にはもう勉強以外に腕を揮えるものはないんだから。”「優秀」と認められていた営業職には僕はある日とうとう耐えられなくなって、二十九のときにほとんど蒸発するように会社を辞めた。

それから十四年が過ぎ、元は東京のマンションに住んでいたのが、今は埼玉でアパート暮らしをして、出張家庭教師として暮らして生きている。

“なぜ生きているのだろう。まあそれはまだ生きているからだろう。”なんて当たり前のことを頭でなぞって、僕は自分をこの世に引きとめようと、必死に自分を喜ばせるのだろうものにしがみついて、何かを大切にしているような言葉を吐いては、家に帰って自分を“嘘つき”と罵った。


僕はあるとき仕事が終わってから、地元の駅近くの喫煙所を訪れて、煙草を吸おうとポケットに手を入れた。

「あれっ…」

ライターが見つからなくて僕がうつむきながらあちこち手を突っ込んでいると、不意に僕の前にオレンジ色の百円ライターが差し出された。僕は顔を上げる。そのとき、とても驚いた。ライターを貸そうとしてくれたのだろう人は、若い女の子だった。若いなんてもんじゃない。彼女は可愛らしくてあどけなくて、どう見ても成人には見えなかった。

「火、ないの?」

どこか子供のような覚束ない口調で、目の前に居た女の子がそう言った。この子からライターを借りるのはどこか気が咎めた。でも、煙草が吸えなくちゃ仕方がない。僕は「すみません、お借りします」と言ってそのライターを受け取り、愛煙しているピースに火を点けて吸い込む。

「ありがとうございました」

「うん」

やはりその子は子供のような返事をして、僕の目の前で灰皿の近くにうつむいて煙草を吸っていた。僕は思わずその様子を盗み見る。

その子は細い髪をショートカットにしていて、Tシャツの上にジャケットを着こんで、ジーンズと、それからちょっと洒落た細いスニーカーを履いた、ボーイッシュないでたちだった。その恰好には何か信念でもあるのか、化粧もしていない。それなのに、とびきり可愛らしかった。

大きな目、つまんだらなくなってしまいそうな小さな鼻と口、薄紅の頬は肌の薄さを感じて、でもその表情は、とても寂しげで悲しそうだった。

僕は、最後に読み取った彼女の隠しきれない悲しみの表情が、どうしても気になった。“それに、堂々と喫煙所に来られてしまうのは、彼女が若い悲しみから何かを投げ打とうとしているようで、誰かがそれを止めてやる方がいいだろう。”僕はそう考えていた。日頃いろんな子供たちと接していたからか、僕は彼女に対しても、「責任ある大人」として振舞おうとしていたのかもしれない。

「ねえ、何吸ってるの?」

なんと話しかけたらいいかわからなかったので、とりあえずは共通の話題を見つけて喋りかけてみた。するとその子は僕を訝しげに見てから、「セブンスター」とやはり素直に答えた。僕も途中からは馴れ馴れしい口調で話しかけてはいたけど、彼女はここまで一度も敬語を使っていない。それは人と距離をはかることをまだ覚えていない若い子に特有かもしれないけど、彼女はそれよりももっと何かわけがあるような、危うい空気をまとっていた。“なんだか、ナンパにあっても何も気にすることなく楽しそうについていってしまいそうだ。”それほどに、彼女は寂しそうだった。

「ふうん。ずいぶんきついね。それに、君だいぶ若いじゃない」

「うん。でも、あなたもピース吸ってる。もうずいぶん年取ってるのに」

“おっと、これは一本取られたな。”と僕は思った。確かに、僕の年齢までこんなにきつい煙草を吸っていれば、危ないのは間違いなく僕の方だろう。僕は苦笑して、それから彼女に、「これから暇?」と誘いを掛けた。多分それは、彼女が黙って見ていられないほどに悲しそうだったからだろう。結局は、僕が彼女をナンパしたのだった。

僕の地元は、ろくな街じゃなかった。それこそ歓楽街で、いかがわしい店ばかりだ。でも僕は若い子をそんな街で引っ掛けておきながら、自分が気に入っている純喫茶に連れて行った。そこは、僕たちが居た喫煙所からもさほど離れていない。駅前のロータリーを回って、酒瓶だのゴミ箱だのが道にはみ出したごみごみした裏路地につうっと入ってから少し歩くと、すぐに着いた。裏路地に張り出した店の置き看板にはお決まりの珈琲商社の社名があって、その上に「喫茶・ハーベスト」と書いてあった。

店内は地下なので、僕たちは階段を降りて行く。階段は狭くて急だ。僕は「気をつけて」と声を掛けたけど、やっぱり彼女は、どこかふらふらと頭と体を揺らしながら降りてきた。

店の入り口である磨りガラスのドアはいつも開け放たれていて、そこから小さく店内の様子が見える。遥か昔に色褪せ切ったのだろうビールのポスターや、この街の古い写真が貼ってあったり、低いソファとテーブルの隣には、高めのテーブルと椅子が据え付けてあったり。ヘンテコな取り合わせで統一のない店内はどこか油っぽく、壁紙は黄色くなっていた。

「ここ、よく来るんですか?」

僕はそのとき、“あれ?”と思った。急に、彼女が僕に敬語で話しかけたからだ。“どういうことだろう。さっきまではあんなに口ぶりまで子供っぽかったのに。”そう思って彼女を振り返ると、いつの間にか彼女はしっかりと大人の目つきで僕を見つめていた。僕はそれに気を取られて、入口近くにある会計レジ前でちょっとぽけっと立ち止まってしまっていた。すると、奥で洗い物をしていたマスターが顔を上げて、僕を見つける。長年の知り合いであるマスターは、「あら」と言って、ちょっと意味ありげな目で笑った。


僕たちは古ぼけて革が剥げてきた椅子に座り、二人掛けの席で向かい合って、珈琲とメロンクリームソーダを待っていた。彼女はどこか緊張しているように身を固くして座っている。僕はちょうど少しおなかもすいていたけど、なぜかあまり食事をする気になれなかった。“食事をするよりも、その前にやらなきゃいけないことがあるような気がする。”そう思って彼女の様子を窺う。そうだ、彼女のことだ。

さっき彼女は僕に向かって急に敬語を使って、大人みたいにしずしずと席に就いた。マスターが注文を取りに来たときも礼儀正しく、「メロンクリームソーダをお願いします」と言った。それはもちろんごく当たり前のことかもしれないが、さっきまでの様子とは違いすぎる。あの危うさが演技であったとは僕にはどうしても思えないし、危うくて、そしてしっかりしているなんていう二面性は、普通は誰も持たない。だとすれば彼女は今、僕に対してよそよそしくなったということだ。そこでふと僕は、あることに思い当たった。

この街には、“立ちんぼ”も当たり前に居る。だとするなら、もしかして彼女は僕のことを、「自分を買う客」として見ているのではないか?いや、きっとそうだ。そんな仕事をするにしては彼女はあまりに若すぎるけど、駅前でナンパをしてくる男が何を考えているのかなんて、ほとんどの女性は知っている。それでもついてきたのだから、彼女にとって僕は今、「客」かもしれない。でもさっきの彼女は、そんなことを知らなくてもついてきてしまいそうに見えたけど。どちらにせよ、“僕はそうじゃない”ことだけは伝えないといけなかった。

「メロンクリームソーダなんて、いつから頼まなくなったかな。そういえばさ、君はいくつなの?」

とにかく話を続けて、どこかで僕がこの子に対して、大人として責任ある気持ちで接したいと感じていることを言うつもりだった。

「十四歳です」

意外にも彼女は、正直に自分の年齢を言った。多分本当だろう。それにしても幼いとも見えるけど。それで僕は、「客」としての受け答えをされているようにも思えない気になった。「十四歳の子供だ」と聞いたら、男はみんな怖気づいて逃げ出すのが当たり前だ。“これはどうやら本当に世間知らずなだけかもしれないぞ。”僕はそう考えながら、ちょっとゆったりとテーブルに身を乗り出す。

「それにしてもさ、いくら行き先が喫茶店だったからって、こんなふうに大人についてきちゃダメだよ?」

すると彼女は不思議そうに首を傾けてから、一度笑ってうつむく。ゆるやかに背を曲げ、彼女は僕と同じように腕をテーブルに預けた。

「…実際に声を掛けてきた人に言われても…」

僕はまた一本取られた。どうやら彼女はものすごく正直者らしい。そりゃそうだ。確かにこの点について、僕の言葉に説得力などなかった。でもやはりこの言説は正しいはずなので、僕はもうひと口添えてみる。

「まあそうなんだけど、それは僕が君にただ興味があったからだよ。普通、街で声を掛けてくる男にろくなやつなんていないから、気をつけてね」

「はあ…」

彼女はどこか腑に落ちないような、少し悲しそうな表情で僕の言葉を聴いていた。それが「君に興味があった」という点なのか、「声を掛けられたら気をつけろ」の方なのかは、はっきりしなかった。そのとき、マスターがメロンクリームソーダと珈琲を乗せたトレイを持ち、革靴の底をカツカツと響かせながらやってくる。

「はい、メロンクリームソーダと、それからブレンドです」

僕たちはそれぞれ「ありがとうございます」と言ってマスターにちょっとだけ会釈をして、マスターは「ごゆっくりどうぞ」とだけ言って、カウンターの向こう側へと戻って行った。

彼女はメロンクリームソーダが来たのに、すぐにはそれにかからないで少し水を飲んでから、店の灰皿に手を伸ばす。それで僕は、自分のポケットの中身も思い出した。独り言のように「注文したものも来たし」と言って、彼女はまたセブンスターを口にくわえる。ひどく子供っぽい、そして実際子供である彼女がそうしているのは、違和感があり、見ていることさえ気が咎めた。

「こら、十四歳」

僕がそう言うと、彼女は噴き出して笑う。あ、やっぱりすごく可愛い。僕はそう思ってしまって、その気持ちを収めにかかった。僕はまず、どうやら様々なことに奔放で、世間知らずらしい彼女に対していろいろと教えてやりたいと思ったし、まだ彼女に手を出すなんて考えることもしたくなかったからだ。

「かたいこと言わないで。ライター貸してあげたじゃん」

“あれ、また戻った。”と、僕は驚いた。それから彼女の態度の変化で、「そうか。さっきのは、場を設けて話すことに緊張していただけだったんだ」と知った。喫煙所での二言三言なら相手の気分など気にする必要はないけど、喫茶店で差し向いで話すなら、いろいろ顔色を窺おうと緊張するだろう。それが初対面の、ナンパしてきた男ならなおさらだ。もしかすると彼女は本当に真っ当な感覚として、うすうす怖かったから距離を取ったのかもしれない。それなら、思っていたよりも心配はないかもしれないな。

でも、そうだとすると、この子は初対面の相手なら人並みに緊張はするけど、ちょっと寄り添えばあっという間にそれを解いてしまう子だということだ。そう思うとやっぱり心配だった。それに、一体何が彼女の心に触れたのだろう。むしろ僕は叱ったに近かったのに。

彼女はそのまま煙草に火を点け、それからメロンクリームソーダに乗ったアイスを食べ始めた。その毒々しいような光景に僕はちょっと目を逸らしたけど、すぐに彼女に目を戻した。彼女がアイスを頬張る様子は、またとても幼い笑顔になっていた。

「飲まないの?珈琲」

そう聞かれてはっと気づいた。僕は彼女に見惚れて、手元にある珈琲を忘れていたのだ。なんということだ。四十三歳が十四歳に一時でも夢中になるなんて。僕はあまり慌てていることを悟られないように、「飲むよ」とゆっくり言って、カップを持ち上げた。

それから彼女はあっという間にメロンクリームソーダを平らげて、「おなかすかない?かな?」と、どこか自信なさげにこちらを上目がちに見てきた。それは友達に対してこのあとの予定を相談するみたいで、僕は一体彼女にどう見られているのか、すっかりわからなくなってしまった。

「そうだね、いい時間だ。でも、もう家に帰る時間じゃない?十四歳」

「名前みたいに十四歳十四歳って言わないで。いいじゃん別に。おなかすいた!」

「わかったわかった。まいったな。美味しい店を知ってる。そこに行こう」

「やった!」

彼女は両手をぱちんと叩いて、嬉しそうに笑った。“目の前一面に花びらが舞うのを見たようだ。”僕はそう感じたけど、とても困っていた。初対面の十四歳にあっという間になつかれてしまったからだ。こんな子を放っておいたら、この先何に巻き込まれるかわからない。それに、この子の親は心配しないんだろうか?

店を変えて、やってきたのは馴染みのイタリアンバルだった。どうして飲み屋なんかに未成年の、それもわざわざ非行少女のような子を連れて来たかと言うと、僕自身が地元ではほとんどの店から「出入り禁止」と締め出されていたからだ。

僕はどの店でも、酒が飲める店なら二度三度飲み過ぎで救急車を呼んでもらって、騒々しいからと店長から「出禁」とされた。ファミレスでも、中華料理店でも、フレンチでも。そんなもんだから、まずこの子を連れて来る店がここと、そしてさっきの喫茶店しか残っていなかった。もちろん僕は今日は酒は飲まないが、ことによるとこの子が飲みたがるかもしれない。それは絶対に止めなきゃなと思っていた。

琥珀色のランタンに見立てた灯りが吊るされた店内は、カップル連れや友達仲間の集まりなどで賑わっていて、僕たちはなるべく人目につかない、隅っこの小さなテーブル席を選んで座った。ウエイターはメニューの冊子を置いておすすめのワインなどを教えてくれたけど、僕は聞いていなかった。彼女はその冊子を開いて写真や文字を見比べ、数十秒してから、「いっぱいあって、よくわかんない」と笑った。

また“意外だな”と思った。お酒を飲みたがるような気がしてたのに。もちろんそれを期待していたわけじゃないけど、それとなく彼女に、「煙草は吸うのにお酒は飲まないんだね」と聞いてみる。すると彼女は一瞬だけきつい目で僕を睨んでから、つまらなそうに横を向いた。

「お酒は嫌い」

そう言って横を向いたままうつむいた彼女は、もう何か酒に嫌な思い出があるように見えた。“おいおい嘘だろ。十四歳だぞ?”、僕は一体彼女がどんな人生を歩んでいるのかが本当に心配で、それから彼女にいろいろと聞こうと思った。注文を取りに来た店員には、スパニッシュオムレツとアヒージョ、それからマルゲリータを頼んだ。

「僕はさっき、“君に興味がある”って言ったよね」

「うん」

まだテーブルに水しかないときから、僕らは話を始める。彼女はもう機嫌を直して、僕の話に答えてくれた。

「でもそれはね、あまりいい意味じゃない。もし僕があの喫煙所で君に誘いをかけてどこかに連れ込もうとしても、大して抵抗はしなさそうに見えた。だから心配だったんだ。あれはもう八時過ぎてたしね。それに、あそこは喫煙所だ。中学生が来る場所じゃない。それに、そういうところに来そうな中学生は大体“反抗期まっしぐら”って感じで、自分の身を守ろうと必死に周りを傷つけるけど、君はそういう子にも見えなかった。つまり、あんまりに不可解で、かつ、やっぱり心配だったんだよ」

彼女は僕の話を聴きながら、またあの“腑に落ちない”顔をしていた。まるで、自分が心配されていることに気づいていないような。僕が口を閉じてから彼女はひと口水を飲み、「うーん」と唸ってから、こう言った。

「話はわかるけど…それ話すと、延々と続くよ?」

「えっ?」

僕は思わずそう口に出してしまった。まさかこんな幼い子に、“話し尽きない悲しみ”などがあるのだろうか?僕がそう考えているとき、彼女は自分の言ったことがおかしかったのか、くすくすと笑っていた。

「初対面の人に言うことじゃないかなあ。いろいろソーゼツだし。そんなことより、あなたのことを聞かせてよ。聞いてなかったね、名前は?」

そんな台詞を言いながら、たった十四の女の子がころころと楽しそうに笑った。僕はそのとき、もしかしたら無理にでも彼女のことを聞くべきだったかもしれないけど、それをしたら彼女が余計に高く壁を構えるんだろうことはわかっていた。

「あ、えーと、日下部文雄…君は?」

「藤田百合。ユリでいいよ」

「あ、じゃあ、僕は文雄…で…」


それから僕たちはウエイターが運んできた料理を食べながら、なんでもないことを話した。それこそ本当に天気の話や、近頃流行っている音楽の話、それから僕の仕事のことなどだ。彼女は「学校なんか行かないよ」と言って、自分の学校の話はしてくれなかった。僕は“そこにも何かある”と睨んで、オムレツを頬張る彼女を見つめていた。

あっという間に一時間半ほどが経って、途中映画や本の話もしたけど、そのとき気づいたことがある。彼女はまだ幼いのに、かなり古い本や映画についての知識がもうあった。それにそれらに対して、ほとんど大人が抱くのと同じような印象の、それでも少し未完成な観念を持っていた。僕がそれに対してひと口ふた口意見を添えると、彼女は感心したらしい顔で聴いてくれた。これも意外だった。ただの幼い子だと思っていたからだ。

そうして話し飽きて料理も食べ終わり、僕たちは店を出た。僕が自分の腕時計を見ると、安物の文字盤は夜十時半を指していた。しまった、話し込んでしまった。僕は前を歩く彼女に声を掛けて、家の近くまで送ることを提案しようと思っていた。すると、くるりと彼女は振り向く。

「楽しかったね!こんなに気が合う人って初めてかも!」

その言葉は、子供の食べる飴玉みたいに、素直に僕の胸に刺さった。彼女が振り返った勢いで前を開けたジャケットがはためいて、ショートカットの髪もふわっと浮き上がった。それから彼女はにこにこっと笑って、今では男を口説くときの常套句として使われているような文句を言ってみせた。それなのにときめいたのは、多分僕が、“彼女は気を利かせようなんて考えないような子だ”と、知っていたからだろう。

「メッセやってる?交換しようよ」

僕は彼女のその言葉に大人しく従って、連絡先を交換してしまった。それから僕は彼女を家の近くまで送ることにしたけど、彼女は「いいよ、もう一人で帰れる!」と子ども扱いされているのだと勘違いして怒っていた。それに僕が「ダメだよ。こればっかりは聞きなさい。夜は危ないんだから、大人の女性だって僕は送っていくさ」と返すと、しぶしぶ彼女は一緒に駅前からバスに乗った。

「ここでいいよ」

バス停からコンビニまで歩くと、彼女は僕を振り返って、「また暇な日に連絡する」と言って歩き去って行った。でも僕は、彼女が前を向く前に、見た。彼女の顔が一瞬で深い悲しみに暮れているように曇り、さっき会ったばかりのときに戻ったのを。その暗い表情は、コンビニの出口から漏れてくる灯りだけにわずかに照らされて、夜の闇に半分溶けていた。


帰宅するまで彼女のことを考えていた。

“これから家に帰るというのに、彼女は安らいだ表情にはとても見えなかった。ということは、家にも何かある。自分のような立場ではそれに口は出せないけど、僕は彼女をもう放っておけなくなってしまった。彼女の苦しみはなんだろう?それは誰かによって拭われるべきか、支えられるべきじゃないだろうか?いいや、これは僕の身勝手な恋心が彼女に近づきたがって、理屈をひねり出しているに過ぎない。大抵の大人には、よその子供に対してしてやれることなんか、何もない。僕は彼女を見ていたいだけなんだ。だとするなら、手を引くべきだ。こんなおじさんに近寄られたって彼女にいいことなんかないし、よしや彼女もその気になってくれたとして、僕が彼女に用意してやれるものなんか、ほとんどないじゃないか…。”

僕はまだ、そんなふうに具体的に考えていたわけじゃない。でも、その夜の印象を言葉にしたなら、多分そんな感じだった。自分で気付いていたのは、“未成年と連絡先交換するって、これもうグレーゾーンに完璧入ったよな…。”ということくらいだ。それでも僕は、SNSアプリに映っている彼女の顔写真にある、悲しみに暮れる影をしばらく見つめてから眠った。



二話 ユリとの別れ






僕と彼女は時々SNSアプリでメッセージのやり取りなどしたけど、すぐに電話番号を教え合って、それからしょっちゅう長電話をした。彼女は驚いたことに、僕と話していても苦痛に感じないようで、僕にはそれが不思議だった。なぜなら、僕はいつも友達にさえ「理屈っぽい」だの、「話がよくわからない」と話を遮られて、そこでやめにされることもいばしばあったからだ。でも彼女はいくらでも僕と話したし、僕もその内容に満足していた。それなのに僕たちは、肝心な話だけは話さなかった。

彼女には“話し尽きない悲しみ”があるのに、彼女はそれについてはいつも口を閉ざしていた。僕が“悩み事は?”と聞くために、その前に「体調とか、どう?」などと聞いたりすると、必ずいつも「元気元気!」と返してきた。そこには何か有無を言わさない拒絶があるように僕は思っていた。


彼女と初めて会ってから二週間ほどが経った頃、「今日、暇?」と彼女からメッセージが届いた。その日は僕は仕事があって、少し遠くの家の子供に勉強を教えにいかなければいけなかった。僕は“断りたくない。でも、仕事だから仕方ないかな。”と思って、「ごめん、今日は仕事なんだ。明日なら空いてるよ」と入力して送信した。しばらくは僕のそのメッセージに「既読」という記号が付いていただけだったが、やがて彼女からまた送信があった。

“仕事、何時に終わるの?”

それだけだったけど、僕にはなんとなくわかってしまった。これほどに彼女が僕に会うことを急いでいるなら、もしかしたらこれはSOSなのかもしれない。だとするなら、僕は今晩、彼女からちゃんと聞き出せるのかもしれない。そう思うととてもそのメッセージに「明日にしてくれないか」なんていう返事はできなかった。

待ち合わせは夜の九時。地元駅前に立っている、ペンギン像の前だった。僕はしばらくその前に立っていたけど、“そういえばなんでここにペンギンの像なんてものが建てられてるんだろうな”とぼやっと考えていただけだった。彼女から今晩何かを聞くとするなら、そのときに考えればいいだけだと思っていた。今からあれやこれやと彼女に降り掛かっているかもしれない不幸について想像して考えるのは、好奇の目で彼女をこねくり回すようで嫌だった。でも僕は、“もしかしたら彼女は泣くのかもしれない”とだけ思った。

しばらく沈黙したままで、僕と同じくらい背の高いペンギンと並んで立っていると、駅前ロータリーの端にある信号のない横断歩道を渡って、彼女がこちらに近づいて来るのが見えた。彼女が手を振っていたので僕も振り返したけど、若過ぎる女の子との待ち合わせだったと周りに分かってしまうので、内心ではびくびくしていた。

「久しぶり。でもないかな?」

予想に反して、彼女はとても楽しそうに笑った。にこにことしていて、本当にこれからただ遊びに行くのを喜んでいるようだった。それに、今日はこの間とは違って、ワンピースを着てローファーを履いている。

「そうだね、そこまででも」

僕はなんとかそう答えたけど、駅前を歩いている大人たちから自分が一体どう見られているのかを考えると、気が気でなかった。赤いチェックのワンピースを着て、白の靴下にかわいらしいタッセルローファーを履いた彼女は、実年齢よりさらに下に見える。“でもまあこれならもしかして、父親と娘くらいに見えるかも。”僕はそう思ってちょっと安心しながら、彼女を連れてまた「喫茶ハーベスト」へと向かった。

駅前を歩いているときも、「ハーベスト」で椅子に掛けるまでも、座ってマスターに飲み物と食べ物を頼むときも、始終彼女は興奮気味だった。楽しいというより、極度の緊張からそう振舞うしかないかのように見えた。なので僕はなるべく彼女の興奮が高まらないように口数を少なく、とにかく彼女が何か飲んで食べて、落ち着くまで待つことにした。

彼女はその日はロイヤルミルクティーと、それからチョコレートサンデーを頼んだ。それを決めたらしいとき彼女は、「私、サンデーでおなかいっぱいになっちゃって、しばらくごはん食べられないと思う。いいかな?」と聞かれたので、僕もブレンドとピザトーストを頼んだ。

注文したものが来ると彼女は美味しそうにそれらを味わっていた。ミルクティーには砂糖をスプーンで三杯入れていたし、サンデーもあっという間に食べてしまったので、彼女はかなりの甘党なのだろう。“今度ケーキが美味しい店にでも連れて行ったら喜ぶかな”と僕は考えていた。

「甘いもの、好きなんだね」

「うん!ないと生きてけない!」

彼女はそう言いながら、チョコレートソースの掛かったバナナを食べていた。僕は、マスターこだわりの分厚い食パンのピザトーストを食べて、おなかをいっぱいにした。

食後、奇妙にも思えるほど長い沈黙が訪れ、彼女はうつむいていた。僕は彼女がサンデーのために用意されたスプーンを置いて、マスターがそれに気づいて食器を片付けるまでの間に、意志を固めようと必死になった。おそらく彼女は、テーブルの上が片付いたら、そこに自分の気持ちを一つずつ出していくつもりだったのだろう。僕は“彼女をなるべく傷つけずに話を聴いてあげなくちゃ”と思ったし、“もし彼女が泣いたりわめいたりしても、ちゃんと受け止めなくちゃ”と思った。

今にして思えば、僕はなぜ彼女が取り乱してしまうかもしれないほどに追い詰められていると、予想できたのだろう。彼女はこの前もごく普通に僕と話していたし、ちょっと悪い癖があるだけで、他は何一つ、あの悲し気な表情以外にヒントはなかったのに。

でも僕は多分、毎朝鏡の中に見る孤独な僕の顔によく似たものを、彼女の表情から感じ取っていたのだと思う。それに、もう長いこと生きてきた大人だから、“一体子供とはどう育っていくべきもので、大体幸福な子供とはこんな顔である”ということくらいは知っている。彼女はその“幸福な子供”とは、縁遠い顔だったのだ。

マスターが「ごゆっくり」と言って食器を下げて、席に就いている言い訳みたいに残っていた、あと三口ほどの僕のコーヒーカップだけが残された。すると彼女は、細く小さなため息を吐いた。それは、なるべくこちらに悟られないようにしたことのように、僕には感じられた。

「今日、無理言ってごめんね」

彼女はまずそこから話を始める。僕は“彼女が最後まで話してくれるように、リラックスできるように話をしなくちゃ”と思った。

「いやいや、はじめに断ったのは、まさか待たせるわけにもいかないと思ってただけだから。遅いしさ」

「ありがと…」

そう言うと、彼女はテーブルに腕を組んで突っ伏し、しばらくぐったりと疲れたように力を抜いていた。“泣いているのかもしれない”と僕は思ったけど、彼女の肩は震えていなかったし、食事に満足してリラックスしているようにも見えた。チョコレートサンデーが食事になるかはよく分からないけど。

僕は彼女に、何も声を掛けなかった。もしかして彼女は僕の言葉を何か待っていたかもしれないけど、“もし一言でも間違えたら、僕は彼女の人間関係から締め出されるのではないか”という緊張が僕にはあった。それは、彼女はとても傷つきやすいのではないかと感じていたからだ。やがて彼女はくるりと頭を回して腕の中から僕を見上げると、寂しそうに、とても悲しそうに笑った。

「ときどきさ、死にたくなることってない?」

ドクンと僕の心臓が大きく動いた。そして、まるで自分の心をすべてつまびらかにされてしまったかのように、冷や汗が背中に噴き出すのを感じる。彼女の瞳はもう僕の答えを知ってるだろう。彼女は僕を慰めるように笑っていたから。僕もごまかし笑いをしてうつむき、なかなか顔を上げられなかった。“僕は彼女のこの話が一番聴きたかった。でも、どうやら彼女は見返りに僕の分も吐き出させようとしているらしいぞ。よし、それなら、彼女に負担にならない分だけ見せてやろう。”僕はそう思うことで、必死に自分を抑えていた。

今までこんな話を誰かとしたことなんか、二度しかなかった。それは自殺した親友の葬儀に参列した帰りと、僕が病院のベッドで目が覚めて、「なぜあんなことをしたんだ」と、友達に聞かれたときだけだ。今では、その友達とは疎遠になってしまった。“僕にはもう痛みを吐き出す場所などなかった。それを今晩、ちらっと欠片だけなら見せられるかもしれないのだ。”そんな自分勝手な感情を抑えて、僕はどこまで話すかを考えた。

「あるよ」

まずはそれだけ話した。そう言ってから僕が彼女を見つめる。すると彼女は、まるで自分よりも桁外れに苦しんでいる人物を見るように、恐怖に目を見開いて、切なそうに眉を寄せた。

「…あるの…?」

小さな声で彼女は僕にそう聞きながら、体を起こす。僕は黙って頷いた。すると彼女はちょっとおろおろと戸惑ってから、落ち着くまでの間に水をふた口飲んだ。また喋り始めるときの彼女の口調はひどく怯えていて、それにたどたどしかった。

「あのね、私…別に話したいことがあったわけじゃない。だから、好きなこと話そうよ。何話してもいいでしょ?だから、話したくないこと以外なら、なんでもさ…?もちろん、ここじゃ嫌ってこともあるだろうけど…」

僕はそこでとても驚いた。彼女は“ときどき死にたいと思う”なんてことを口にしておきながら、僕が彼女を気遣って自分の話を控えたことに気が付き、さらにそれを取り除けようとしたのだ。十四歳の女の子がそんなに人に気を遣うほど、今まで何を強いられてきたのかと思うと、僕は絶句するしかなかった。

「ね、だから…」

彼女は不安そうにしている。僕がまだ彼女に大人として接するために無理をしているんじゃないかと、心配をしているのだ。僕はそれを見ているのも辛かったけど、少しずつ気持ちが落ち着いて来ると、自然と“彼女に優しくしてあげたい”という気持ちが高まっていった。

「そうだね、話したいことを話そう。でも…」

その先を僕が続けると、彼女は怒りだしてしまうかもしれないほどに真剣だった。僕の痛みにも。

「なんて言ったらいいんだろう。僕は今、君に優しくしたいな、と思うし、君が僕の気持ちも聴いてくれるという優しさには感謝してる。だから…だから多分、君が悲しむことは言いたくない…」

僕はテーブルの真ん中にある、彼女の手を見つめていた。肘をついた先から、不安そうに握り合わされている小さな両手。それはまだ儚いあどけなさの残る、指先に血の色が透けた手だった。僕は今この場でその手を取って、“君を守る”と断言したかった。そうすれば彼女は、今一時だけでも安心してくれるような気がしたから。でも、僕自身が不完全な人間で、かなり年が上だからと、やっぱり思い止まった。

そうだ、僕の生活は不完全どころじゃない。家には酒瓶ばかり転がり、そこらじゅうがめちゃくちゃだ。その部屋の中で僕が望むのは「死」しかないのだ。そんな人間が一体誰を守れるというのだろう。お笑い種じゃないか。僕はそう思ってふと頭を振りそうになったけど、そのまま顔を上げて彼女を見つめる。

ユリはそのとき、途方に暮れてしまったような顔をしていた。僕はそれを見て見ぬ振りをする理由として、“もし彼女が傷つくことになっても、僕に捕まえられてしまうよりは、ずっといいんだ。”と思うことにした。

「“死にたい”と思ったときには、自分に優しくしてあげてね、約束だ」

ユリはその僕の言葉で、僕がやっぱり彼女に対して大人として接することに決めたと知って悲しそうな顔をした。でもユリは少し笑ってそれを隠し、「うん」とだけ返事をした。“僕の言葉は、彼女に正しく伝わったのだろうか。この会話で僕が彼女を拒否したということしか伝わっていなかったんじゃないだろうか。”僕はあとあとまでこのことに苦しめられた。


その日の僕たちはそのあと、意味も無い長ったらしい会話をして、僕は珍しく政治の話だの、教育のことだのを話していた。ユリはそれをうるさがったりしなかったから。ただちょっと、「私には難しいけど、あなたの意見にはちょっと偏見がある気がする」とだけ言った。相変わらず正直だなあと僕はやっつけられながらも、「誰でもそういうもんさ。まあ、良くないことだけどね」なんて言っていた。


駅前で待ち合わせて「ハーベスト」で話し込むことに飽きたら、今度はイタリアンバル「海賊」で、美味しいものを食べる。月に二度くらいしかユリには会わなかったけど、僕たちはそうやって関係を保っていた。ときどきユリは悲しそうな、落ち込んだ顔で現れることがあった。そういう日は口数も少なく相槌を打つくらいで、笑いもしなかったけど、僕が何気ないことを喋っているとだんだん元気になってきて、自分も話に参加しようとしてくれた。でも、「ありがとうね、またね」、そう言って帰って行くユリの去り際の顔は、まだ薄暗い影が拭われていなかった。

ある日、ユリから珍しく、朝に電話があった。いつもは僕がまだ眠られないでいる夜の十二時頃なのに。僕は歯磨きを中断して、布団の上で着信を知らせようと叫ぶスマートフォンを手に取るため、走った。ユリからの着信には、気に入りの曲を設定していたので、彼女だとすぐに分かったのだ。そして「通話」をタップして耳に当てる。

「はいはい、どうした?」

電話の向こうからは、いつも冷えた空気を感じる。それはユリがまとう悲しみを思い出すから。でも、多分彼女もそれを感じているだろう。僕から。

「…見送りに来てほしいんだ。引っ越すから」

「えっ…」


僕は駅前に向かう三十分ほどの間で、ずいぶんたくさんのことを考えた。彼女が東京に引っ越すと言う。そして、つい先日彼女は自分で自分を傷つけて、病院に運ばれたのだと言う。僕はそんなことは全然知らなかった。予兆すら感じさせてもらえなかった。彼女が救急搬送されたという一週間前の前日に、僕はユリに会っている。そのとき、ユリは楽しそうに話をしていただけだった。

“どうして自分は何も知らされなかったんだ。もしかして、あのときに僕がユリを拒否したのも、ユリが死のうとしたことを助けたんじゃないだろうか?僕にも周りの人間の一人として責任の一端があるんじゃないだろうか?それなのにユリは全然僕を責めようとなんてしなかった。あの子がそんなになんでもかんでも抱え込んでしまって、このままこの先も苦しんで生きていくのを、僕は止められないのか?そして今日、彼女を見送って、これからは別れ別れになってしまうのか…?”

僕はそんな風に考えて不安と恐怖が募る中、駅前のペンギン像の前に着いた。そこにはユリが、左腕全体に包帯を巻いて立っていた。ユリは僕に右手を振って笑っている。僕はその痛々しい光景に言葉も無くし、立ち止まろうとしてしまいそうだった。でも確かな足取りにしようと努めて歩き、ユリの前に立つ。

「…少し、話でもする?電車、あと三十分はあるから」

「そうだね」

僕たちはそのまま「ハーベスト」に向かった。

その日のユリは初めて会ったときのように、ジーンズとシャツ、それからスニーカーだった。それから、彼女は僕と同じ、ブレンドコーヒーを頼んだ。僕たちが「ハーベスト」で座る席は初めて来たときと変わらず、小さめの四角いテーブルに、二つの椅子が据えられた席だった。

「珍しいね、コーヒーは」

「もうあんまり来なくなるし、マスターの淹れるコーヒー、飲んでおきたかった」

ユリはそう言って笑っている。僕は彼女の左腕を見ないように見ないようにと頑張っていたけど、やっぱりそのとき見つめてしまった。するとユリはすぐにそれに気づいて、僕の前で右手を振ってまた笑う。

「ごめんごめん、気になるよね。でもほら、まだ生きてるし、助かったよ」

ユリはさっきから笑ってばかりだ。それが作り笑いなのはもう明白だった。彼女は、“死のうとしてしまったんだ”と僕がひどく悲しんで傷つくことからかばおうとして、もっとひどい自分の傷を隠し続けている。“もう嫌だ。もうさせたくない。何かないか。何か彼女を止められるものは!”そこで僕ははっと気が付いた。

僕は咄嗟に、自分の長袖シャツの左腕をまくり上げて、黙ってユリに差し出した。ユリは驚いて目を見開き、怯えた表情になった。僕の左腕には、おびただしい数の傷がある。今度言葉を失くすのはユリの方だった。でも僕はすぐに後悔した。とにかく彼女を止めたいと思いつきでそんなことをしてしまったから、“こんなものを見たら彼女がショックを受けるかも”と冷静になる暇もなく、そうしてしまったのだ。でも、出した以上にはもう引っ込められもしないし、なかったことにも出来ない。僕はせめて、驚かせたり怯えさせたりするためじゃなかったんだと、伝えようと思った。

「…僕には、隠さなくても平気だと思うよ」

僕がそう言ってシャツの袖を元に戻す頃には、彼女はテーブルに泣き伏していた。でも、体を震わせて泣いているのにユリは声を立てなかった。“いつもそんなふうにこっそりと泣かなきゃいけなかったんだろうか。”僕はそのことにまた胸を痛め、声の無い涙に自分も泣いてしまいそうになったけど、なんとか正気を保とうとした。ユリが顔を上げるとき、初めて僕は彼女の泣き顔を見た。それは、あの悲しそうで寂しそうな顔の向こう側にあったもののような気がした。ユリは口を開く前に、自分でも直視出来ない苦しみに相対しているように、またごまかし笑いをしながら、横を向いた。

「…お母さんがさ、きつい人なんだ…それに、学校行っても、同じだし…」

ユリが言ったのはそれだけだったけど、僕は大体を見通した。そして、彼女が家で受けている扱いや学校でされていることを、想像するまでもなく、「彼女を死へと追いやるほどの苦痛を与えたもの」と知った。思わず僕はがっくりと項垂れ、涙が込み上げるのを感じた。でも、泣こうとは思わなかった。僕が泣いてしまったら、彼女がまた僕の慰め役になろうとして泣けなくなってしまうんじゃないか。それが怖かった。なんとかいつも通りの自分の表情を想像し、前を向いてユリの頭を撫でる。ユリは僕に頭を撫でられてびっくりしていた。

「ど、どうしたの?」

僕はそのとき、久しぶりに心から笑ったんじゃないかと思う。大切な人を思いやること。それがこんなに、胸が痛むのに優しい気持ちになれることだったのだと、やっと思い出した。でも、僕が長いこと返事を考えていたら、彼女に嘘だと思われてしまいそうで怖かった。だから、急いで心の中から言葉を集めて、その中で一番役に立ちそうなものを選んだ。

「辛かったんだろうね。頑張り過ぎちゃったんだろ?」

僕がなんてことのない口調でそう言うと、ユリはまたぽろりと涙を流し、そのまま、僕に頭を撫でられて泣いていた。僕はその代わりのように笑っていた。

ユリは母親とは離れて、父と生活することになったのだと言う。だから東京に住んでいる父親の家に向かうのだと。それで僕は少し安心した。今度はユリを守ろうとしてくれる人と、ユリは暮らすことになる。ユリは「また連絡するね」と言ったけど、僕の役目はここまでだろうと思っていた。“彼女を送り出してやって、それで終わりだ。”そう思ったとき切なさを感じなかったわけではないし、僕は心底ユリが好きだったからあとになって泣くんだろう。でも、“ユリにとって、辛い時間を過ごしていたときの人間関係とは、すっぱり縁を切った方がいいだろう”、そう思って家に帰った。

僕は家のドアを閉じたとき、生まれもしなかった恋が死んだ悲しみに押し潰され、その場にずるずると座り込んでしばらく動かなかった。


三話 失恋





しばらくはユリからの電話もたまにはあったし、ユリはその電話で「たまには会って話がしたいね」とも言っていた。でも自然にというか、「この間知り合ったばかりですぐに距離が離れた友人」としては当たり前に疎遠になっていき、ある時からぷっつりと音信不通になった。“無理もないことだ”と僕は思って諦めようとしたし、僕自身からユリに電話を掛けることはしなかった。しかし、僕たちはその数年後に再会することになる。だからここには、その間の僕の生活を書いておこう。


僕は当たり前のように毎晩安酒をたっぷり飲んでは家の中を無我夢中で荒らしたり、「海賊」で泥酔して店長に絡んだりした。「ハーベスト」ではビールを大瓶で三本四本空けてしまっては、マスターに子供の守りかのようになだめられていた。でもそんなある日、マスターがどうにも困ったような顔をして、こう言った。

「まったくどうしたもんかねえ。飲みようが前と今じゃ全然違うじゃないの。昔はもう少しは少なかったよね、何かあったのかい?」

マスターは、椅子と壁の間に落っこちて立ち上がれなくなった僕を引っ張り上げようとして、僕がてんで力が入らなかったもんだから一旦諦めたところだった。僕はただへらへらと笑っていた。“だっていい気持ちなんだ。こんなに素晴らしいことはないじゃないか。マスターは心配のし過ぎだ。”僕は頭まで前後不覚に陥ってしまって、そう思っていた。それから、それまで毎日毎分毎秒に至るまで必死に押さえつけていたものを、放り出してしまいたいような気持ちがした。“ええい、喋っちまえ。別にかまわないだろう。”

「なに、ただの失恋ですよ」

僕はそう言って、なんとかかんとか椅子に戻ろうと、椅子の背に片腕を掛ける。マスターはもう片方の手を取って引っ張ってくれた。

「失恋というと、この間までよく来てた彼女かい」

「ええ、まあ」

マスターはユリの容姿や大体の年齢を知っていただろうし、それで僕に少し呆れながらも、“まあもちろんどんな失恋であっても辛いことには変わりはないし”と思ったのだろう、同情するような顔をしてくれた。僕は席に就いて煙草を探し、しばらくして目の前に置いてあったことに気づくと、それに火を点ける。「ハーベスト」にはそのとき誰も居なかったし僕もビールを飲んでいるだけだった。マスターは僕の話を聴いてくれようとしたのか、僕の前の席に座った。そのときに僕は、マスターが座った席にユリが座っていたこと、彼女が僕に微笑みかけてくれていたことを思い出した。

「まあそりゃ失恋になるのが当たり前とはいえ、いい子そうだったからねえ。忘れられるまでは時間が掛かるかもしれないが…」

「そうですね、いい子だった。いい子過ぎるんですよ。こっちに慰めさせてもくれやしない」

僕は何もかもぶちまけるつもりでいた。でもそのとき僕は、ユリが持っていた悲しみをちょっとだけ見せてくれたときのことを思い出した。そうすると僕の心はふっと黙り込んで、そのまま思い出を追いかけ始めて、止まらなくなってしまった。言葉など出てこなかった。マスターは急に黙り込んでしまった僕を見てそれを察したのか、「今晩はもうやめたら?」とだけ言った。


僕はそれから数年、たまにユリのことを思い出しては、“どうしているだろうか、ちゃんと生きてくれているだろうか?”と心配をしたり、指一本触れやしなかったユリに対しての恋心を収めるために酒を飲んだりした。そうでなくても僕は酒浸りではあったけど。

仕事は上手くいかなかった。僕は、寒々しい孤独に心を絞られていっているのだ。そんな状態で仕事に身が入るわけはなかった。だんだんと派遣会社から僕への依頼は減り、それなのに僕が飲む酒の量は大して変わらなかった。そして僕は、一人の女性に出会う。

彼女には、「海賊」で飲んでいるときに出会った。いい女性だった。でも少しだけ寂しそうで、こちらを良く気遣いながら話をしてくれる、誰かを思い出させる面影があった。僕はそれに気づいていたのに、その女性と連絡先を交換して頻繁に会うようになり、男女の仲として交際することにした。

彼女の名前は「奥野依子」といった。でも僕は彼女の名前にも、顔にも、大して興味もなかったんだろう。ただそこに悲しそうで寂しそうな影があって、それが僕のそばで僕の話を聴いていてくれるなら、依子でなくても良かったのだ。僕はその頃の自分がどんなに卑しい身勝手な男だったかをちゃんと知っていながら、依子がたまに寂しがって泣くのを慰めた。

それから僕と依子は僕の家で酒を酌み交わしたりする夜を何度か過ごした。

僕の家は三つの部屋と風呂や洗面所なんかがある、わりあいに広い部屋だった。でも古い団地なので、夏は暑く冬はひどく寒い。玄関を入ったたたきには砂や泥の痕がたくさんついて隅に埃が溜まり、洗面所には歯ブラシが何本も放置されて、風呂はカビだらけだった。玄関の隣にある洗面所と風呂場を横目に過ぎると台所があり、そこを通り抜けると二間の部屋がある。台所は大きな窓で西向きのベランダに出られるようになっていて、花柄のビニールで床が覆われていた。でもそこに食卓はなく、いつもコンロに鍋が放置してあるきりだ。奥の二間の部屋にも窓があり、床はどちらも畳だった。小さな窓しかない部屋の隅には飲み終わった空の酒瓶が押しやられていて、雑誌がちょっと積まれている。昔読んだ本なんかは、生活費の足しにするために売られて跡形もなかった。それから布団が敷かれていたけど、ほとんど干しもしないので埃とカビの臭いが染みついている。もう片方のベランダのある部屋は何にも使っていなかった。タンスが置いてあったけど、僕は服もあまりたくさんは持っていないため、母の遺品のタンスは大して使われずに埃をかぶっていた。

田舎独特の土埃がどこからか入ってきて、畳の上はざらつき、布団はじめっとしていた。依子はある朝、前の晩に着てきた服をまた着てから、寂しくて帰りたくないのか、その布団の上に座り込んでいた。依子はそわそわとして、ときどき首を振ったりため息を吐いては、僕の方をちらちらと見ていた。僕は畳の上に座って窓枠に寄り掛かり、見たくもない外の景色を見ていた。

「ねえ」

話しかけられて僕は振り向いた。依子はそのとき僕の万年床の上に座り込んで足を折り曲げ、不安そうに両手を胸の前で合わせて、じっと僕を見た。それは何か祈るような、頼み込むような目だった。

「私は…あなたにとって、なんなの…?」

多分、僕からいい返事が返ってこないのを知っていながらも、それを諦められなかったんだろう。でももしここでまた嘘を吐いたとしたら、依子は僕のことを許さないんじゃないかという、どこか抜き差しならない感じがした。僕は、“もう本当のことを言おう。そして謝ろう。”そう思い、「本当に好きな子の、代わり」と言った。

依子は一度だけ僕を平手打ちして帰り、その後、僕に依子から電話が掛かってくることはなかった。でも、それで良かったんだ。依子はもう自由だし、僕も自分の心を偽る毎日からは逃れた。初めに僕が招いたことだけど、やめにしなきゃならなかったのは確かだ。


日々が過ぎてゆく。ユリと別れ別れになって一年ほど経つと、僕はかつての友達とまた遊び歩くようになっていた。それは僕が二十代の頃、僕が家で倒れていると決まって現れて僕を病院に担ぎ込み、目を覚ますまで待ってくれていた奴だった。名前は「東野雄木」。僕と同い年で、高校の頃からの仲だった。学生時代は麻雀仲間だったし、僕が大学に進んで東野が車の整備士になってからも連絡を取り合い、たまに僕の家で朝まで話し込んだ。東野は僕を喜ばせようと下手な冗談を言ったりして、僕が笑うと東野も嬉しそうにしているのだった。

その日、僕と東野は新宿に繰り出した。僕は給料が入って懐都合が良かったし、東野はやけに浮かれて騒ぎっぱなしだった。「文ちゃん、飲もう!」と僕を急かしては、東野は僕のグラスにどんどんビールを注いだりワインをぶちまけて笑っていた。僕は女みたいなあだ名で呼ばれてついつい「文ちゃんはよせよ」と言ったが、「なんだい、別にいいじゃねえか」とそのたび東野はぷいっと横を向いてしまうのだった。


「あー、気持ちわりぃ…」

「そりゃああれだけ飲めばな…」

「俺たちってバカだよなぁ…」

「そうだな…」

僕たちは新宿の裏路地を歩いていた。帰り賃はあるにはあったが、電車がもう無かった。「新宿駅前でどっか座れるところを探そう」と二人で決め、そこまで歩いて行く途中だった。

「そういやあよぉ文ちゃん」

「ああ?」

不意に東野にまた変なあだ名で呼ばれて、僕は少し苛立ちながら返事をすると、東野はそれまで何も言っていなかったのに、突然こう言った。

「俺ぁ知子と別れたんだぜ。だから、これからは一人で自由気ままに生きるんだ」

僕は思わず、後ろをついてくる東野を振り返った。「知子」とは、東野が長い間仲の良かった奥さんだ。東野は僕に向かってにかっと笑ったが、それはどこか恨みがましく見えて、禍々しいとも言えるような、ひん曲がった笑い顔だった。僕は黙って前を向き、しばらく歩く。

「東野…」

「なんだよ」

後ろから返ってくる声はやっぱりのん気な東野の声だった。一体知子さんと東野の間に何があったのか知らないが、僕は東野を慰めたかった。でも、離婚なんてものをした東野からすれば、僕の悲しみなんか小さくてつまらないかもしれない。

「僕もこの間失恋したよ」

僕がそう言うと東野は後ろでぷっと吹き出して、立ち止まって大声で笑い始めた。よほど酔っ払っていたのか、東野はしばらく笑うのをやめなかった。僕は、東野が僕を馬鹿にするはずなどないと知っていた。だから東野が“手痛い目に遭った男二人がつるんでいる”のが滑稽で笑っているだけだと、分かっていた。それからやがて笑うのをやめたときも、東野は落ち込んだ顔など見せなかった。

「あー、こらぁおっかしいや。じゃあよ!もう一軒行くか!」

そう言う東野に「もう金がない」と言うと、「じゃあおごるぜ、これからは嫁に渡す分もねえからよ!」と、東野はまた笑った。“どいつもこいつも、悲しいくせによく笑うな”と思って、僕はまたユリのことを思い出した。


それから一時、東野と僕はよくつるんで飲んで歩いたが、ある頃から僕は東野を避けるようになっていった。

東野は奥さんだった知子さんを忘れることが出来ずに、酔っ払ってタガが外れると「知子…知子…」と名前ばかり呼んで、いつも酔いつぶれるまで飲むようになった。それから、「飲み代を立て替えてくれ」と何度か言われ、最後に断ったときには気に入らなそうに「なんでぃ、けちん坊」と言い、店を出ると東野は僕を置いて、ずんずん歩いて行ってしまったのだ。

僕は東野の暮らしや人柄が荒れていっているのが分かったし、付き合い切れないと思った。でも、僕が死にかけると必ず救ってくれた東野を見捨てるなんて、容易に出来ることじゃなかった。“このままじゃダメだ。それに、僕には無理だろう。”誰か聞いてやる人が居るなら、東野は知子さんの名前を呼び続けるに違いないし、どちらにしろ、僕に今の東野を支え切ることなど不可能だった。

僕は東野の電話番号を着信拒否リストに設定して、“家に押しかけてきてもドアは開けないでおこう”と思った。でも、東野は家には来なかった。何もないまま五カ月ほどが過ぎ、僕はそのまま東野のことを忘れてしまった。僕は自分の苦しみにも気を取られていたからだ。

夜、寝る前になると、いまだに友達登録だけはされたまま、なんの連絡もなくなったユリとのメッセージ画面を見る。それが僕の日課だった。もうそらんじることが出来るほど、僕は一つ一つを噛みしめた。ただの「おやすみ」や「今日ヒマ?」を、何度も何度も読み返し、そして“今にまた同じようにユリから連絡がありやしないか”と望む心、そして、“そんなことが起きようはずがない”と冷めた頭に僕は真っ二つにされ、ときたま涙を流した。でも、いつまでそんなことをするのも、体力の限界だった。その頃僕はもう四十七になっていて、ユリと出会ってから四年が経っていた。

僕はその晩もそんなことをしてから、ビートルズが演奏するロックのスタンダードナンバーをスマートフォンで聴いた。それは、ユリから電話が掛かってきたときの着信音に設定してある曲だった。“ギター小僧だった頃にはよくビートルズを演奏したもんだ。”そう思い、ユリとの話を思い出す。ユリはビートルズも聴いたことがあると言って、僕がジョン・レノンについて語ったとき、興味深げに耳を傾けてくれていた。

スマートフォンをパーカーのポケットに放ってビートルズをイヤホンで聴いたまま、僕は立ち上がって台所へ行った。空腹だったのだ。シンクの上にある戸棚の中から袋麺を取り出して、コンロの上にほったらかしの鍋に水を汲み、湯を沸かそうとした。そのとき、イヤホンから流れていた曲が急に初めに戻って、僕はびっくりした。

「なんだ?」

思わず独り言を言ってスマートフォンをポケットから取り出すと、画面には「藤田 百合 着信」とあった。

「ええっ!?」

また独り言で叫ぶと、僕は慌ててイヤホンを外し、画面を上へとスワイプさせて電話を取る。恐怖に近いほどの喜びが襲い、僕の手は震え、声だって抑えが利かないかもしれなかった。でも、スマートフォンからはまだ何も聴こえてこなかった。

「…もしもし?」

「久しぶり!元気?」

それはやっぱり、間違いなくユリの声だった。僕は涙が込み上げて大泣きしたり声が震えてしまうのを抑えて、「本当に久しぶりだね。どうしたの?」とだけ返した。電話の向こうのユリが一瞬ためらっているように、ちょっとの間があった。

「いやー、こっち来ていろいろあってね、高校とか忙しかったから連絡しなかったけど、どうしてるかなーって思って」

“どうしてるもこうしてるも、毎日君のことを考えてたよ。”よっぽどそう言いたかったけど、言えなかったから、「なんとかやってるよ、高校はどう?」と聞いた。

「うんー、そろそろ卒業!だーれも友達出来なかった!」

そう言ってユリは電話の向こうで笑っている。僕は、ユリがどんなに美しくなったかを想像した。

「まあそういうこともあるけど、残念だったね」

「そうでもないよ。いじめられなくてよかったくらいにしか思ってない」

「うーん、まあね」

僕はそんな話をしながら湯を沸かして袋麺を茹で、しばらくユリと話せる喜びに浸った。ユリの声は少し大人びて、前よりもずっと快活に響いた。彼女が笑顔で居るのが分かる。それは喜ばしいことのはずなのに、僕は電話を切ったとき、ユリと別れた直後よりもさらにユリを遠くに感じた。


“ユリは新しい生活をすんなりと受け入れて、そこで愛され、そして以前のように悲しんでばかりだった日々を抜け出した。もう僕とは違う世界に生きているんだ。なおさら僕はユリに近づくべきじゃなくなった。僕みたいな奴がユリに近寄ったところで、ユリはなんとも思いやしないかもしれないし、もうユリに慰めは必要ない。僕はユリにとって、なんの意味もなくなった。”、僕はそう思って、具も何もないラーメンをすすってから、酒を飲むのも忘れて布団に包まった。

ユリは「また遊ぼうよ!」と言ってくれたし、「そうだね、暇なときにでもおいでよ」と僕も言ったのに、僕は“またあの地獄のような苦しみがやってくるかもしれない。彼女に対して自分を偽らないといけない時間がやってくるのかもしれない。恋など打ち明けられる立場ではないし、僕はもう必要ですらないんだから、僕はユリに触れられないまま彼女の美しさを見せつけられて、自分を抑え込むだけの日々がやってくるのかも…。”と、ぐるりぐるりと布団の中で迷っていた。その晩はなかなか寝付かれなかった。

明けて翌朝、またユリから電話があった。

「はいはい…おはよう…」

僕はまだいくらか眠っているような頭を起こしてスマートフォンを充電コードから外し、電話を取る。電話の向こうのユリはもうしゃっきりと起きているようで、「今日が暇なら会わないか」と持ち掛けてきた。僕はその朝は少し体調が悪かったし、でも仕事はなかった。明日からは四日連続で生徒の家を回って勉強を教えなくちゃいけないけど、今日はちょうど空いていた。

「うん、じゃあ、ペンギンの前ね。ごめんね、遠くまで来させちゃって。うん、じゃあまた」

そう言って電話を切り、僕はもう一度眠りに戻ろうとしたけど、結局ユリと決めた夕方までそわそわと落ち着かず、食事すらしなかった。

駅前のペンギン像は相変わらずにこにこと笑顔で立っていて、この雑然とした街の中で子供のように無邪気に見えた。僕はジャケットの前を閉めて、寒い北風が吹く中でユリを待っていた。寒いはずなのに体がポカポカと温かく、それなのにすでに痛み始めている胸を抑えて、僕は何度も改札を振り返った。でもしばらくまた前を向いて立っていたとき、後ろから「とたたたっ」と軽い足音が駆けてきて、僕が驚いて振り向くと、ユリがこちらに走って来るところだった。僕はそのユリの姿にびっくりして、彼女が目の前に立ったときも、しばらく何も言えなかった。

ユリはあの頃と変わらず髪は短かったけど、それは艶やかになびいていた。それから、おそらく学校の制服なのだろうスカート姿でしなやかな足を晒し、前とは全然違う軽やかな足取りと、心底喜んでいるような表情でこちらへ近づいてくる。それは元々美しいユリが一番美しく見えるようにと、誰かが気を遣ったように見えた。

「どうしたの?」

何も言えないでいた僕を見てユリはちょっと不思議がったけど、「いやいや、あんまり美人になったからびっくりしたんだよ」と、僕はわざと冗談めかして言って、その場を凌いだ。

「そんなことないよぉ。じゃあ「ハーベスト」に行く?あ!それと、今日は割り勘ね!私、バイト始めたから!」

そう言って得意げに胸を張ってみせるユリは可愛らしかったけど、僕は「ダメだよ。ここまで来るのに結構お金掛かるでしょ、東京からだもの」と言って聞かせた。



四話 彼女の友達として






ユリと僕は再会して「ハーベスト」でたくさんのことを話した。

ユリは僕より先に軽やかに階段を降りて行き、うきうきとした足取りでよく僕と二人で座っていた席を選んだ。それから、僕が座るか座らないかのうちにマスターを呼んで、僕に「何にする?ブレンド?」と聞いた。それはどこか急いでいるような気がしたけど、僕はそのときは単にユリが楽しんでいるからだと思っていた。僕たちはどちらもブレンドを頼んで、マスターが行ってしまってから、ユリはすぐにテーブルに頬杖をついた。

「それで、文雄さんはどう?仕事とか」

僕は、仕事が上手くいかないこと、お金があまり入ってこないこと、それから仕事をやる気が出ないことのうち、どれも話すことが出来なかった。

「うーん、このご時世はどこも厳しいね。ユリちゃんはどう?」

僕はそのとき久しぶりにユリの名前を呼んだ。“ちゃん”が付いているのは元々だ。元より、自分より三十近く年下の女性を呼び捨てにするなんて、身内でもない限りしないだろう。

「そうだねー、バイトやっぱりきついかな。居酒屋のホールとキッチンなんだけど…」

「居酒屋は人使いが荒いからね、大変だね」

「うーん、そうだよね」

そこでユリはため息を吐いて、ちょっとうつむいた。彼女の顔は、ふっとあの頃の寂しそうな影を少しだけ映す。

「いろいろ…あった。でも、お父さん、私のために頑張ってくれて、それで、私は…なんとか、生き残れたよ」

おそらく数限りなかった苦痛を、ユリは“いろいろ”に詰め込んで微笑んだ。それは、まだどこか寂しさの拭い切れないようなものだったけど、僕はそれについては何も言わなかった。ユリが笑ってごまかしていられるうちは彼女は堪えるから、誰にも苦しみを渡さない。それだけは変わっていないようだった。

「そっか。それは良かったけど、僕、あの頃何も知らないうちに君が引っ越していったから、少し心配してたんだ」

少しだけ、“話して欲しい”という意思を込めてそう言うと、ユリはちょっと決まり悪そうに曖昧な笑い顔をうつむかせて、話そうか話すまいかを考えているようだった。それからうつむいたままでぽつりぽつり、思い出の中を旅するような目で喋り始めた。

「私は気づかなかったんだけど、うちのお母さん…私を虐待してたんだって。確かに始終怒鳴られてたけど、怒鳴られるだけでも虐待だなんて思わなくて…。それで、私が死のうとした後でお父さんがお母さんと話してみたけど、「虐待だ、虐待だ」って大変なことになっちゃって…親権のことで、裁判とかあったみたいだし…」

僕は彼女の“あの頃”が想像していた様子と大して変わらなかったことに、胸を痛めた。何よりユリに当事者意識がほとんどないらしいのが、彼女には受け止め切れない現実だったのではないかと思わせるから、余計に辛かった。

「それで、とりあえずクリニックに通って、カウンセリングとか受けたけど…ダメだった。カウンセラーさんにも話すのも、あんまりできなくて…。でも、なんとかやってるよ。ちょっと不安定だけど」

最後の言葉を言ってからユリは付け足しのように笑い、なんとか笑い話にしようとした。でも、おそらくは彼女は、まだ誰にも心の底を話したことはないのだろう。“僕が聞けることでもないんだろうな”と、僕はちょっと下を向いた。

「そう…それは、辛いね」

本当に辛いだろうなと思った。なぜって、ひどく辛い心を吐き出すことも出来ずに明るく振舞うのは、二重に辛さが襲い来るからだ。僕もそれを知っている。僕はそれをユリに話そうかとは思ったけど、彼女の傷を勝手に暴くようなことになってしまいそうで話せなかった。

「まあ、でもあの頃よりは全然楽かな」

そうやって君は自分の傷を小さく小さく見せる。きっと気づかないんだろう。周りの人間は、おそらく一人残らず、“この子が今に死んでしまうのではないか”と見抜いていて、びくびく心配しているということには。ユリは指を組んで上に上げ、うーんと背中を伸ばした。

「…ところでさ、なんで今日は制服で来たの?」

“君が制服で居ると、僕が怪しまれちゃうんだけど…。”と思いながら、僕は聞いてみた。するとユリはあっけらかんとして、こう話し出す。

「そうそう、制服!私たち知り合ったばかりの頃って、私めちゃくちゃ具合悪かったみたいでね、もしあのままだったらこんなの着ることもなかっただろうなって思ってたんだけどー…。まあ、今は上手くやってるよって報告したかったし、それで着てきたの!」

僕はそう言われて、思わず胸が高鳴った。なぜって、それはユリが少しでも僕を友人として大事に思ってくれているからだろうし、彼女の心の中に僕が居たのだということに、ちょっと泣きそうになった。それをごまかすのに僕は目元をこする。

「なんだ、そうだったんだ。ありがたいよ、本当に、良かった。でもさ、今度からは私服で頼むね。僕、犯罪おじさんになっちゃうからさ」

そう言ってちょっと笑って見せると、ユリは「やだ!ほんとだ!でも、違うもんね、友達だし!」と言って恥ずかしそうに笑っていた。僕も「まあそうだけど」と言って同じように笑った。僕の胸にはつららのような痛みが刺さったけど、僕はそれを必死で無かったことにした。


「ハーベスト」でユリの高校の成績がわりあい良いことや、僕の教えている生徒の中で面白い子が居ただの、他にもいろいろと話をしてから僕たちが向かったのは、カラオケだった。ユリはどうやら昔から歌が好きらしく、前から僕と一緒に来たかったのだそうだ。僕たちはよく音楽の話もしたし、ユリは僕の好きな昔のロックも少しだけ知っていたから、「洋楽歌ってよ!」と言われた。

カラオケのエレベーターを降りてフロント階に着き、カウンターで名前を書こうとしたときだ。ユリがふと、僕の書いている名前を覗き込もうとして、思い切り僕の手元に近寄り、僕たちは肩がぶつかった。

「わあ、字、綺麗だね」

ふわりと花のような香りがして、でもそれは香水などではなく、まるでユリの名前から香っているようだった。僕は自分の気持ちを“何時間歌うことにしようかな”ということに集中させようと頑張るのに、ユリの気配が醸し出すすべてに耳を傾けようとする自分が恨めしかった。

ユリは流行りのポップスや、それから少し古い日本の曲、あとは最近の洋楽など、いろんな曲を歌った。英語の曲も難なく歌うことが出来たのは、前にユリから聞いた、「幼い頃は英語を習ってたんだって。覚えてないんだけどね」という台詞が関係しているのだろう。

その歌声は透き通って高く、精一杯声を出すユリは、可愛らしかった。

僕は昔バンドでギターを手にしていた頃のことを思い出して、レッド・ツェッペリンの“ロックンロール”をまず歌った。ユリは急に速く激しい曲が始まったことにびっくりしていたけど、僕が歌い終わると、拍手してくれた。

「すごい!なんでこんなの歌えるの!?声もすごく大きいね!かっこいー!」

そう言ってユリは喜んで手を叩いている。僕はそんなに褒められるとちょっと恥ずかしくて、「大したことじゃないって」とだけ言った。

でも僕には気になったことがあった。ユリは、失恋歌ばかりを歌っていた。“つい最近失恋したのかな”と思うほどにだ。それに、暗い曲、辛い中で自分を駆り立てる歌詞ばかりのような気がした。僕はその理由を知っていたけど、それが大して悪いこととも思えなかった。だって悲しみを抱えた人間がそれを外に吐き出してどこが悪いんだ。でも、それがもしかしてユリを食いつぶしてしまわないかということだけは、気掛かりだった。

僕たちはカラオケで一時間半歌って、「じゃあ今日はこれでお開きにしよう」と別れた。ユリは「楽しかったね」と言ってくれたし、笑っていたけど、僕はユリと別れる頃には、“どこまで彼女が口にする言葉を信じていいんだろうか、僕に遠慮して言っているだけなんじゃないだろうか”という疑念から目を逸らすことが出来なくなっていた。


それからは前のように、時折ユリからの電話が掛かってきた。それを受けて僕はユリとの会話を楽しんだし、それははたで聴いていたら「無為なもの」であっただろうけど、僕にとっては生きる糧だった。でも、ユリのことをそんな風に考える自分を咎める気持ちは変わらない。

僕たちは、奇妙な出会いから友人関係になり、僕はユリに恋をしてしまった。「何十歳も年上の人間」であれば、ユリにとって僕は、「道に迷った時に頼れる知人」くらいであるのが当然だ。でも僕は、そうなることを心の底では望めない。そもそも僕たちは出会うべき形ではない形で出会ったのだ。僕は邪な動機でユリに近づいた。それは今となってはもう確かなことだ。彼女の幼い美貌に惹かれ、自分と同じ孤独を映す目に惹かれた。もしあの喫煙所で出会った十四歳の少女がユリでなければ、僕は「危ないことをしようとしている子どもを止めてやるんだ」なんて建前を持ち出さずに、放っておいただろう。

僕は今、自宅の洗面所の鏡を覗き込んでいる。鏡には大量の歯ブラシの先や、壁紙の剥がれた壁が映り込み、そこに僕の痩せぎすの体が映り込んでいた。僕は、瞼の周りが落ちくぼんだ大きな目を見つめ返している。その下にはやや鷲鼻になった大きい鼻と、厚みのない唇があり、頭に乗っているのはほとんど白くなったカサカサの髪だ。少し恰好が良くなるように伸ばしてはいるが、黒く染めることもしていない。肌は青白く少しくすみが混じって、とてもじゃないが健康そうには見えなかった。そして、頭の中は分かり切っていた。“死にたい”、それから、“ユリに会いたい”、その二つがある切りだ。他にも雑多なことがあるけど、僕の考えていることの中で僕にとって価値を持っていそうなことは、その二つしか無かった。

僕はユリについて、いろいろなことを考えていた。でも、“会う”より先のことをするのを自分に禁じているし、考えについてもそれは同じだった。だからここでは“会いたい”と思っているのだということにしておいてほしい。どちらにせよ、僕はこれからもそこから先へ行くことは絶対にないだろう。

それから僕はもう十一時だというのに、そのときやっと朝の歯磨きに取り掛かった。


僕たちはそれから数年、それまでと変わらない関わりを続けて、僕は一時期は他に恋人を作ったりもした。でも、いつも相手とはうまくいかなくなって結局別れた。「本当に好きな子の代わりだ」なんてわざわざ告げたりしなくても、僕の方で相手に愛着がないのだから、いつも恋人は僕に大切にしてもらえないことを寂しがって、離れて行った。僕はそうやって罪を重ねながら、それでも一番大きな罪は犯さないようにしているのだと、自分に言い聞かせた。


「ねえ、文ちゃんちってどこにあるの?駅から近い?」

僕は東京に電車で行くほどの余裕もなく、車も持っていないので、僕たちは僕の地元の駅か、それか二人の家の中間にある駅で待ち合わせて遊びに行く事が多かった。その日は僕たちはその中間地点の駅に近い喫茶店で話し込んでいた。ユリはナポリタンスパゲティを平らげてから、その店のブレンドコーヒーを飲んでいた。その頃のユリは、もうブラックコーヒーを愛飲するほど大人になっていて、僕たちが出会ってから八年が経っていた。ユリは今では、二十二歳だ。時折髪を伸ばしてみては、「やっぱりめんどくさい」と言ってショートカットに戻るけど、僕は長い髪をただ素直に下ろしていた彼女を、「とても綺麗だ」と思った。もしかしたらユリは、大人の女性になるのが恥ずかしいのかもしれない。ふっくらとしていた幼い頬がすっと引き締まった大人になり、さらに美しくなってからも、彼女の表情はどこか寂しそうな子供のままだった。

「あんまり近くもないかな、バスに長い事乗らなけりゃね」

八年も経ってやっと家のある場所を聞かれる友人関係というのも珍しい。でももしかしたら、“私たちは家の場所を知るほどのとても親しい友人関係になるのも良くない”と、ユリも思っていたのかもしれない。

僕はそのとき、必死に自分を押さえつけていた。“もうそろそろ、本当のことを言ってしまおうか?”と望む気持ちだ。“でもそれはきっと今ではない。”そう思ったとき、僕の中に新しい考えが生まれた。というよりは、僕が必死に見ないでいよう見ないでいようとしていた考えを、“いつユリに言えるだろう”と考えることで、見つけてしまったのだ。

“当たり前に考えて、僕たちは友人同士で居ることもしてはいけない。僕はいつかユリと道を別にしなければいけない。ユリにとっては、同年代の友達と新鮮な刺激を交換し合うのが健全なのだ。”というものだ。それは人生における重大な絶望なんかよりよっぽど軽い傷のはずなのに、僕は若い頃に感じたような激しい痛みと、この先生きていても仕方ないように思うほどの大きな絶望を感じた。

ずいぶん長い間答えを引き延ばしてきたんだな、と、僕はユリと別れてからの帰り道に思っていた。そうだ、僕は引き延ばしてきただけだ、最後の決断を。気持ちを告げるか、友人としてもきっぱり別れるか。前者はまともな大人ならやらない。でも僕は後者を選びたくなかった。だから“きっとユリが大人になってからなら言える、彼女が自立してからなら、そこからは自分の責任なのだから。”と思い込むことで、なんとか引き延ばしてきた。でもそれはどだい、大それたことだったのだ。

僕は今、五十一歳だ。確かにユリは大人になったけど、僕は年をとった。そうだ。僕はこれからどんどん年老いていく。そしてユリは美しい時代を生きるのだ。それに、こんなに年が離れていたら、ユリはいつまでも僕のことを一人の男性として見るなんて不可能だろう。“一体僕が彼女に声を掛けてどうするというのだろう?幸せにする?派遣会社にこき使われてる五十路の男が?”僕の心は冷たく尖っていき、僕は街頭もほとんどない暗く寂しい夜の田舎道を歩いた。


ユリは、もう一度自分を傷つけ、救急車で病院へ運ばれた。

“やっほー、また病院にいまーす。お見舞い来てねー”

そんなメッセージのあとで、病院の名前と住所が書き添えてあった。僕はそのメッセージ欄を見て愕然とし、まだ彼女を蝕み続けている苦しみは終わってはいなかったということに、打ちのめされた。ユリが軽い冗談みたいに打ったメッセージを見るのが辛かった。“そんなになんでもかんでも冗談にしないで、もうどうか本当のことを話してくれ。”と頼んだら、彼女は口を開いてくれるだろうか。それとも、僕と永遠に関係を絶つのだろうか。

僕は“自分では彼女の助けになんかなれない”と分かっていたのに、ユリの元へと心は走った。二日後に僕は、お見舞いのためにユリの好きな甘いクッキーを買って、ユリが入院している病院へと向かった。

そこは、閉鎖された空間だった。僕は病院の面会受付で名簿に名前と時刻を記し、それからすぐに小走りで僕のところに迎えの看護師が現れた。「藤田さんへの面会ですね」と聞いてきた看護師は僕と同い年くらいの女性で、茶色の髪をひっつめた背の低い人だった。その看護師に連れられて、ユリの病棟を訪れる。看護師は制服のベルト通しにつけてあったチェーンの先にある鍵で病棟の入口を一瞬だけ開けて、僕を招き入れた。

病院は古いコンクリートの建物だった。その奥にある病棟も少し老朽化が進んでいるようであちこち傷みが見えたけど、まだしばらくは病院としてやっていけそうだった。病棟の入口を入るとホールがあって、患者が食事をする細長いテーブルがずらっと並んでいる。その反対側には、話をするためのような、丸いテーブルにいくつか椅子が据えられたセットが二つあった。それから、ソファもいくつか壁際に寄せてある。何人かホールに居た他の患者が僕を振り返ったけど、僕が見舞いの品を手から提げているのを見ると、見舞い客だと分かったようだった。そして、“興味はあるが関係はない”といったようにみんな目を逸らして、それからたまにちらちらとこちら見ていた。

「病室は206ですので、ご案内します」

看護師は簡素な挨拶のようにそう言って、僕をホールから細く伸びている病室への廊下に連れ出した。

「あっ!文ちゃん!」

僕たちは廊下を歩いていたけど、突然僕は後ろから呼ばれて、慌てて振り向いた。そこにはパジャマ姿で髪をタオルで拭っているユリが居た。

「あら、藤田さん、面会の人ですよ」

「うん。文ちゃん来たんだ。連絡くれればよかったのに」

ユリはパジャマのポケットに手を入れてスリッパを引きずり、僕のところまで嬉しそうにちょこちょこと歩いてきた。

「お見舞い、クッキーで大丈夫だった?」

僕がそう言うとユリは、「ほんと!?ありがとう!」とまた嬉しそうにしていた。僕はそのとき戸惑っていた。ユリの様子は落ち込んでいるようには見えなかったから。むしろとても元気そうに見える。“僕は“元気づけよう”と思って見舞いに来たのに、かえって無理に元気なように振る舞わせているかも”と、そのことがずっと気になった。


「入院退屈だよ~、外出たい~」

「外出とかできないの?」

僕たちは「話し声が周りの患者さんの迷惑になるといけないし」と、ホールにある椅子に掛けて話していた。ユリはテーブルに体を思い切りもたせかけて、「退屈で仕方がない子供」のようにしている。

「ダメだって。死ぬかもしれないからってさ」

僕はその言葉になんと返せばいいのか知らなかった。だから、「そっか…」と、なるべく言葉に重みがあるような風を装うことしか出来なかった。

「ね、外出できるようになったらさ、また「海賊」行かない?ここから近いし!」

「え、ええ?いいの?」

確かにここは僕たちがよく行った「海賊」からあまり離れていない。その気になればバスと電車を使って行けそうだった。でも、友人を伴っての外出なんてしていいのか、近親者が付き添うのが真っ当なんじゃないかと、僕は少し迷った。

「大丈夫、大丈夫」

「そっか。じゃあ今度行こう。外出できるようになったら教えてよ」

「うん、退院するにはまず外出からやっていくみたいだし、そんなにかからないうちにできるよ」

ユリは今からその日が待ち遠しいというように、また嬉しそうに笑っていた。僕はなんとなく、“もしかしたら具合が悪いのを無理して笑っているというよりは、退屈が晴れて笑ってくれているのかな。”とちょっとだけ思った。


僕が病棟から出て行くとき、ユリは病棟の出口に近寄らせてもらえず、看護師は何度も後ろを振り向いてユリが出口を見守っているだけなのを確認し、僕を外に出してくれた。それから帰る道々僕は考えた。“彼女は、病の床にも僕を招こうとしてくれた。僕とユリは友人関係だけど、僕はこれからずっとユリを見守ることにしよう。彼女が泣く日があるならいつも僕が駆けつけられるように。泣いてはいなくても、本当は泣きたいんだろうユリの近くに居られるように。誰も居ないよりは、マシだろう。”そう考えて、僕はもう一度、自分の気持ちに蓋をした。


でも、結局僕はそれを口にすることになる。それはその日からたった二カ月後のことだった。


五話 僕はついに負けた






ユリが入院中、外出として僕と一緒に「海賊」に行くということは、結局うやむやのまま実現しないまま、入院して一カ月ほどでユリは退院した。僕は仕事が忙しかったので祝いのメッセージを送るだけになってしまった。でも、僕たちは秋の中ほどに、ユリの誕生日の記念として食事に出かけた。もっとも、僕とユリは一番親しい間柄でも家族でもない。それに誕生日は平日だったから、ユリの仕事の休みを待ってからになった。実際の誕生日よりは五日ほど経って、僕は彼女を、互いの中間地点ほどの駅前にあるレストランに連れて行くことになった。

その前夜、僕は長い考え事をした。つまらなくて埃だらけの僕の家には、布団がある部屋に座卓がある。そこには空の煙草の箱がいくつかほったらかしになり、灰皿には山のように吸い殻が積み上げられていた。僕が帰って来たときには、まだ少し蒸す秋の陽気が部屋中に詰まっていたから窓を開けたけど、部屋が冷えても僕は閉めるのを忘れていた。ふと、少し冷たい風が吹き込む。でも僕はそんなことには構っていられなかった。僕は火の点いた煙草を指に挟みながら、ときどき思い出したように吸い込んでは、また忘れた。

僕は、“ユリのことは諦めて、彼女の前から去らないといけない”という考えにまた苦しめられていた。一旦は“見守るだけならそばに居ることは許されるだろう”と考えたけど、僕はその気構えでしばらく過ごしていたことで、「そばに居るだけ」では、ユリと関わることが辛過ぎて堪らないと知った。言いたかった。自分の気持ちを。苦しい気持ちは、“早く早く”と解決を急がせる。

“欲望を抱えたまま素知らぬ顔をするのは、死ぬより辛い。はっきりと彼女を愛していると分かった以上、この秘密はいつ口を滑り出さないとも限らない。でもそれは絶対にダメだ。ダメだけど、もう我慢していられない。だからいっそ、ユリとは永遠に別れてしまいたい。でもそれには、僕がいつでも彼女と会える場所に、関係に居たんじゃダメなんだ。”

その想念は、僕にもう一度死への憧れを思い起こさせた。そのとき僕は、それがとてつもなくけがらわしいことのような気がした。“そんな。僕はユリに関することまで、自分の死への憧れで埋め尽くしてしまうのか?彼女のことでさえ!いいや、ダメだ!それだけは許さない!”僕はそう無理やりに心の中で決めて、暗く冷えてまた尖っていく心を無視し、ユリの姿を思い浮かべた。初めて会ったときの、寂しそうな様子、手に包帯を巻いて笑うユリ、それから、僕を見つけて嬉しそうに駆け寄ってきた病院でのユリ…。僕はそれを思い出してため息を吐いた。

“思い返せば、彼女も死に近い場所に居るのではないか…?彼女だって、いつも死に憧れてるんじゃないだろうか?もしや…もしや僕がそれを助けているとしたら…?彼女と以前その話をしたことで、彼女の中の死への憧れに居場所を与えてしまっていたとしたら…?そうだ、僕たちをまだ友人で居させているのは「それ」に違いない。だとすると…。”

僕はその先にある答えをはっきりと知っていたのに、考えて言葉にするのも恐ろしく、そしてただ“ユリとまだ一緒に居たい”と思う自分を、“卑怯者”と罵った。

翌日、僕の仕事が終わってから、久しぶりに僕は昔着ていたちょっと格好のつく服を選んで埃など付いていないか、虫食いが無いかを確かめた。それからシャワーを浴びて歯を磨き、選んだ服に着替えて家を出た。

別にユリを靡かせようとか、口説こうなんて考えていたわけじゃない。ただ、彼女の晴れの席とも言える誕生祝いに、みっともない恰好で現れることはしたくなかった。それがユリを愛しているからこそ見せる僕の意地でしかなかったとしても、ユリに恥をかかせるようなことじゃないし、迷惑になることでもない。そんな風に自分を慰めた。何の実りもないのに甲斐甲斐しく努力する哀れな五十男である、自分を。

「文ちゃん!久しぶり!」

「うん、遅くなったけど、誕生日おめでとう」

「ありがとう!」

僕たちはそんな会話をして、ある駅の改札口で待ち合わせた。それから僕は先を立って歩き、機嫌良くいろいろと喋りかけてくれるユリの軽やかな声を聴きながら、彼女を予約していたレストランに連れて行った。

僕たちは個室に通されて、四人掛けの席に就いた。ユリは花柄のワンピースの上に、同じくらい丈の長いニットのカーディガンを羽織って、足元は細い紐をたくさん編んだようなサンダルだった。バッグは黒いトートバッグで、ユリはそれを隣の座席に置く。腰から下は隠れてしまったけど、彼女が柔らかくて暖かそうなカーディガンに包まれてにこにこと笑っている様子は、世界で一番可愛いと思った。本当にそう思った。

ユリは、どんどん綺麗になっていく気がする。僕は彼女に新しくまた美しい季節がやってきたことに感じ入って、まだ何も話していないのに泣いてしまいそうになった。

「今日はありがとう。ここ、どんなお店なの?」

「んー、フレンチの創作料理だって」

「そうなんだ。じゃあ楽しみだね」

そのとき僕たちはお互いに、どこかもどかしい気持ちを抱えていたかもしれない。個室のレストランでの食事なんて、まるでカップルのデートみたいなことをしていたからだ。でも、僕は「年上の知人」として、彼女の誕生日を祝うにふさわしい場所を選んでいるんだという態度を貫くつもりだった。もちろんこんな甘い空気の匂う空間なら、彼女に気持ちを渡すのにはうってつけなのかもしれない。でも、ユリは昔からファストフード店や喫茶店が大好きで、ざっくばらんに話して笑える空間が落ち着くようだった。

案の定ユリはそわそわとして落ち着かないけど緊張しているようで、ちょっとユリには申し訳ないけど、そんなつたない仕草もとても愛らしいと思った。


やがて料理が順番に運ばれてきて、僕たちは焼いた魚をゼリー寄せにしたものや、小さなステーキ、美味しいドレッシングと新鮮な野菜のサラダなどを胃袋にたっぷり詰め込んだ。それからそのあと、僕は少しお酒を飲もうとしてワインを店員に聞き、それと一緒におつまみを頼んだ。それは殻ごと蒸した落花生だった。

「へー。落花生殻ごと蒸してあるんだ。あ、私剥いてあげる!」

「そう?じゃあお願い。ありがとね」

「うん」

ワイングラスは僕の方だけにあって、ユリは小皿に盛られた落花生の殻を剝きながら、こんな話をした。

「それにしてもさ、私も人生いろいろあったような気がするんだ。でも、いろんな人の助けがあってさ、誕生日ってそういうこと考えるよね。それで、やっぱり友達として助けてくれた文ちゃんは…ありがとう、私、文ちゃんにはいつも世話になってばかりで…今日もこんなお店に連れてきてくれてさ、こんな風に大人の女性として扱ってくれる人、他に居ないし…みんなどこか子ども扱いばっかで…それも仕方ないけど。私、子どもだし…だから、気を遣ってくれるの、嬉しい…でも、こんなんでごめん…」

下を向いて、たどたどしく落花生を剥くのに苦戦しながらも、ユリは静かにそう語った。僕はそのとき衝撃を受け、ユリの言ったことに答えたくて堪らなくなった。“僕がそうするのは君を愛しているからだ!だから君は立派に大人の女性なんだ!”と叫んでしまいたくなった。それで僕の背中にはどばっと冷や汗が流れ出し、ずっと押さえ込んでいたものが堰を切って、今にも心からはみ出していまいそうになった。さっきまでは“ユリは僕をただの友人としか考えていないから”と、平然と構えていられた。でも今は、ユリが僕を信頼してくれていて、友情よりは絶対に一匙か二匙は重い気持ちを向けているのかもしれないと知ってしまった。そこには天と地ほどの差がある。

僕は自分が期待をしていることを知っていた。“そこまで思ってもらえているなら断られる確率も低いんじゃないか”という、安直な考えだ。僕はそれで、彼女の真摯な言葉を品定めに使った罪悪感を感じた。それなのに、どんどん強くなる期待が、「早く言え。もう言っちまえ。上手くいくかもしれないじゃないか!」と僕を急かす。


“どうしよう?いや、もうダメだ。もう堪えていられない。言ってしまおう。どうせふられるんだから、大して悪い事でもない。もう捨ててしまおう!”


ちらりとユリを見たけど、ユリは湿った落花生の殻がなかなか割れなくて困っているようだった。細い指では力が上手く入らず、つるりつるりと何度か滑るのを見ていて、僕はじわりと胸が温まる気がしたけど、芯にある魂は冷えたままでいるように感じた。


“もし、君と心を通じ合わせることが出来るなら。僕は初めて安堵するんだろう…。”


そう思って、僕は泣きそうになったから、下を向いた。


「僕さ、ユリちゃんが好きだよ」


僕はついに負けた。でも僕はそれで久しぶりに、楽に息が吐けたような気がした。


「えっ…?」

ユリはちょっと呆気に取られたように顔を上げて、僕の言葉を目で確かめようとする。よほど意外だったんだろう。僕は緊張させていた体の力を抜いているところで、ぐったりと膝の間に手を落として椅子の背もたれに寄りかかり、ユリに一度頷いた。ユリはまた下を向いた。

「死ぬ前に、君に言っておかないと、後悔するかなと思って」

“ああ、僕はなんて卑怯なんだろう。”そう思いながら、そう言った。

ユリは一度心配そうに僕を見てから明らかに動揺し始め、最後の落花生を剝いている手は震えて、豆が一つテーブルの上に転がった。そしてそれが終わるとユリはおしぼりで手を拭い、テーブルの下に両手を隠してうつむく。

「…返事とか…した方がいいのかな…」

どこかぼうっとしたユリの声には、友人関係を裏切られた怒りや、年が離れすぎているのに恋愛対象として見ることへの呆れは無かった。“そうだ。だから僕は言わないでいようとしていたのかもしれない。彼女は真剣に考えてしまうだろうと、分かっていたのかもしれない。”僕は諦めたような気持ちでそう考えながら、ワインを一息に飲み干した。

「今度でいいよ。何も言いたくなかったら、それでいい。今夜はもう帰ろう」

“ついに言ってしまった。彼女の信頼や友情が普通よりも大きいらしいと目ざとく嗅ぎつけ、そこにつけこむように「死ぬ前に言っておかないと」なんて、まるで返しの付いた釣り針で心を引っ掛けるように、彼女に告げた。卑劣な真似をしたもんだ。今までだって卑怯なことはいくらでもしたけど、純粋な信頼を利用するように欲望を押しつけるなんて、こんなことは初めてだ。でも僕は、“どうか「うん」と言ってくれ”とだけ願っている。そうだ。そう願っている。だから卑怯な手口を使った。なるべく彼女が「いやだ」と言えないように。だって僕は、彼女を愛しているんだ!”

僕は帰宅して服を脱ぎ捨て、下着だけになってそのまま布団に横になり、そう考えていた。

“どんなに卑怯と言われようと、手を汚そうと、彼女がそばに居てくれればそれでいい!そうじゃなきゃいやだ!僕は彼女ほど愛した女性は居ないんだもの!”

そう思い始めた頃、僕はむせび泣き、布団を抱いて身を縮めていた。そのうち眠ってしまうまで、僕はずっと“どうか「うん」と言ってくれ”と願い続けた。



六話 美しい季節






「えっと…その…」

目の前には、とびきりのおめかしをしてきたのだろうユリが居る。僕は体が震えるほど嬉しい気持ちを隠すため、全身に力を込めて座っていた。「ハーベスト」のマスターはこちらを見ずに僕のコーヒーカップを洗っている。

「よろしくお願いします」

そう言ってユリがぺこりと頭を下げた。顔を上げたとき、彼女は恥ずかしくて堪らなさそうに真っ赤になっていた。伏し目がちで、ちらっとこちらを見たユリの大きな目は、このとき僕のものになったのだろうか。

“返事するから、会おう”というユリからのメッセージが届いたのは、家庭教師として教えに行っている子供の家に居たときだった。僕はそれで慌ててその子の家から飛び出しそうになる自分の体をイメージしてしまい、はっと辺りを見渡したのを覚えている。

「せんせい、どしたの?」

「あ、ああ、なんでもないよ。終わったかい?」

「…わかんない」

「そう。どこがわからない?ちゃんと言えるかな?そこからやってみよう」

僕はそのまま指導に戻って子供に勉強を教えていたけど、頭の中ではユリがいろいろな恰好をして僕の前に現れる想像しかしなかった。そのときの想像でユリは、「最後になるから、顔を見ておきたくて」と言ってレモン色のワンピースで僕の気持ちを退けたり、もしくはモスグリーンのジャケットで「今日から、お付き合いお願いします」と言ったりした。


ユリはいつか着ていた赤いチェックのワンピースで僕の前に座っていた。“ハーベストにしようよ。その方がいい”とユリは珍しく自分の希望を言って二人でここに来た。席に就いた初めのうちは、ユリは何も喋らずにもじもじとしていたり、そばを通ったマスターに水を頼んでいたりしたけど、やることもなくなって空白の時間が長くなると、どこか怪訝そうに僕を見て、こう喋り出した。

「“変だな”って思ったの。あのとき。だってあのレストランで文ちゃんから告白されたとき…私、“やっと来た”って思った。でもね、私、文ちゃんのことを好きで、特別待ってたってわけじゃなかった。だからちょっと自分の気持ちがわからなくて…」

テーブルに頬杖をついて、コーヒーカップの取っ手の細工をなぞるユリ。

「動揺してたよね。そういう理由だったんだ」

僕もそのとき“変だな”と思っていたけど、“変なところなんかない。君のそばにずっと僕が居た理由として思い当たるのは、普通は「恋をしている」ことくらいしかないんだから。”とも考えていた。多分、ユリは僕を純粋に信頼し、友情を持って迎えてくれていたから、僕みたいなおじさんが彼女の近くに居る不自然さは気にしていなかったんだろう。でも、心のどこかでは気づいていた。その気づきは今までの彼女には必要なかったから、知らないでいられたんだろう。

“まったく。どこまで純粋なんだろうな。”僕はそう思ってほとほと呆れたいような、もっと好きになったような、僕が彼女を守りたいような、そんな気持ちだった。でもまだユリは決定的なことは言っていない。そこでユリはちょっと気まずそうな顔をしてから、僕に答えを求めるような瞳を向けた。彼女が僕を見つめ、見上げている。

「多分ね、私、もう好きなんだと思う。でも、どうしたらいいかわからなくて…だって、元々好きじゃなかった人によ?一度告白されただけで「はいそうですか」って付き合うのって、不誠実でしょ?だから、その…でも、断れない。それで困ってるの」

そう言ってユリは、底の底まで全部白状してしまった。そして、あまつさえその決断を僕に委ねようとさえしているようだ。“おいおいこんなに上手い具合に運ぶか?”と、僕はちょっと不気味だったし、なんでもかんでも話してしまっても恥ずかしいとも思わないユリに驚いていた。どうやらユリは、「今こそ誰よりも誠実でいなければ」と思っているらしい。僕の告白は、一世一代の、隅田川に飛び込むか清水寺から飛び降りるかのものだった。ユリはそれをしっかり受け止めてくれていたようだ。それは多分ユリにとっては「相手から渡されたもの」に対するいつもの努力なんだろうけど、嬉しかった。

「それは君の決めることだけど、僕は君がなんと言っても受け入れる覚悟はあるよ。それに、死にもしないし。僕が死ぬのはもっと先だけど、我慢が出来なくなっちゃったのさ、ごめん」

“この台詞の半分は嘘だ”と僕はきちんと分かっていた。でも、その上で嘘を吐いた。僕は多分ユリが居なくなったら、いつも幻の彼女を追いかける生涯を送るだろう。“でも、それでもかまわない。そのために生きるのだ。”僕の気持ちはもう決まっていた。

ユリはしばらく横を向いていて、肘をついた手で口を押えて考え込んでいたけど、やがて僕に頭を下げたというわけだ。


僕たちは晴れて恋人同士となったけど、僕には次の罪悪感が襲ってきた。“彼女のお父さんになんと言い訳をするんだ?”というものだった。

ユリを懸命に守り育ててきた父親の前に僕が姿を現して、「お付き合いさせて頂いてます」なんて抜かしてみろ。どやされるくらいで済めばいいが、ユリも叱られるかもしれないし、僕たちは絶対に引き離されるだろう。だから僕はユリに、「お父さんとはまだ会えないかな。こんなに年が離れてたら、そうそう認めてもらえないからね」と言った。それは、怯えを隠すだけの言い訳だった。


ユリを僕の家に呼んだ日は、雨が降っていた。ユリは「傘、嫌いなの」と言って、びしょ濡れで待ち合わせ場所に現れた。僕はびっくりしてしまって慌てて彼女を自分の傘まで引っ張って、じっとり重くなったジャケットを脱がせた。僕はその日仕事の終わりが遅く、ユリを迎えに行ってもう一度家に戻っていたら、帰宅が12時近くなってしまうのが分かっていた。でもユリが「文ちゃんの家で今日会いたい」と言うので、バス停と、待ち合わせ場所としてその近くのコンビニを指定していた。“彼女のことを思うなら、もっと余裕のある日を選ぶべきだ”と思ったけど、ユリが電話で泣きそうな声を出して、「ごめんね、今日どうしても…」と言うのだ。別の日を選ぶなんて選択肢は僕には無かった。


僕は何も無くて寂れた自分の家にユリを招くのは気が進まなかったけど、直しようもないししょうがないと思って玄関の扉を開ける。奥の間に彼女を通してから、「ほんとになんにもないけど、とりあえず濡れた服を着替えなきゃ。僕の服貸すよ」と言った。ユリはちょっと赤くなってきょときょととしてから、「うん、じゃあ、頼む…」とつぶやいた。

「それにしても、ごめんね。駅前まで迎えに行けばよかった」

「いいよ。その代わり、お風呂貸して」

「うん。もちろん。体を温めないとね」

僕はタンスから、サイズに困らなさそうな大きめのTシャツと、スウェットパンツを選び出した。僕自身は男性で痩せっぽちなので、ユリの体型に合いそうなものというと、それくらいしか無かった。僕は年甲斐もなくどこか気恥ずかしくなりながら、それをユリに渡す。

「ありがと。あ、これなら入りそう」

「うん」

すると、ユリは渡した服を持って、急に寝室の方に行って襖を閉めた。僕はどうしたんだろうと思って、襖のこちら側から声を掛ける。

「え、ユリちゃん?どうしたの?」

僕はなんとなく、彼女をずっと「ちゃん付け」で呼んでいた。なんだか、彼女に心を開いてもらえてからの方が良いような気がしていたのだ。そう、彼女はまだ僕にすべてを任せてはくれないような。

襖の向こうから、小さな声が聴こえてきた。

「貸してもらった服に着替えるから、開けないでね」

「うん…」


それから僕たちは湯船に湯を張るまでの間に、台所で遅い夕食を作った。「急な話だったから、今家にこれしかなくて…」と言い訳をすると、ユリは「ラーメン好きだもん、大丈夫!」と元気に返事をしてくれた。それから二人で肩を並べて袋麺を一緒に茹でて、スープを丼ぶりに溶かし、一緒にすすった。

「うん!これ美味しい!そっち味噌だっけ?ちょっとちょうだい!」

ユリは楽しそうに、美味しそうに、即席めんを食べてくれた。僕はちょっと情けない気分だったけど、せめて彼女が楽しんでくれているならと、ほっとした。

「うふふ、いいよ。醤油もひと口もらえる?」

丼ぶりを交換してひと口だけ食べ合って、にっこりと微笑み合う。幸せだった。本当に幸せだった。他には何も言いたい言葉は無かった。僕の大きなTシャツをユリが着ると袖口がゆったりとだぶついて、彼女はどんぶりの中身に最後まで目を輝かせて、「ごちそうさまでした」と丁寧に手を合わせた。わけもなく僕たちは微笑み合い、小さなことで大笑いした。

“ユリは今、僕だけを必要として僕だけを見つめていてくれるのかな。”そう思うと僕の心臓は、今にも死んでしまうかのようにとめどなく高鳴った。

それから僕たちは闇夜の中で、お互いを許し合った。この話は誰にもしたくない。僕だけの秘密にしておきたい。ただ、一つ言うとするなら、“このときが永遠に終わらないで欲しい”と、僕は願っていた。


ユリはそうやってときどき僕の家に来ては、夜を共に過ごした。そのとき僕は、幸福と、それから罪悪感とのどちらもに焦がされながら、それらをいっしょくたにした喜びに癒された。

そしてそうやって二、三度僕の家を訪れてかあ、ユリにとってと僕にとっての、「二人の道」が始まったと思う。ある晩、ユリは服を着てから僕の布団に包まって、ぼんやりと目を虚ろにさせていた。僕はユリが入っている布団の間にテーブルを挟んでユリに向かって、煙草を吸っていた。少し前まで和やかに微笑んでいたユリの目は、だんだんとろりとろりと溶けていき、憂鬱な闇の底を映すような黒色に変わっていった。そして今、彼女は本当の暗闇の中で目を開けているように、まるで何も映していないかのような目をしていた。僕はその移り変わりを見て、ユリが開いた扉の先にある闇の深さ、大きさに圧倒されながらも、“やっと見せてくれるのかな”と思って、ユリの言葉を心待ちにしていた。

「ねえ…私さ…困ってることがあるんだ」

ユリは独り言のようにそう話す。“僕は多分ユリに答えを与えてやることは出来ず、それでも答えてあげられないことを彼女に謝らなきゃいけないんだろうな。”と思っていた。ユリがこの先に何を言ったとしても否定することは許されないし、答えてあげられなかったら僕の方が悪いのだ。多分そうだと僕は思っていた。

「困ってることって?」

僕はラッキーストライクの吸い口に口をつけて吸い込み、薄曇りの空のようになった煙い部屋の中にまた灰色の煙を吐いた。ユリはどこも見ていないし、おそらく僕が目の前に居ることも考えていない。いや、考えているつもりだろうけど、彼女は気づいていない。

「うん…内容はわからない…でもね、ずっと困ってるの…それが怖いの」

そのとき、ふっと僕の中で、雲った部屋の煙が晴れるようなイメージが生まれた。“内容がわからない悩みが怖い”。それは僕も持っている感覚だ。それがユリと同質のものかはわからないけど、僕だって同じ言葉で説明できるものを持っている。でも僕はこの考えをユリと共有することを恐れた。もしそうしてしまったら、僕たちは互いを理解しようとせずに、同一人物を扱うように互いを扱ってしまうのではないか?“無鉄砲なユリなら、そうしてしまってもおかしくはないかもしれない”。

僕がしばらく言葉に惑っていると、ユリは虚ろになっていた目を尖らせて、やっと僕を見た。“ああ、ここからか”と僕は思った。ここから僕たちの、「分かり合えない旅」が始まるのかもしれない。

「文ちゃんってそういうのないの?」

まるでユリはそれが信じられないというように語調に怒りを滲ませながらも、ただちょっとゴキゲンナナメになっただけだった。枕に乗せた頭を持ち上げただけで、布団からはみ出させた手を軽く握っているだけのユリは、もうすぐ二十三歳だと言うのに、十四歳のときに出会ったときと大して変わらず、美しく、あどけない。そんな少女のような彼女が抱えている闇は、拒まれただけでこちらに襲い掛かるだろう。その幼さと純粋さゆえに、彼女は同意以外を受け入れることが出来ないのだ。母親に今日あったことを話すように。

僕はそこまで理解しているだろうと自分で踏んでおきながら、彼女に同意を与えた先が底なしの沼だと分かるから、進むことを「勇気」とは見られなかった。

「うーん、あるけど…どうだろう、ユリちゃんと同じものかはわからないし」

“素直に答えてみたらどうなるだろう”と考えた。考えたはいいが、ユリは飽きたように僕から目を逸らし、「ふうん」と言って、どうやら退いてくれたようだった。“でも、ごまかしや先延ばしはいつまでもは通じないだろうな。”ということは分かっていた。僕は自分がユリに何を求められているのかなんて分からなかったのに、なぜかその答えをもう知っている気がしていた。“そしてそれはとてつもなく大きくて、僕なんかには用意出来ないものだろう。”それだけはすでにはっきりしていた。

僕はある日、食べ物の買い物を近所のスーパーでした。そのスーパーはアパートから歩いて二十分ほどのところにあるけど、僕は値段の安さから、「食料はここ」と決めて週末に通っていた。

もう八時半を回った頃に、えっちらおっちらと坂もない平坦な住宅街を走る。植木屋によって刈り込まれた木や草ぼうぼうになった庭が見え、それは街灯の灯りに照らされて輪郭だけ青白く浮かび上がっていた。生垣に街灯の光が過ぎるのを目で追うと、ときたまそれが瑞々しい椿の葉などによってきらりとナイフのように光る。そしてある角を曲がって国道に出ると、その角に店があった。スーパーの前に自転車を停めて、僕は中に入る。

その日、思わぬ人物に出くわした。依子だ。僕がいつものようにカゴを抱えて袋麺売り場に入ろうと通路を曲がったとき、依子が売り場の向こう側に見える通路を横切るのが見えたのだ。彼女は何かを探しているような目を宙に浮かせていたけど、それが急に僕を見つけて、依子の目は険しく厳しくなった。僕は彼女と過ごした、いや、自分を偽って過ごした日々を瞬間で思い出し、さっと悪寒が走る。

僕は依子から目を逸らすことは出来ず、依子もしばらく僕を睨んでいたけど、やがて「つまらないものを見た」というように目を逸らして、前を向いてついっと歩いて行ってしまった。それはほんの十秒も掛からない出来事だった。僕はほっと胸を撫でおろしたけど、依子を傷つけただけだったことで僕が得たのは「罪の意識」だけで、「後悔」ではなかったと分かった。“そうだ、僕は依子を見ていなかった。彼女を欲していたわけではなかった。僕の中で彼女は全くの「代わり」で、僕は依子に対してそんな扱いをしたことに罪の意識は抱いても、彼女を傷つけたことで僕の心も痛むようなことはなかった。愛していなかったのだから。”僕はまた自分を“卑怯者”と蔑んだ。

そのスーパーからの帰り道に、ふと思い出したように、ユリのことを考えた。

“そうだ。彼女は母親から拒否された過去を持っている。つまり、全くの肯定をおそらく受けていない。”突然僕はそのことに思い至った。それはおそらく僕が今までずっと、ユリと男女の仲になってからずっと頭の裏側でいつも考え続けてきたことで、今やっと答えが出たのだろう。そして僕は途方に暮れ、自分が間違っていなかったことを知った。

ユリが入院して僕が見舞いに行くとき、僕は“自分なんかで彼女の助けになるはずはないのに”と自分を責めながら病院に向かった。それは間違いではなかった。ユリは「すべてに対する許し」が欲しいのだ。僕はその闇の深さに足が竦む思いをしながら、カゴに乗せたスーパーバッグをガサガサと揺らして、誰も居ない夜の中に、自転車と一緒に吸い込まれて行った。


七話 迷路の中へ






ユリの様子はだんだん変わっていき、彼女はとうとうある日僕に打ち明けてくれた。その晩は二人で食事をしてから、僕の家にユリを上げた。

ファミレスでのユリは、別段変わった風もなく、ただ楽しそうに始終喋っていた。僕もそうだ。普段は「黙っていて何を考えているかわからない」と言われる僕だけど、それは“考えていることを悟られたくない”と思ってあまり喋らないからで、当然の結果だ。でも、ユリの前では自分そのままで居られた。それは僕にとってとても心強く、魂がのびのびと息をしているのを感じた。ユリと話すのはとても楽しかった。僕たちはファミレスだというのに、スレスレの政治議論までやっていた。

「だからさ、ヒトラーは確かにこの上ない悪人だったけど、ドイツの国力を取り戻したのは彼がやったヴェルサイユ条約での負債返済の撤廃だったのさ。それで、国民はみんな我を忘れた。でもその後の政治はもう酷いなんてものじゃない。極悪非道と言っていいものだよ」

「確かにね。もちろん国民の求めることをすれば為政者が支持されるのは仕方ないと思う。でも、新たに出されたものについて、国民だってもっと吟味する必要があったと思うよ」

「そうだね、それは言える。人心っていうのがいかに“いい塩梅に行けばいい”ってだけの、無責任なものかがわかるよ」

「でも、やっぱり言い出しっぺが一番悪いとは思うけど…」

僕たちはそんな、今更話しても仕方ないような、しかも口にするのも憚られるほど痛ましかった出来事についても語った。僕はこれをさせてもらえるのがとても楽だった。今までこんな話を友達に持ち出したら、「お前はなんて奴だ」と責められたし、僕がそれらを話す動機として、“純粋に過去の歴史の理解を深め合いたくてやっているつもりなのだ”と言っても、誰も信じてくれなかった。僕は、喋りたいことをいくらでも喋らせてくれるユリに感謝していた。でも、そこでユリがふっと真剣な目つきになり、ちょっとため息を吐いた。

「でもさ、こうやって話していても、これはただの羅列に過ぎないと思う」

「羅列?」

僕は初め、ユリの言った事の意味がよく分からなかった。

「だってさ、私たちは過去にあったことを喋っているだけで、何も「その時こうすれば防げたかもしれない、誰それがこう言えば止められたかもしれない、これから先に同じことを起こさないためにはどうすれば…」なんてことは話さないじゃん?」

僕はそこで、はたと気づいた。“確かにその通りだ。だからこれは議論ではない。”そして、“一体ユリはどんな女の子なのだろう?こんな風に気づくとは…。”と、彼女がどこか末恐ろしい存在のようにも感じた。

「そうだね、確かに羅列だ。でもね、議論っていうのはそうそう簡単にできることじゃない。やっぱり、難しいよね」

「うん。私もできない…」

そう言ってうつむいてしまったユリに、僕は「まあそんなに構えないで。僕たちは学者じゃないんだから」と言った。ユリは「そうだったね」と笑った。それから僕達はドリンクバーにも飽きてしまい、すぐ近くの僕の家に向かった。


いつも通り僕の部屋に着くと、その日のユリはちょっと決まり悪そうにしながら、「ちょっと疲れたから休ませて」と言ったきり、ぐったりと布団に体を横たえて、すぐに眠ってしまった。僕は少し面食らったけど、前に彼女が「うつ病になっていた」と言っていたのを覚えていたので、“休ませてあげないとな”と思った。僕も過去、少しは精神科通いをした事がないわけじゃない。そういう事は少しは知っていた。僕は眠り続ける彼女の顔を眺めたり、煙草を吸ったりして過ごした。

ところが、しばらくそうしていると、眠っているユリがだんだんと苦しそうな表情になり、少しずつ夢にうなされているのが分かるようになった。“悪い夢を見ているのかな。起こした方がいいかな。”と、僕は少し心配だった。そう思って手を出そうか迷っていたとき、ユリは寝言を言った。僕はその言葉に背筋が冷えた。ユリは苦しい息を継ぎながらこう言ったのだ。

「…ママ……」

僕はそのとき、ぞっとした。“ユリは母から虐待を受けていた。それなのに、ユリはまだ夢の中でそれを追体験しているか、母に愛されなかったことを悲しみ続けている…。”そのことに胸が引き裂かれそうになり、今すぐ彼女を揺り起こして強く抱きしめ、「忘れてくれ。頼むから忘れてくれ」と伝えたかった。でもそれはユリにとっては酷な要求だろうとも思った。「かけがえのない何かを失った痛みは、ついてまわる」。人はそう口を揃えて言う。“でも、それじゃユリが辛過ぎるし、結局それは叶うことでもない。いつか忘れてくれるまで、僕はユリを支えよう。”僕はそれが叶うか分からない頼りなさを感じながらも、煙草をもみ消し、布団に近寄り、少しずつ呼吸を取り戻し始めたユリを起こした。

「ユリちゃん、ユリちゃん。もう四時だよ」

彼女が目を開けて、ぼんやりと僕を見つめた。まだ焦点の定まらない目は、ユリが見ていた夢の中から僕を見つめ返しているようだった。僕が微笑んで見せると、ユリはくしゃりと泣いた。そしてまだ力の入らないらしい腕で起き上がり、ユリは僕の胸に縋ることなく、涙を拭った。“本当は僕の胸に飛び込んで欲しい。でも、僕だって、今すぐ君を抱きしめてすべてを受け入れるのを怖がっているんだ。”そう思いながら、出来るだけ優しく彼女の事を見つめ続けた。ユリは涙が収まると、「夢を見た」と言って、その内容を話し始めた。

「夢はね、私とお母さんの夢。私はお母さんに追いかけられて必死に逃げてた。それはすごく怖いことのはずだけど、なんでかわからないけど、私、悲しくて悲しくて…そのうちにお母さんはぷいってどっかに行っちゃって…でも私は、怖くてお母さんが追いかけられなかった…もう会えないの。お母さんのことが怖くて仕方がないから。でも…」

僕はそこで、僕の知っているユリの真実らしきものを話そうかどうか、迷った。でも、彼女がまた泣いてしまうかもしれなくても、「わかってるよ」と言いたかった。

「君は、ほんとはお母さんと暮らしたいんだよね。なんとなくだけど、わかるよ」

そう言うとユリははっと顔を上げて、驚きと喜びの混じった目で僕を見つめた。そしてコクコクと頷くと。「そう、そうだよ」と言った。僕は、だんだんと僕とユリの間の壁が低くなって、今では顔を見合わせる事が出来るほどになったのが分かってきた。

「私は…お母さんが好きだった。自分に課された期待が誰にも果たせないものだってわかってても、お母さんに逆らえないのはただ怖いからで、愛情から“応えてあげたい”と思ってるわけじゃないのもわかってても…やっぱり、母親と離れるって、辛いよ…!」

ユリは顔をぐしゃぐしゃにして泣き、一生懸命目をこすった。僕はそのとき、やっと彼女を抱きしめることが出来た。“今なら僕は「守る」ことを許されているだろう”と思った。腕の中にあるユリの小さい肩は、小刻みに震えていた。

「ユリは、優しいね」

「そんなことない…私は、お母さんを捨てたの…」

僕はまた胸が痛んだ。子供は親に対して責任なんか無いのに、ユリはそれを思い込んで、“酷い母親から辛くも逃れて幸福へと歩み出した”とは思えず、“母親を置いてきたのだ”と、自分を責めている。それに、さっきからユリが母親のことを口にする言葉は、「現在進行形」だ。今も同じなのだろう。でも、僕に言える言葉はもう無かった。なぜなら、僕が思い描くユリの母と、ユリの心の中に居る母親は、きっと全然違う人だろうから…。


僕たちはそれから、しばらく会う暇が無かった。僕は仕事がちょうど立て込んでいて、ユリも部署移動の直後だった。ユリは、「覚えること多すぎ!」とSNSのメッセージで悲鳴を上げていた。そんなもんだから、僕は自分の誕生日をユリに伝え忘れていた。そこへ、思わぬ人物から僕のスマートフォンに着信があった。

「もしもし…?」

僕がその電話を取ったのは、“もう冷静になってくれただろうか”という期待があったからだ。電話は、東野からだった。“もう掛かってくることもないだろう”と思って僕は着信拒否リストから外して、そのままになっていたのだ。スマートフォンからメロディが鳴って画面を見たときにはドキッとしたけど、大して抵抗は無かった。東野と会わずに連絡も取らずに居てから、ゆうに八カ月は過ぎていた。

「よお…文ちゃん」

電話の向こうから聴こえてきたのは、幽霊が恨みがましく喋るような声だった。それで僕は“まだ落ち込んでいるんだな”と思って警戒したけど、東野は「話したいことがある」と言って、「会って話がしたい。酒の入らない場所で頼むよ」と言ってきた。東野があまりにも元気が無さそうだったので、僕は東野に店を指定してもらって、後日、東野の家の近所にあるファミレスに行くことにした。

東野はある昼下がり、真っ青な顔色とげっそりこけた頬、前よりもさらに痩せた体で、あちこちシワになったワイシャツとスラックスだけで店の前に現れた。僕は東野の背中を押して手伝ってやるように、二人で店に入った。

席に案内されても僕たちは一言も喋らず、僕は東野が口を切るのを待った。僕が何か聞いたところでそれは東野が打ち明けたい事とは限らないし、話したかったことを妨げるかもしれないと思っていたからだ。ファミレスのフライドポテトはさして手をつけられないままでテーブルの上を陣取り、僕たちはそれを見つめていた。不意に東野は背筋を正し、そして僕に深々と頭を下げた。僕は驚いて少し身を引いてしまう。

「ごめん文ちゃん!俺、あの頃どうかしてたんだ!許してくれ!」

東野が真剣に何かに取り合おうとするなんて、めったに無いことだ。僕はそれでびっくりしたままだったけど、早く東野を安心させないとと思って、「そうでもないさ。それに、もうよく覚えてないしね…僕こそ、あんなことをしてごめん。友達として、良くなかったと思う」と答えた。僕がそう言うと東野は肘をついて両手を握り合わせ、それを眉間に押しつけてしばらく泣いていた。

「そんなことない…!文ちゃんがああしてくれなかったら、俺はもっと悲惨なことになってた…!」

どんな道のりを乗り越えて東野が元に戻ったかはわからなかった。東野はあまり話したがらなかったから。僕は「何があったの?」と聞いたけど、「言ったってくだらねえよ」とつまらなそうに吐き捨てて、それで終わりだった。その後は昔の話を東野が始め、「あいつのイカサマを見破ってやったときのあの顔がよぉ」だの、「文ちゃんは勉強出来たのにグレてたから、俺ぁ不思議だったんだよ」と東野が楽しそうに喋るのに付き合った。

それから僕は東野とまた飲み仲間として遊び歩くようになり、僕はある晩、東野と飲み屋に居たときに、ユリからの電話を受けた。

さびれた小料理屋は安酒とそれから地酒、あとはごく安いつまみがあって、テーブルは油やら酒でべとべとだ。東野は良い気持ちで酔っているようで、僕が電話が鳴っていることに気づいてポケットからスマートフォンを取り出しても、あまり気もつかずにぐいぐいとビールジョッキを煽っていた。

「ああもしもし。あ、ユリちゃん、今ね、ちょっと友達と外に居るんだ。うん、うん、ごめん。じゃあまた、うん。おやすみ」

僕は“そっか、ごめんね”とこちらを気遣って「おやすみ」を言ってくれたユリとちょっとだけ話して、電話を切った。すると、途中からずっとこちらを見ていたのか、東野がニヤニヤと笑っていた。

「なんだい、女か」

そう言ってから東野はビールを飲み干したことに気づいてカウンター奥を振り返り、「すんませーん!燗酒一本ー!」と叫んだ。そしてまたこちらに向くと体をぐっと前に倒し、下から僕を覗き込んで笑う。僕はそれが東野の悪ふざけだと分かっていたけど、ユリのことだけははっきりと言っておきたかった。「彼女とは半端な気持ちではない」と。

「少なくとも。お前が考えてるようなもんじゃないよ」

すると東野は驚いてから笑い、「本気かよ。もう年だろ?」と更に冷やかした。僕はそこで急に物思いに沈みそうになって、酒場の喧騒がぼんやりと淡くなるのが分かった。

「そうだ。しかも相手は二十三歳だ」

自分が自分を嘲笑う表情が僕には外から見えているような気分だった。僕はその後で、「へへっ」と笑った。東野は僕の言った事に驚いて言葉も出なかったようだ。さらにそのことで自分を責めている僕を心配するように、東野の顔はずっと優しく、そして心配そうになった。僕は下を向く。

「…大丈夫なのかよ、そんなんに本気になっちまって」

僕はちょっとだけ顔を上げて、ちらっと覗くように東野を見た。東野はまるで、僕の恋を自分が背負わされているかのように顔色を青くしている。僕はそれに笑って、「全然。多分無理」とだけ言った。



八話 ろくなもんじゃない






東野には、僕がユリに夢中になっていることを「大丈夫なのかよ」と言われたし、僕も「全然。多分無理」と答えたが、それから僕とユリの関係は日増しに深刻な影を背負うようになった。そしてユリはある日、僕が一番恐れていたことを口にする。


僕たちが付き合いを始めたのは秋の終わりで、今はもう冬が終わり、春の前ぶれに山茶花が咲いていた。モクレンとこぶしも大きなつぼみを膨らませて、早い桜はそろそろぽつぽつと花を付け始めている。季節の移ろいに心が揺さぶられるような気がする頃だった。

そんなある日、ユリは真っすぐに僕の家に来て、僕はそれを駅まで迎えに行き、二人でコンビニに寄って食料を買い込み、僕の家でそれを食べた。満足な暖房器具も無い僕の部屋でユリは上着を着たまま畳に座り込み、玉子サラダのサンドイッチとカップのコーンスープを食べていた。ユリはコーンスープにパンが入れてあることにはしゃいでいたし、僕が食べていた海苔弁当を、「美味しそう」と覗き込んだ。

「フライ、ひと口食べる?」

僕はそう言って海苔が敷かれたごはんの上から魚のフライを持ち上げる。

「え、いいの?」

「うん」

僕が割り箸でフライ差し出すと、ユリはちょっと遠慮がちにその端っこを少しだけかじった。

「タルタルソースの付いてるとこ、食べればいいのに」

僕がそう言っても、ユリは「いいよ、美味しいし」と言ってにこにこしていた。


食後、僕たちは沈黙に包まれる。初めの頃は、まるでまだ自己紹介が続いているかのように僕たちはよく喋った。でも、それはそのうち飽きてしまって、二人で居てもユリはスマートフォンをいじっていたり、僕はぼーっと煙草を吸っている事が多くなった。ときどきユリは悲しい過去を話したり、仕事であった嫌な事を喋ったりしたけど、それも二言三言で終わってしまって、あまり会話は続かなかった。でも、その晩は違った。


沈黙の中、ユリは寝転んで布団に包まり、目を閉じていた。僕はぼーっとしてよそ見をしていたけど、不意にユリがため息の後で口を開く気配が分かった。

「ねえ、私たちってさ、年が離れてるよね?」

僕は、始めは分からなかったが、ユリの顔を見て分かった。それは悲しそうで寂しそうで、ユリが何を考えているか、僕はおおよその見当がついてしまった。それでも、次の言葉に答えてあげないと。“ああ、でも、僕だってそれがすごく辛いんだ。”僕はそう思わざるを得なかった。

「うん、そうだね」

ユリは僕を見なかった。泣きそうな顔をしていても、必死に堪えているようだった。

「だから…いつか私は、文ちゃんに置いてかれるの…」

そう言ってついに涙をぼろぼろとこぼしてしまうユリ。僕は本当にどうしたらいいか分からなかった。彼女を慰める言葉を知らなくて、“僕は彼女を愛しているつもりで、不安にさせているだけかもしれない”と気持ちが落ち込んでいきそうになった。でも僕はユリを見つめた。出来るだけ優しく。

「そうなるかもしれないし、そうはならないかもしれないよ」

本当にその通りだが、もちろん理屈に沿えばユリの言った通りになってしまう。それは人が望み通りに叶えることの出来ないものだから、ユリの不安はいつまで経っても消えないかもしれない。それを考えると僕は居ても立ってもいられないのに、何も出来ない歯がゆさばかりが募った。そして僕も、“ユリを残していくのかもしれない”と思って、悲しんだ。そして、この事は最後まで僕たちを苦しめることになる。

ユリはそれから、「置いて行かないで、置いて行かないで」と何度も泣いては、また落ち着いたように虚ろな目で黙り込むのを繰り返した。ユリが最後に泣いてから泣きつかれて眠ってしまった時、時刻は夜中の三時だった。または、朝の三時とも言うかもしれない。僕はそれからも起きていて、しばらく考えた。

僕は、彼女を慰めるために強く抱きしめることは出来なかった。多分、それではユリを慰める事が出来ないし、だとするならやらない方がよっぽどいい。

“ユリは僕から何かを受け取ってもきっと満足してくれない。”と、僕はそう思っていた。だから彼女を抱きしめることもなかなか出来ず、必死に慰めの言葉を浴びせることも出来なかった。彼女の孤独は、誰にも癒してあげられない。それは、僕の孤独が同じであるように。彼女は僕を愛してくれているかもしれないけど、遠い昔の思い出が詰まったその心の中に僕を入れることは、多分出来ないだろう。そう思って、涙をこすって真っ赤になったユリの目元を見つめていた。

“僕たちは互いに孤独だ。僕たちは互いを理解出来るのに、それでは孤独は癒せないというのだろうか…。”僕はユリを知っている。彼女が何を求めているのか知っている。でも、そのユリが求めるものはすでに失われていて、彼女がそれに苦しめられていることまでをも、僕は知っている。“だから僕ではダメなのかもしれない。別に僕は彼女の母親の代わりにされているわけではないけど、ユリが求めているのはすべてを受け入れてもらうことだ。それが僕に出来るだろうか?毎日毎晩浴びるように酒を飲まなければ自分の後始末すら付けられない、この僕に…?”

僕は、自分がすでに諦めかけていることに気づいていた。“ああ。”心の中でため息を吐いた。“この先、僕たちがどうなるのかは分からないけど、おそらく最低最悪の結末を迎えることは間違いない。どうして愛しているだけじゃダメなんだ。愛してると百万回叫べば、君は夢から醒めるのか…。”僕は少しだけ泣いてから、ユリの隣に潜り込んで自分も眠った。

翌朝、ユリが帰りたがらなくなってしまった。ユリは起きてから朝食として僕の袋麺をまた食べたけど、「また寝る」と言って布団に包まろうとする。

「ユリ、ダメだよ、もう帰らないと」

するとユリは布団を頭からかぶって、もごもごと布団の中からこう言った。

「帰らない。ここに住むもん…」

僕はそれで困ってしまった。ユリは働き口を見つけたけど、「お金が貯まるまでは」と言って、今はまだ父親の家に住んでいる。ユリが今晩も帰ってこないなんてことになったら、ユリのお父さんが心配するし、これは僕の責任だ。

「ユリ、ユリちゃん。あんまり困らせないで」

布団に向かって屈み込み、ユリの頭があるところをそっと撫でると、ユリはぐったりと何も反応しなかったけど、しばらくして苦しくなったのか、布団をがばっと剥いだ。

「ああ…苦しかった。じゃあ、帰ろうか」

そう言って笑うユリの目元には、うっすらと涙が滲んでいるような気がした。でも僕は、「泣いていたの?」と聞くことは出来ずに、ユリが着替えて僕の家を元気よく出て行くのについて、駅前まで送った。僕には彼女の抱える不安を一つ一つ解してやる余裕は無かった。自分でも情けないと思うけど、僕は自分がまともな状態で生きていないことは、もうすっかり分かっていた。そして、この時おそらく、ユリの中で“「それ」が決められた”のだと思う。


それから、少しずつユリの様子が変わっていった。だんだんと言葉遣いが乱暴になって、時には僕を引っぱたいた。こう言ってもここまでを読んでいる人からしたら「信じられない」と言うのかもしれないが、残念ながら本当だ。ユリを支えてやれなかったことへの報いとして、ユリが用意したものがそれだったんだと思う。

ユリは時折、「あんたなんて何にも分かってないくせに、知ったかぶった話してんじゃないの」と言って、僕の話を遮ったり、「ばーか」と言って僕を叩いたり、僕の髪を強く引っ張ったりした。

僕は初めのうちはそれを甘んじて受けた。なぜと言われて、僕はユリが求めるものを彼女にまったく渡せていない罪悪感に悩まされていたから、少しならちょうどよかったのだ。もちろんそれがだんだんと高潮して、僕は傷つけられるだけになることは分かっていたけど、我慢出来なくなるまでは僕は一緒に居たかった。


その日、僕はユリと一緒にラーメン屋に出かけて行った。そこは僕の最寄り駅から一駅離れた駅前にあるラーメン屋で、「美味しいらしいんだ」と前に話した時、ユリが「じゃあ今度行きたいね」と言った店だった。その時のユリは優しい目で僕を見つめて、僕を信じていくれていた。でも、ユリをそこに連れて行く頃には二人の関係が変わってしまっているなんて、僕は考えていなかった。

「ラーメンかあ~、久しぶりだな~」

ユリは間延びした口調でそう言って、行列の間に立っている。行列があまりに長かったので、“疲れさせてしまっていないだろうか?”と僕は不安だった。やっと席に就いてからユリは味噌バターコーンラーメンを頼んで、美味しそうに食べていた。僕はそれを見て心を癒すけど、彼女の心がもう変わってしまったことを知っている。

“僕はもう、ユリに憎まれているだろう。”そう思いながら僕はとんこつラーメンのスープを啜った。“ユリはこうして一緒に居てくれるけど、それは「彼女を救ってやれなかった僕を痛めつけるため」なんだ。彼女は僕を愛していない。でも僕は、彼女と一緒に居たいと思っている。こうしていつも、本当なら毎日会いたいと思っている。それは一体、なんなんだろうか…。”とんこつラーメンは白く濁って底が見えず、僕がそれを飲み干してもユリはまだ麺を食べ切れていなかった。

「ごちそうさま」

「ごちそうさまでした」

ユリはラーメンを食べ終えて、僕に微笑んでくれた。でも、ユリの作り笑いは、もう僕を喜ばせるためのものではなく、僕を欺いて手元に置くためなのだと、僕は分かっていた。

店を出た後でユリに後ろから蹴られて、「死んじまえ」と囁かれた。僕は、「死なないよ」とだけ返した。


寂しかった。苦しかった。“なぜ僕は愛したのに傷つけられなくてはいけないんだ。”やっぱり僕はそう思う気持ちを止められなくなって、ある日たまりかねて東野を呼び出した。愚痴を聞いてもらおうと思ったのだ。

「よお、どうしたよ。急に文ちゃんの方から電話してくるなんてめったにないもんで、びっくりしたぜ俺ぁ」

東野はそう言って、行きつけの飲み屋までの道をもう歩き始めている僕を、心配そうに覗き込んできた。僕はなんとなく顔を逸らす。

「店に着いたら、話すよ…」

僕たちは東野の最寄り駅に集まって、そこらで飲み歩く時にはまず初めに行く店をさして歩いていた。そこは何も無い田舎道で、人も歩いて居なかった。僕が降りたのはほとんど無人のような駅で、そこから国道を横にくぐる地下通路を歩いて行けば、駅前の街に出る。とは言っても、ほとんどの店がもう潰れた後だった。でも、「いい焼き鳥屋があるぜ」と東野が言って連れて行ってもらった店は、意外にもとても美味かった。

駅前通りを左へ折れて、国道より一本逸れた道を歩いて行く。そこはなんということはない住宅街だった。その中に、一階が店の構えで、上はご主人夫婦が住んでいる住居なのだろう焼き鳥屋が見えてきた。

「いらっしゃいませ」

ガラガラと引き戸を開けると、ご主人がすかさず僕たちを迎える挨拶をする。僕はうつむいたまま、座敷の席を選んで「ここにしよう」と東野に言った。東野は僕があまり人に聞かれたくない話をするつもりだと分かってくれたのか、「いつも通りにカウンターに座ろうぜ」とは言わなかった。


「ユリは…もう僕を愛してないんだ。それなのに一緒に居て、僕に復讐したがる。あの子があんな風になるなんて…。でも、ここまで来たらもう僕のせいじゃない。あの子は自分が満たされないから、誰かを傷つけたくてしょうがないのさ…それで、それをやっちまったんだ…僕でね…」

「おい、文ちゃん、それ以上は体に良くないぜ。また倒れたらどうするんだよ」

僕は長々とユリの愚痴を喋る間、ほとんど休みなく、言葉が途切れれば酒を飲んでいた。東野は心配してそれを止めようとするが、僕は「こういう時は飲めるだけまだ丈夫と思って飲んで忘れればいいんだよ」と、理屈に合わない返しをした。すると東野はテーブルに突っ伏して顔を上げているだけのような僕を覗き込み、こう言った。

「別れなきゃ、ずっとそのままだぜ、文ちゃん」

それで僕はびっくりして、急に怖くなった。“そうだ。別れればもうこんな目には遭わない。でも、ユリと別れるなんて…。”そう思って僕は、東野から目を逸らすために自分の腕の中に埋めた頭をうつむかせる。

「気持ちはわかるぜ。酷い扱いになっても一緒に居たい相手も居るだろうさ。でもよ、多分その子は文ちゃんじゃ変えられないぜ。だって文ちゃんは精一杯をやったのに、その子は「それでも足りない」なんて、そんな真似するんだろ?はっきり言って…文ちゃんのためにもならねえ」

「うるせえな…そんなん分かってるよ!」

僕は急にまともなことを喋り出した東野に向かって怒鳴ってやりたくなった。東野があんまりに見透かしてしまって、よりによって最悪の結論を出したからだ。“そんなの分かってる。ユリがろくな女じゃないなんてもう知ってる。でも僕は彼女を見捨てられないし、だから僕は丸っきりハナから負けてるんだ!”そう思って泣きそうになった。

「落ち着けって文ちゃん…」

「落ち着けるか!分かってるよ!僕は彼女に…ユリに…“裏切られた”と思われたんだよ…!」

「文ちゃん…」

僕の言ったことに東野はもう何も言えなくなってしまったのか、大人しく串焼きをかじっていた。

その晩、僕は結局酔いつぶれて東野の家に運ばれた。僕は東野に介抱されながら、「ユリとは別れる」、「もう別れる」と何度も言った。それを聞きながら東野は、「わかったよ、もう寝ろよ」と言って、寝そべった僕の肩を叩いた。僕はそんな状況だったにも関わらず、頭にユリの笑顔を思い浮かべて泣いていた。


終わり 一生分の恋






時々ユリは不安定になり、泣いてばかりになる。それは前から体験していたことだったけど、その日、僕はユリの底を見た。

僕はユリをいつもいつも美味い料理を出す高いお店ばかりには連れて行けない。だからいつもの食事はファミレスで済ませていたけど、ユリは変わらず「美味しい」と言って喜んでいた。そう。彼女は外に居る時は普通なのだ。でも、僕の家に来てしばらく経つと、彼女は泣き出したり怒り出したりしてしまい、時には手が付けられないほど落ち込むことがあった。

何度も見た、ユリのとろりとした虚ろな目、それから子供のように泣き喘ぐ声…。僕はそれに長くは堪えていられず、彼女を早くに寝かせてしまおうとしたこともあった。でもユリは「せめて話を聞いてよ。聞くくらい出来るでしょう?」と泣きながら訴えて来る。どうにも仕方がなくて、僕は何度もそんな事が続き、くたびれてしまっていた。僕だって傷ついていた。

「どうせ私のことなんかなんとも思ってないくせに、同情してくれなくていいよ」

ユリはそう言って、結局いつも僕の愛を信じてはくれなかった。

「そんなはずないだろ!ちゃんと好きだよ!」

僕がそう意気込んで胸を叩いても、彼女は横を向いて立ち上がろうとする。

「何?“ちゃんと”って!私、そんなのわかんない!帰る!」

「待ってよ、今から帰るバスなんかないよ!」

「じゃあ歩いて帰る!」

「落ち着きなさいユリ!明日の朝になったら駅まで送る。その時に帰るんだ。だから、もう寝よう…」

たとえば僕がそんな風に言って、内心では本当に困り果てている時、ユリはそれ以上無理無茶を言ったりはしなかった。彼女はギリギリのスレスレだけを守るために、「その直前までは悲しみを発散させている」。そんな気がした。だから僕もそれにある意味では甘えて、彼女のわがままを聞こうとは思わなかった。その前にも、たくさんわがままは言われていたし。でも僕にはちゃんと分かっていた。「すべてを受け入れる」ことをしない限りは、ユリにとってこの関係は「ゼロ」と同じなのだと。

僕はどんなに言っても、何をしても、いつ何時でも彼女を一番に選んだとしても、「愛されている」と信じてもらえなかった。どうしてなのかは分かっていたから、僕はそれをして彼女を責める事が出来なかった。おそらく、ユリには愛情の受容体のようなものが、無い。子供の頃にもらっていて当然のものがまるで無かった彼女には、愛を理解する事が出来ないのだ。それはどんなに寂しいことだろう。そう思うと僕の心は凍りつき、それから“僕の愛も彼女にとって無意味なのだろうか”と、悲しくなった。

その日、いつものようにファミレスから僕の家に上がり込んだユリは、酷く疲れている様子だった。季節はもう夏だ。世界中に響き渡っているように、窓を閉めても部屋の中に届く蝉の声。ゆるくゆるく首を絞めるような湿り気と、空気の暑さ。それらがじんわりと僕たちの体力を奪っていく。僕の部屋のエアコンは、寿命を終えたのにまだ生き続けさせられている生き物のように、苦しそうに唸りながら、そのくせ何も出来ていなかった。

「ファミレス、長かったから疲れた?」

僕は優しくユリに声を掛ける。ユリは布団に包まり、枕に押しつけた頬をずりずり動かして、やっと僕を見た。その顔は、力なく笑っている。寂しそうに。僕はその時、久しぶりにユリを愛しく思った。

「うん…ちょっと…」

そう言いながらユリは、何も映さなくなってしまった目を元に戻す。ずりずりと、また頬と髪が枕をこすった。横向きに寝転んで前を向いているユリは、おそらく僕の手の届かない所に居る。僕はそんな彼女にうっすらと、「ついていけない」と思っている。

“でも、もし今のユリが思っている願いを聞いてあげられたら、僕は彼女に許してもらえるかもしれない。”僕はふと、そう思って、ユリをもう一度見る。ユリはもう僕を見てはくれなかった。

「ねえ、ユリ…」

返事が返ってくるか不安だった。でも僕は次の言葉を言ってみて、それから考えようと思っていた。ユリはやっぱりじっと黙っていて、それはまるで僕の声が聴こえていないかのようだ。宙に浮くユリの瞳は、泣いていた。

「僕に、何か出来ることはないのかな、君に」

僕がそう言った時も、ユリは身じろぎもしなかった。ぐったりと力を抜いている彼女の体は、まるで今にも、沼に落ちるように布団の中までずぶずぶと沈み込んでいきそうに見えた。もし今のユリにじっと見つめられたら、僕もそこに取り込まれてしまうだろうと思った。それは怖かった。でも、僕だって元から沼の中を落ちて落ちて行く途中を生きていたんだから、きっとどうなっても今と大して変わらないだろう。それなのに、怖い。

僕は、ユリの闇が自分のものよりももっと深く大きく、そして広い事を、肌で感じ取っていた。彼女の作り笑いは僕の前でも変わらない事、そしてどんなに距離が縮み、一つになろうとしてさえ、僕の気持ちが伝わっていない事、彼女が僕といても安心してくれない事…。そして、それらを変えてあげられなかった僕に、彼女が復讐として冷たく当たる事…。これらをすべて司っているのは、「決して開かれない心」だ。

“ユリはおそらく、まだ誰にも心を開いた事が無い。だからこそ、僕と居ても苦しがるし、悲しく感じるんだろう。だから僕に出来る事などあるはずがない。でも、たった一つだけならある。それは、彼女の闇の中に落ちて行く事だ。それが彼女のためになるはずはないし、僕にも何も良い事は起きない。でも、もし彼女の孤独を癒す方法があるなら、自分から望んで彼女の闇に取り込まれ、その中で息絶えればいい。彼女が感じている苦痛を僕も被れば、多分、ユリは安心してくれる。“自分一人で苦しんでいるわけではない”と思ってほっとしてくれる。”僕はそこまで考えて、ぞっとした。“でも、彼女はそれだけは求めないだろう。心を交わすことはしてくれないんだから…。”僕は悲しいようなほっとしたような気持ちだった。たった一つの道を、彼女は選ばない。僕はそれを望むわけではないけど、“君の力になりたい”という気持ちだけは伝えたかったんだ。

その時、ユリがぽそりと囁いた。

「何も誓わないで」

その小さな声は、僕にまた困惑をもたらした。僕は、「何か出来ることはないか」と聞いたのに、彼女はそれに対する返事とは思えない言葉を返してきた。そして僕には、なんとなく感じた雰囲気だけが残った。“私に関わらないで”。多分そういう意味だろうと思う。「なぜ?もういい加減、僕にちょっと心を開いてくれるくらいいいじゃないか!」僕はそう叫びたかった。でも、それをしても何も変わらず、ユリを傷つけるだけだという事は分かっていたから、何も言わなかったけど、もう限界かもしれなかった。


翌朝、僕たちは短い話をした。まだ七時だというのに朝の光はうるさいくらいに部屋中に反射して、外はとっくに暑くなっていた。僕の部屋もだんだんと蒸されていく中、僕はようやく辿り着いた結論を口にしようと思った。

「ユリ」

彼女は窓にもたれて、外を見ていた。そうしながらユリが何を考えているのかは、いまだに分からないままだ。僕は迷った。いや、言いたくなかった。でもそれと同時に、“もう我慢がならない!このままでは死んでしまう!”と、心の中で僕はもがいていた。昨晩の、“ユリの沼”に足を取られたままで。そうやって心には嵐が吹いているというのに、その朝は美しかった。ユリは気だるそうに窓枠に二の腕を任せて頬杖をつき、窓の外を向いている。彼女の頬を風が撫でると、柔らかい髪がふわっと巻き上がった。濡れている大きな目は万華鏡のように幾度も光を変えて、みずみずしい肌は出会った頃と同じように薄桃色に透き通っている。そんなユリを見ていると、とても不思議な気分になった。彼女はいつ死んでもおかしくないほど追い詰められているというのに、今が盛りとばかりに美しいままだ。それで僕は、彼女が燃やしている命の炎があまりに強く、その分だけ彼女の残りの日々が使い捨てられていくような、そんな不安を感じた。

「なあに」

ユリの声は間延びした、ゆったりとしたものだった。僕はじりじりと恐怖が押し寄せるのを感じた。“僕の次の一言ですべてが終わる。それで僕たちは別れ別れだ。でももう仕方ない。僕に出来る事は無い。恋の終わりに一度身を切られたら、解放されるんだ。”そう思った時、僕は安堵した気がする。“この世界に僕たちしか存在しない日も、これで最後だ。”カサカサの自分の唇を一度舌で湿してから、僕は話し始めた。

「僕たち…このままだと、多分、「一緒に死のうか」って言い出すと思う」

ユリは振り向いた。彼女の瞳には驚きと、そして肯定の意志があった。

「そう…だね」

「だから…別れよっか」

こんなに気軽に話せることでは無かった。命を懸けて愛したはずなのに、まるで子供の遊びのように、僕たちの恋は終わった。ユリは悲しそうな顔をしていたけど、大人しく「うん」とだけ一度頷き、僕の部屋から一人で帰った。僕はがらんどうの目をしたままのユリを見送り、玄関の扉を閉めた。

その後僕たちがどうなったかなんて、話しても仕方がない。ユリから何度か連絡があったし、“もう一度一緒になりたい”なんてことも言われたけど、僕はもう戻る気は無かった。もう傷つきたくも苦しみたくもないし、あんな無力感を感じるのも嫌だ。僕は愛しすぎて、疲れてしまったんだ。


だから僕は電話に出なくなり、僕の留守にユリがポストに入れたらしい手紙も、みんな捨てた。


君は今でも美しいだろう。でも、君が僕に何をしたか、どれだけ僕を拒否したか、それなのに甘えたか、それを僕は覚えていたから、君と別れてしばらくの間は、歪んだ胸の底を痛めずには君を思い出す事が出来なかった。


酷く落ち込んだ晩もあった。“もう少し堪えていたら彼女と幸せになれたかもしれないのに”と、自分を責めながら酒を飲んだ事もあった。でも、あれ以上僕に出来ることは無かったんだ。僕だって、今でも孤独から解放されずに、使い古した体をギシギシいわせて街を歩くのだから。“悪かった”とは思っている。でもそれもお互い様だとも思う。僕たちを大人同士として考えるならそうだ。それに、あのまま一緒に居れば、どうせ二人とも死んだだろう。僕たちは二人とも孤独で、その孤独を恋で埋めようとした。でも、ユリは欲しがる気持ち以外は何も持たずに、それを愛だと思い込んでいたから、しまいには僕を傷つけるだけになってしまったんだ。でも僕はユリを愛していた。そんな関係を放っておけば、僕は傷つけられても離れられず、ユリは欲しがるのに叶えてもらえない苦しみを膨張させるだけだ。そうなれば僕たち二人は、「もはや常世の幸福に縋るしか無い」という結論を出していただろう。


ある晴れた冬の昼、僕はユリの事をふと、鮮明に思い出した。その時僕は、“昔は「体に神様が住んでいるんじゃないか」ってくらいに元気だったよなあ”と考えていて、そのイメージから、なぜかユリの姿が思い出された。それは笑い転げて元気に喋っている時のユリで、子供のようになんでも素直に話した、恋の初め頃だった。少し寂しくは思ったけど、僕はそれほど傷つかずに、それを思い浮かべる事が出来るようになっていた。“あれから何年経ったかな”と考えても、僕はもう月日を勘定する事さえ出来ず、十年前だったか十五年前だったかも分からなかった。

“ユリ、僕は君ほど好きだった子は居ないんだ。これは本当だよ。本当だったんだ。僕はもう君との愛に苦しめられてはいないけど、失ったわけじゃない。たまにはこうして思い出を手に取って、素晴らしかった時を眺めているんだよ。一生分の恋をね。”

時が過ぎていく中、僕の目の上を、思い出の彼女があははと笑って、悪戯に通り過ぎていった。


おわり



ここまでお読み頂きまして、有難うございました。


桐生甘太郎



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