「青い絆創膏」(青春小説)

1話「透明な屋上」


「ねえ…もう帰ろうよ…多分大丈夫だって」

「でも…」

「だって、暗くなってきたし、怖いよ…」

その声は、子供のものだった。そこは草深い林を流れる川のほとりだ。どこかの山の中だろうか。子供二人はランドセルをそれぞれ背負っていて、どちらもほんの小学低学年ほどの男子らしい。一人の子供は半ズボンから元気そうな膝小僧を出し、もう一人はわりあい厚着の子であった。Tシャツの上にさらにニットカーディガンをはおった子供が、半ズボンの子に、「帰ろうよ」と繰り返している。

半ズボンの子はどうしても帰ることに戸惑い、その場に留まろうとしていた。それには何か深いわけでもあるように、子供は二人共、不安そうな顔をしていた。

「しかたないよ。怒られちゃうし、早く帰ろう…?」

暗闇が迫り、薄紫のベールがかかったように、林の中は光が乏しくなっていく。それに耐えかねてほとんど泣き声のような声を出し、カーディガンの子供は半ズボンの子の手を引いた。引かれた方は曖昧に嫌がる素振りはしてみせたが、友達を気遣うのか、手を引かれるままに林のゆるやかな斜面を降りて、やがて子供達は見えなくなった。

そこには当たり前の暗い林だけが残り、どこか不気味さの漂う中、日が暮れて山から吹き下ろす風が、草や木をざわめかせるだけだった。





「凛、ごはん食べたの?もう八時よ?」

私はその朝、ちょっと考え事をしながら、ちんたらとごはんを食べていた。いくらかは眠れたはずなのに頭は重かった。その中で、漠然とした何かを脳みそが勝手に追いかけ、消化しようとしているように、頭の中には意味のない言葉が散らばる。

“大人ってなんだろうか。下らない理由のために日々をただ消費してるだけでも、年齢が上なら大人なんだろうか。私はそんな下らない人間にはなりたくない。”

そんなふうにどこかすねていて、私の考えは疑いの中で停滞していた。そこへお母さんが横槍を入れた。

「今食べてる」

そう返すと、「そう、じゃあ早く終わらせて学校に行きなさい」と、母は振り向かずに、父の分の皿を洗っていた。

私は食事を終えてシンクに食器を下げ、それでも洗い物から顔を上げない母親をちょっと見ただけで、「行ってきます」と言って学校に向かった。

家から歩いて五分の場所に、私の通う県立高校はある。特に受験では困らないし、それなりで入れてしまうところだからか、周りの生徒は遊ぶのに夢中だった。

中学では、相手に合わせて意味のないことを喋ったり、馬鹿馬鹿しいことではしゃぐふりをするのが苦痛だった。でも高校に入ってから、それに加えて、犯罪まがいのことに手を出す生徒も影で見るようになった。高校生の方が質が悪い。私はそんなことはしないし、高校に上がってからは、生徒と喋ることもあまりしていなかった。

私はいつも学校では、本を読んでいるふりをしていた。その実、適当にページをめくるだけで、頭の中では空想をしているんだけど。

歩道の横に、大きな校舎を抱えた広いグラウンドが、柵越しに見える。桜の木が柵に沿って植えられているけど、今は立ち枯れたように幹と枝だけになって、かえって幹が堂々と太いのがよくわかった。私は何人もの生徒に追い越されて、するりといつものように校門をくぐった。

下駄箱のところで、不意に「おはよう、凛ちゃん!」と声を掛けられて、振り返ると、クラスメイトで後ろの席に座っている、木野美子が立っていた。

「おはよう、美子ちゃん」

仕方なく返事はしたし、笑いもしたけど、私はやるせないほどに虚しさを感じていた。この「朝の挨拶」というのを、クラスメイトといちいち交わすことが、私には理解できない。だって、それはたいがい、全員と交わすものではない。

あるクラスメイトとは挨拶しないけど、この子とこの子とこの子とはする、なんて、変じゃない?

「今日も寒いねー」

「そうだね。今日、体育の実技だけど、体操着持ってきた?」

「あ、忘れた!…もー、借りに行くと佐原にいつもちくちく言われんの、うざいよねー」

「まあね」

ああ、なんでこんなこと言わなくちゃいけないんだろう。それでも自分から話題を広げてでも、なぜか喋ろうとしてしまう。

いよいよひねくれていきそうな頭を少し掻いて、私は木野美子と一緒に、一年一組の教室に吸い込まれていった。





「では次の問題はー…跡見、前に出てきて訳しなさい」

昼前の英語の授業で、私は出席番号順に回ってきた問題を解いた。長い英文を和訳しなくてはいけないけど、先生がすでに単語はすべて黒板に書いてくれているので、その順番を間違えずに入れ替えればいい。

黒板の前で私はいくらか上を向き、白いチョークの硬い感触を心地よく感じながら、それをカツカツと削った。

「…うん、正解だ。席に戻りなさい。ここでみんなに理解してもらいたいのは…」

私は、先生の説明を大して真剣に聞いていなかった。だってちゃんと教科書に書いてあるし。でも一応聞くだけは聞いておけば、テストでは90点近くまでとれる。

よく、誰かが軽率に「こんなこと勉強してなんになるんですかー」と、いかにも退屈そうに教師に聞いたりする。もちろんそれは、実際に解いた問題が役に立つことはほとんどないという意味で、不平不満を言うんだろう。でも、もしそういう問いの答えが今すぐわかって、「まったくの徒労」だとしよう。だとしたら日本中、世界中にこんなに学校が溢れているわけがない。その答えは、ずっと後になって、後悔をするか、感謝をするかの形で、身を持って理解するんだろうと、私は思っていた。そして私は、多分後悔をする方の部類だと思う。真面目に勉強はしていないし。





昼になり、教室で昼食を食べる生徒たちを残して、私は一階廊下を右へと折れた。私が居る一年の教室は、一階にあるのだ。

廊下の突き当りを左に折れて更に進むと、玄関の近くにジュースの自動販売機がある。そこで小銭をいくらか入れて、紙パックのフルーツ・オレを買うボタンを押した。ガッコンと取り出し口にクリーム色の紙パックが落ちてくる。それを取り出すと、私はすぐにストローを刺した。

それから廊下をずっと戻ったけど、一年一組の教室の前を通り過ぎて、逆方向の突き当りにある階段へと、私は進んでいった。

一足一足、いつもどこか疲れている足を引きずって、甘みの強いフルーツ・オレを飲みながら、階段を登る。見えてきたのは、行き止まりになった四階に通せんぼをするような、古い鉄の扉。

「よっ、こい、しょっ…」

私はその重い扉を少々持ち上げながら、体ごと押して開けた。みるみる扉の隙間から眩しい日差しが現れ、私は誰も居ない屋上に解き放たれる。


上を見れば、空だけが見えた。青いカーテンを神様が作ったような、だだっ広い空は、目に収まり切ることなんかない。それを眺めるために屋上に横になってジュースを飲むのが、私の日課だった。

屋上に出れば、面倒ごとなんか追ってこない。それに、誰も私にとやかく言わない。そんな気がするのだ。


ただ、その日は違った。





私が扉を開けた先には、知らない男子生徒が立っていた。錆びかけた屋上のフェンス前に、髪が茶色で体の細い、背の高い男子が居て、制服はいくらかだぶついて見えた。その生徒の向こう側には、私達が住む街がぼんやりと見える。

おかしいな、と私は思った。この屋上の鍵がいつも開いていることは、生徒のほとんどが知らない。錆びてボロボロのドアノブを見て、ほとんどの生徒は、「開かないのか」と思い込んで引き返していく。実際に挑戦しても、強く持ち上げながらでないと扉は開かないので、そのうちに「開かずの屋上」なんて囁かれるようになった。

“私だけが開けられる扉だと思っていたのに”と、私は少し残念な気持ちになったけど、別に悪いことをしているわけじゃないし、そのまま足を踏み出した。すると、その足音にびっくりしたように、男子生徒がすぐさま振り返った。

私達の目が合った時、その生徒は驚いて、何かをひどく怖がっているように見えた。まるで悪いことをしようとしていたように。私は煙草でも吸ってたのかな?と見てみたけど、その子の手にも、足元にも、煙草なんかなかったし、別段何もなさそうに見えた。

私達はしばらく睨み合っていたけど、いつまでそうしているのも不自然だし、私がなんとなくその生徒に近寄る。

「あの…ここ、よく開いてるって知ってましたね」

敬語で話しかけるのも変かもしれないけど、まあ初対面なんだしと、そう声を掛けた。男子生徒は見つけられたのを恥ずかしがっているのか、気まずそうに後ろ頭をボリボリと掻いていた。

「君、よく来るの?」

私が言った質問に近い言葉には答えずに、男子生徒がそう言う。

私は「屋上」という時間を感じさせない場所だからか、返事をあまり急がずに、ちょっと男子生徒の顔を見つめた。

彼までは、まだ十歩ほどあったけど、特に顔立ちが整っていて、素直そうな微笑みが好感の持てる男子だった。


細くて濃い眉は垂れていて、大きな目も心持ち垂れ下がり気味だった。その目を縁取る睫毛は、束になって長く伸びている。それから、鼻は細く高いけど、唇は極端に薄くて主張がなかった。

長いわけではないが細い顔の中にそれらが収まっていて、顎も細くて、あまり骨の厚みを感じない。

いい人そうではあるけど、じっと見ているとどこか不安な気持ちになるような、儚い顔立ちだった。


彼の顔を確かめ終わって返事をしようとしたけど、私の心はなぜか、「毎日来ています」と素直には答えたがらなかった。質問に答えを与えるより、謎を残しておきたくなった。

それはおそらく、この「屋上」という場所が、どの人からも肩書きを奪い、誰にも指図をしない場所、誰からも正体を取り去るような場所だからだろう。だからこう返した。

「あなたは?」

そう言うと彼はすぐに吹き出して首を振り、さらに顔の前で片手を振り回した。

「ぜんぜん。今日が初めて」

「そう。私、座っていい?寝転んでも?」

私がそう聞くと彼は、「いいよ、別に、許可はいらないじゃない」と言って笑ってくれた。私は彼から三歩ほど離れた場所に寝転ぶ。


ああ、空しかないな。でもそこに、制服がちょっと映り込む。

空だけが見えることを期待していたはずだけど、私はそこにだぶっとした制服姿が混じるのを、嫌だとは思わなかった。


それから私はたまに横を向いてジュースを飲んでいたけど、ちょっとの間を置いただけでその制服姿は、「教室に戻るから」とだけ言い残し、目の端へと消えていってしまった。


「邪魔しちゃったかな…」

そんな独り言を言った。


そのうちに予鈴が鳴ったので立ち上がり、生徒たちの声が響く階段を降りている間に、彼のことは忘れていた。



2話「私の家と、ライブのチケット」



目の前にあるのは、スマートフォンの画面。私は学校から帰って来て、着替えと食事が済んでからすぐに、自分の部屋に鍵を掛けた。

リビングから聴こえてくる音を遮るために、イヤホンで大好きなアイドルグループ、「Sister"P"」の新しいアルバムを聴いている。それなのに、その隙間から、「あんたみたいな飲んだくれなんか」や、「お前なんかになんにも」という、両親が罵り合う声が入り込んで来る。

私は構わず音量を最大にして、耳がジリジリ痛んでも、その声を聴くまいとしていた。両目から涙が溢れる。体中が燃えるように熱くて、手が震えて、涙が止まらない。

“昔はこうじゃなかった。どうしてこんなことになっちゃったんだろう。子供の私にはなんにもできないのかな…。”そんな思いで胸が痛んで苦しくて、静けさが戻って来るまでは泣き続けていた。





しばらくすると、隣にある両親の寝室から、お父さんのいびきが聴こえてきた。少し離れたキッチンからは、お母さんがすすり泣く声がする。私はよっぽどお母さんのところへ行って慰めたかったけど、前にそうした時、お母さんは混乱していて泣き喚くばかりだったから、怖くてそれはできなかった。

部屋のドアを開けて、キッチンからは見えない洗面所に行き、顔を洗ってから鏡を見た。

そこには、険しい顔つきでこちらを睨みつけ、唇を突き出した私の顔が映っている。

怒り。悲しみ。切なさ。それが私の眉を、唇を、頬を歪めていた。

その時の私にはそんな感情の色が見えるだけで、自分の心が何を感じているのかなんて分かっていなかったけど、私はその自分の顔を、「嫌い。醜い」と思った。

“どうしてこんな顔なんだろう。笑わなくちゃいけないのに。”なぜかそう思って、それができない自分を責めようとした。でも、そんな気力はなかったから、その後トイレに行って、そのまま眠った。





ある日を境に、家での食事があまり統一感がなくなっていった。それに気づいたのは、「今日はハンバーグよ」と、部屋から呼び出された時だった。

私が台所に行くとテーブルにはハンバーグの乗った皿が二つあって、大きなサラダボウルと、ごはんが盛られたお茶碗も二つ、それからうさぎの箸置きに乗った箸が向い合せに並べられていた。お父さんは仕事でいつも遅くなるので、夕食は私達よりずっと遅い。

「わあ」

私が胸をワクワクさせてため息をつき、“早く食べたいから、お母さんを呼ぼう。”と思って振り返ると、お母さんは燃えないゴミの箱に、何かを捨てるところだった。よく見えなかったけど、それはレトルトハンバーグの袋のようだった。その時、“おかしいな?”とは思った。

うちのお母さんは料理に凝る人で、ハンバーグだってしっかり玉ねぎを炒めないと気が済まない。それが今日に限ってレトルトのハンバーグだなんて、変だった。でも、“今日は疲れてるのかな?”とも思ったし、私は気づかなかった振りをして食卓に就いた。

それからも、“昨日はきちんと作っていたのに、今日は全部レトルト”という日もあったし、ほとんどが近くのスーパーのお総菜コーナーで見た物だったなんて時もあった。


おかしなことはまだある。お母さんはきちんと整理整頓をするのに、台所が洗い残しの皿や、ほったらかしのティーポットなどで雑然としている日が増え、廊下も、埃が目立つ時が多くなっていった。私はそれで、“家の中の混乱が、お母さんの心と体を蝕んでいるのだ。”と知った。




お父さんは、酒飲みだ。昔はそんなことはなかったのに、今じゃ家に帰ってきたらまずビールの缶を開けて、テレビを観ながら番組に向かって愚痴をこぼしたりしている。

本当に昔は、私とよく遊んで、話をしてくれて、優しくて面白いお父さんだった。でも、お父さんはある日会社から帰って来ると、いきなりお母さんに泣きついて、「もうダメだ、もうダメだ」と繰り返した。幼かった私は、なぜお父さんが泣いているのか分からなかった。


ずっと後になって、私が中学生になった頃、お父さんはよく酒を飲むようになって、ある晩、お母さんが話してくれた。


「お父さんね…泣きながら帰って来たことがあったでしょう」

「え、うん…すごい前、だよね…?」

リビングにはその時私とお母さんしか居なくて、寝る前にベッドに入ろうとしていたところを起こされたのだ。

「そう…もうずいぶん前だけど、お父さん、会社が変わったでしょ…」

「あ、そうだね、なんか、新しい会社で部長さんになるからって聞いた」

私はその時、誇らしい気持ちでそう言ったのに、お母さんは首を振っていた。そして、言いにくそうにしていたけど、「これを聞いたって、お父さんには絶対言っちゃダメよ」と言った後で、こう言った。

「…左遷なの。部長さんになったのは、前の会社よりずっと小さい会社で…これからはお給料も上げてもらえない。だから、ああしてお酒を飲むの…」

そう言ってお母さんは泣き出してしまった。私がショックを受けて、目の前で泣いているお母さんを慰められないでいるうち、お母さんはずっとこう言い続けていた。「お父さんが悪いんじゃない」と…。


“お酒なんかこの世から消えちゃえばいいのに”。私は何度となくそう祈っては、やっぱりお母さんにひどいことを言うお父さんを責めたり、そんなことをする自分を咎めたりした。





話は今に戻って、私は、学校終わりにスマートフォンに届いた通知で、とんでもないことを知った。


「Sister"P"の公演が決定!全国47都道府県ツアー!」


「きゃっ!?」

私はスマートフォンの画面に映ったその通知の文字を見て叫び声を上げ、それからすぐに家に走って帰った。


帰宅した私は、制服を脱ぐのも忘れて自室に引きこもり、チケットサイトを何軒もめぐって、自分の県で開催される二日間の間の“シスピ”のチケットが残っていないか、死に物狂いで探し回った。そしてやっと、抽選でチケットが手に入れられそうなサイトで、申し込みをした。

それから二週間が経ち、申し込んだチケットの抽選日がやってきた。その日の私は落ち着きがなくて、昼も珍しく学校の屋上に行かずに、クラスで自分の席に座って、ずっとスマートフォンをいじっていた。いつ“シスピ”のチケットの結果が来てもいいように。

“ああ~当たっててください!神様仏様お願いします!こんなに毎日辛いんだから、そのくらいいいでしょ~!!”

私はそんな理屈の通らないお願いを、行き当たりばったりに手当たり次第祈って待っていた。


結果がメールで送られてきたのは、学校から帰宅して十分くらいしてからだった。スマートフォンが短く三回震えて、メールが届いたことを知らせる。私はベッドからがばと起き上がった。そして掴み取ったスマートフォンのロックを解除し、怯えながら、期待しながら、メールボックスのアイコンをタップした。一番上には、新着メールのタイトルが「マイライブからチケットの抽選結果のお知らせです」と書いてある。

“どうしよ~、外れてたらそれこそ生きてけないよ…!”

そう思って、“お願いします!”と祈りながら、メール画面をタップして、おそるおそるスクロールした。そこにあったのは。


「残念ながら、チケットのご用意が出来ませんでした。」


それ以外の文字なんか全部目に入らなくなって、私はそのまま体から力が抜けて、ベッドに仰向けにどさっと横になった。なにこれ。


“なんでよ。…ちょっとくらいご褒美くれたっていいじゃん。神様のケチ”


「凛、ごはんよー」

「今行くー」





その翌日、私は学校なんか行きたくなかった。お母さんが「早く行きなさい」と送り出すから登校はしたけど、授業になんか出たくなかった。だから、いつものあの場所へ。長い階段の最後にある扉を引っ張り上げて、天空の庭に登った。

「あれ…?」

そこには、この間と同じ男子生徒が立っていた。今度はこちらを向いて、彼は扉の真正面のフェンスにもたれていた。まるで誰かを待っていたように。

「よく会うね」

彼の声を聴くのは二回目だけど、私はその時、初めてその違和感に気づいた。なんだか、彼の声は雲の向こうから聴こえるような、世間から離れたような調子だった。“どこから声が出てるんだろう”と思うような、少しふわふわした声。

「そうですね」

そう言って私は彼に近づいてはいったけど、やっぱりこう聞いた。

「授業はもう始まってますけど?」

私がそう言うと、彼は下を向いて「ふふふ」と笑ってから、「君も、行かなくていいの?教室」と返してきた。

「ここにいたい気分なの」

「そうか、じゃあそうするといいよ」

なんにも事情なんか知らないのに、彼は私を責めなかった。でもその口調もやっぱり、どこかふわっとして、あまり感情の感じられない音色だった。

それから私は、少し間を空けて彼の隣に座る。膝をたたんで制服のスカートに顎を乗せていると、不意に彼がこんなことを言った。

「今度、ライブに行くんだ。でも、チケットが一枚あまっちゃった。だから、一緒に行かない?」

私が左を見ると、私と同じく行儀よく体育座りをした彼もこちらを見ていた。でも、デートに誘っているようなふうには見えない。私達はそんな間柄じゃないし。“どういうことだろう”と思って、私は聞き返した。

「なんのライブ…?」

ちょっと彼の顔色を窺って遠慮がちになった私の声が、その時、屋上を撫でていく風にかき消されそうになった。でも、彼は相変わらずぶかぶかしているブレザーのポケットから、チケットらしきものを二枚取り出して、私に見せた。

そこには、「4月23日(水) Sister"P" キングシティーホール F列4番」とあった。私はそれを見て、思わずチケットを手でぐいと引き寄せてしまった。もう一枚のチケットはG列4番だった。ちょうど隣だ。

「うっそマジ!?え、これ…シスピの…行きたかったやつ!」

彼はおもしろそうに笑っていて、チケットをポケットにしまい直してから、笑い過ぎて目に滲んだ涙を片手で拭った。私はとにかく驚いてしまって、「えー!」とか、「どうしよう!」などと叫んでいた。

やっと私が落ち着いてきた頃、彼は「よかった、好きなんだね」と落ち着いて言った。

「うん!好き!大ファンだもん!あ、ファンクラブは会費が高くて入れてないけど、ファン!一応!」

「ファン心理って複雑だよね」

彼はそう言ってまた笑った。

「じゃあ、再来週の水曜日、校門で待ち合わせよう。学校のすぐあとで行かないと。ちょっと電車に乗るし」

「うん!ありがとうございます!」

私はそう言ってあらかじめ頭を下げて、彼を見つめた。すると彼はまだおもしろそうに笑っていた。くすぐったそうなその笑いの後で、彼はこう言う。

「ところで、君の名前は?」

“あっ!”と私はそれに気づいて、慌ててまた頭を下げる。

「ごめんなさい!名乗る前に、チケットもらおうとなんて…」

「いいよ。で?なんていうの?」

“チケットをいきなりポンとくれる”なんていう、私にとっては大恩人を前にして名前を聞かれたものだから、私は肩を縮めてうつむいて、上手く喋れなくなってしまった。

「えっと…跡見、凛、です…」

「“凛とした”、の、凛?」

漢字を確認するためとはいえ、不意に呼び捨てにされて私はちょっとドキッとしてしまって、「あ、はい…」と、おどおどとした返事しかできなかった。

「そっか。僕は内田たかやす。漢字は説明しづらいからいいよ」

「は、はい!よろしくお願いします!」

私が思わずしゃっちょこばって答えると、彼は片手を振って、「堅苦しいのはいいよ」と笑った。“よく笑う人だなあ”と思っていたけど、私はそこで、大事なことを忘れていたのに気付いて、「あっ!」と叫んだ。

それで思わずたかやす君のブレザーに飛びつきかけたけど、直前でその近すぎる距離に気づいてちょっと思い止まり、なんとかこう言った。

「チケット代!ちゃんと払うから!」

「いいって。だいじょーぶ。これも実は貰い物なんだ」

「え、そうなの…?でも…」

「いいよ、貰い物なのにお金取ったら変でしょ」

「そ、そうだね…」

私達は「えへへ」と笑い合って、この間知り合ったばかりなのにライブに行く約束をした。でも、私には気になることがあったので、そこでちょっと考え込んでうつむく。

“ライブから…九時までになんて帰ってこれないよね…”

“でも、行きたいな…”

私は考え込んで、屋上を冷たい風でどんどん体温をさらっていくのを感じていた。すると、たかやす君がひょいと私の顔を覗き込んでくる。

「わっ!?」

私は顔の真ん前にあるたかやす君の顔に驚いて、叫び声を上げてしまう。それからすぐに、「ごめん」と言って、ちょっとだけ元のように彼と距離を取った。

「えへへ、ごめんごめん。あのさ、もしかして…おうち、門限があるの?」

私は、“どうしてわかるんだろう”と思って不思議だった。だからいくらか詰まり気味に、「うん」と言う。

「うーん、でも、どうしても行きたいんでしょ?そんな感じだよね?」

「う、うん…」


私は不安だった。いつもくたびれているお母さんを、これ以上心配させていいんだろうか。でも、急に家庭の話なんか出来なかったから、たかやす君がまたふわふわとした声で言った、「いつもきちんと守ってるなら、許してくれるって」という言葉に、もう一度頷くしかなかった。



3話「一晩の夢」


私は屋上に上がる時も、教室で読んでもいない本に向かってジュースを飲んでいる時も、空想して遊ぶことが多かった。たいがいは、他愛のない馬鹿話みたいなもの。

“私が犬になって誰かに飼われて、毎日美味しいごはんをもらってかわいがってもらう”

“世界中の人類の文明が滅亡して都市は廃墟になり、だんだんとそれが木や草、ツタで埋め尽くされたあとで、宇宙人がやってきてそれに驚嘆する”

“月が地球に向かってぶつかってきて、砕けた欠片が新しい人類の家になり、宇宙の間を行き来するスペースシャトルで、隣の欠片の友達に会いに行く”

“お母さんがある朝起きたらサボテンになっていて、ちくちく痛いからと言われて落ち込むお母さんの針にスポンジを刺して解決し、それからは元のように家族仲良く暮らす”

まあこんな風に脈絡もなく、私だって別に何かを目的にして考えてるわけでもないから、これはやっと思い出せた四つだ。


今日考えているのは、“隕石が私にぶつかってこようとする”っていう、よくある空想。私の目の上には大きな空が広がっている。屋上はだんだんと暖かい風が吹くようになって、時折その中に、今年は遅い開花となった桜の花びらが混じっていた。

ざあっと青空の中に舞い上げられた後で、ふよふよと行く当てもなく私の周りに落ちる、淡雪に似たもの。私はそれを少しばかり愛しく感じて、なんだか憐れみさえ湧くようだった。

“と、そんな時に限って、隕石が落ちてきたりする。”

私の思考に突如としてそんな不穏なナレーションが流れて、その後、宇宙の中をさまよっていた小さな岩が、地球の重力に捕らえられるのをイメージする。それは音のない宇宙で真っ赤に燃え盛ってどんどん地面に近づき、あわや私の居るこの学校の屋上目掛けて、ものすごいスピードで落ちてくるのだ。でも、私に当たることはない。

“成層圏に入ってから燃え続けた隕石は、その小ささから、私に当たる数メートル手前でやっと燃え尽きる。”

「都合が良すぎるんじゃないか」という文句は受け付けられない。だってこれは空想だから。いくらでも私の都合だけで進んでいくのだ。

“燃え尽きた隕石の灰を手にして、私は泣くかもしれない。”

“その体をすべて燃やし尽くされ、あえなくどこにも自分の跡を残せなかった宇宙の旅行者に、「かわいそうに」と思うかもしれない”

そう思っていた時、ジュースのパックが、ズズッと音を立てて、中身がなくなってしまった。





たかやす君と約束をした翌日、昼に屋上に行くと、その日はいつものように誰も居なかった。たかやす君はいつも屋上に来るわけではないようで、めったに会わない。この屋上で会ったのは、自己紹介もしなかった一回目と、ライブのチケットを急にもらった二回目だけだった。

それに私は、たかやす君が何年何組なのかもまだ聞いていない。誰かに聞いて確かめようと思っても、私がクラスメイトと話すことはほとんどないので、こんな時に限って「ねえ、内田君ってどのクラスか知らない?」なんて聞けるはずがなかった。

無意識に、私は校内でたかやす君の明るい茶色の髪を探してはいた。でも、広い校庭のトラックを回る何十人もの生徒の中にも、放課後の部活動に向かう体操服姿の生徒の中にも、見当たらなかった。

“確かに、全然体育会系には見えないし、文系の部活で、学年も違うのかも。落ち着いてるし、三年生でもおかしくないなあ。”

私は学校帰りにそう考えたりしたけど、でも、こうも思っていた。

“「学校に憑りついてる幽霊だ」とか言われても、私、信じそう…。”

突拍子もない空想だからそんなのやっぱり信じていなかったけど、私はたかやす君のどこか浮世離れしたほどの落ち着きと、宙をふよふよと伝ってくるような声の調子は、ちょっと不気味なほどだと思っていた。

“一緒にライブに行く時に、聞かなくちゃ。それに、あとでお礼もしたいし…”

私は、もしかしたらこれが高校生活初めての友達かもしれないという人を見つけて、気分が浮き上がるまま、水曜日までを過ごした。






ついにこの日がやってきた。“シスピ”の六人を目の前で見るんだと思うと、私は朝から、自分の様子がおかしく見えやしないかと心配になるくらい、気が落ち着かなかった。

でも、昼に屋上に行ったけど、この時もたかやす君は居なかった。

「あれ…?」

私は扉を開けて、思わずそうつぶやいた。

“ライブ前の興奮を分かち合いたいと思ったけど、やっぱりそんなにしょっちゅう来る場所じゃないよね。屋上って…。”

その時私はようやく気づいた。

“そういえば、屋上にばかり入り浸っているなんて、私も私で、ちょっと変かもしれない。友達ができると気づくことって多いんだな…。”

私はため息を吐いて、なんとなくそのまま教室に戻った。




「凛ちゃん、終わった?」

「うん。じゃあ、今日はよろしくお願いします」

私が校門を目指して歩いている時、もう背の高いたかやす君の姿が見えていたけど、彼は手を振ったりすることなく私を迎えて、私もなんとなくその落ち着きに合わせて、控えめに挨拶をした。そうするとたかやす君はにこっと笑って、「駅前まで歩こう。そこからは十五分くらいだし」と言った。


私はなんとか落ち着き払ったたかやす君に合わせようとしたけど、電車に乗ってからチケットを渡された時、たまりかねて気持ちが爆発してしまった。


「はい、これ。受付とセキュリティチェックは一人ずつだし、渡しておくよ」

「あ、ありがとう…!」

私は、世界に一枚しかない、シスピの四列目のチケットを受け取って、胸が苦しいほどになってしまった。そしてやっぱり、興奮して喋り出してしまう。

「あ~楽しみ~。どうしよう、だってこれ、会場のマップも見たけど、4番って前から4列目ってことでしょ!?ありえないよそんな幸運!ほんとにありがとね内田君!しかもG列ってほとんど中央だよ中央!」

「いえいえ、喜んでもらえてよかったよ」

私がすっかり舞い上がって続けざまに喋っていたことにも、たかやす君は悠々と答える。私は“これが今からアイドルのコンサートに行く人のテンションだとは思えないわ…。”とちょっと不思議なほどだったから、揺れる車内で吊り革に掴まった腕の隙間から、たかやす君の顔を窺った。

“それにしても、本当にかっこいいなあ…。でも、ライブに誘うのが私ってことは、彼女はいないのよね…それが一番、世にも不思議な出来事だわ…。”

私はそんな無粋なことを考えていたから、たかやす君の顔を直視していることはできなくなって、目の前にあるガラスに目を戻した。

タタン、タタン…タタンタタン…と軽快な音を立てて電車は揺れ、外の景色はもう暗いので、私達の姿は目の前にあるガラスに映り込んでいる。たかやす君はそこに映った自分の顔を見ているような顔をして、こう言った。

「それに、凛ちゃんはなんだか窮屈みたいだったから、たまにはこうやって息抜きしないとね」

たかやす君は、まるで昔からの友達みたいにそんなことを言った。“なんでわかるんだろう”と思うのは、これで二度目だ。私は急に気持ちを見抜かれた恥ずかしさに、ちょっとうつむいてしまう。でも私は、“たかやす君はちょっと言葉を交わしただけで人の気持ちが分かってしまうような、鋭い観察眼でも持っているんだろう”と思うことにした。

「でもさ、なんか、デートみたいだね」

返事を考え込んでいた私の睫毛にそんな言葉が降ってきて、顔を上げると、にこにこと笑ったたかやす君と目が合った。

「えっ…」

「冗談だよ。僕達、この間会ったばかりじゃない」

そう言ってたかやす君はすぐに前を向いて、元のように微かに微笑んでいた。私はどうしたらいいかわからなくて、「そ、そうだね」と言葉を詰まらせてしまった。



眩い光と、それより強く光る彼女達の笑顔、とびっきりのパワーが爆発して、世界が全部ここにあるんじゃないかってくらいの素敵な時間。そんな時を私はこの日、過ごした。





「ひゃー!楽しかったー!」

「僕も」

私達はシスピのライブがあったホールから帰る人達の波の中で、だらだらと駅までの道を歩いた。周りにはちらちらと夜の楽しそうな灯りがあったけど、私はさっきのシスピのステージのことしかまだ頭になくて、足が浮いているんじゃないかというくらい幸せだった。

「ねえ、そういえば内田君は誰担?」

「え~、そうだなあ~」

「誰誰!?」

ちょっと内田君に体を寄せてみると、彼はそれをくすぐったそうに笑っていた。

「全員かな。だってみんな一緒に頑張ってるんだし」

「あーその気持ちもわかる~!私も全員好きだけど、中でもルイちゃん推しかなあ~!」

私は、自分の声が大きくなってしまうのにも構っていられず、ここぞとばかりにシスピの話をしようと思っていた。

「ダンスすごい上手いよね、ルイは」

「そう!それにさ、チルが落ち込んでた時にわざわざバナナの皮用意してすべって転んで見せたってエピソードでやられた~!」

両手で胸を押さえて、心臓を射抜かれたような恰好をして見せる。この話は、私が毎晩チェックしていた、シスピのメンバーのSNSアカウントから得た情報だ。

「思いやり深いよね~、それはわかる」

私達は散々“Sister"P"”について話をして駅までを歩いた。たかやす君は駅の掲示板で、私とは反対方向の路線を指して、「実は僕の家、こっちだから」と言った。なので、その場でお別れを言うことになった。

「今晩は本当にありがとう。また学校でね!」

「うん。ほら、もう電車来るよ」

「はーい、じゃあおやすみなさい!」

「うん、おやすみ」

昇りエスカレーターの前で一度だけ振り返ると、たかやす君はこちらに向かってにこにこと微笑んでいた。





家に帰る道々、私の頭は冷静になっていき、その分緊張と不安が高まっていった。時間はもう二十三時を超えていた。

“どうしよう…。お母さん心配性だし、捜索願いとか出しててもおかしくないかも…!”

そう思って息が詰まって、“謝っても許してもらえないかも”とさえ思った。

逃げてしまいたいくらい怖いのに、マンションの三階にある扉まで歩く足は、なるべく早くと、どんどん焦った。そして、ゆっくりと鍵穴に鍵を差し入れ、カチャリと回す。

そろりそろりと中に入って、“どうしよう、どうしよう”と考えが決まらないままで、私が靴を脱ごうとしていた時だ。奥からドダダダッという音がしてお母さんが現れ、「凛!」と叫んで私に飛びついてきた。

「凛!こんな夜中までどこに行ってたの!?」

私は、その時、「とんでもないことをした」と初めて知った。

こんなに心配しているお母さんに向かって、私は今から、「ライブに行ってたの」と言わなければいけないのだ。そんなことってあるだろうか。

“どうして前もって言っておかなかったんだろう。”とは思ったけど、こんなふうになってしまうお母さんがそれを許してくれるかはわからない。

“だからって、黙ってこんな時間まで出かけているべきじゃなかった。ちゃんと謝ろう。”

私は一つ、深く息を吸った。体中がピリピリと震えるほど緊張した。

「ライブに…行ってたの。友達と…」

「ライブ!?」

お母さんはびっくりして叫んだ。私に呆れてしまったのかもしれない。

「そう…ごめんなさい、黙ってこんなことして…」

そこでお母さんは力が抜けたのか、私の肩に腕をもたせて、ぐたっと前屈みになる。

「もう…お願いだからびっくりさせないでちょうだい…」

「はい…ごめんなさい…」

それからはっとしたようにお母さんが顔を上げたと思ったら、今度は私の体のあちこちを確かめ始めた。

「怪我は?ないのね?ただライブに行っただけね?」

おろおろといつまでも落ち着かず、今でも私が危ない目に遭っているかのような顔をしているお母さんに、心から申し訳ないと思った。だから私は泣いてしまった。

「ごめんなさい…!大丈夫…無事だから…!なんともない…!」

私が震えながらこぶしを握り締め、うつむいてぼろぼろと涙をこぼす。


お母さんはそれから、「そんなに泣かないの。良かったわ。じゃあ早くごはんにしましょう」と少し落ち着いてくれて、私のごはんを温め直してくれた。



4話「突然のこと」



翌朝私が目覚めた時に、お父さんはもう朝食を済ませて出かけるところらしかった。その時お父さんが私を見て、「どこに行ってたんだ昨日」と聞いてきた。その様子は何か不満げで気に入らない様子で、私はちょっと怖かった気持ちもあったけど、何よりその父親の容赦のない言葉に傷つき、思わず黙り込んでしまう。すると、脇からお母さんが説明してくれた。

「お友達と遊びに行ってたんですって。そう遠くもなかったし、どうしても遅くなるだけだったみたいよ」

お母さんが「ライブ」という言葉を出さなかったのは、近頃本当に短気になったお父さんを刺激しないためだったんだろう。でも、それは無駄だった。お父さんは苛立たしげにため息をつき、手に持っていた鞄の持ち手を大仰に持ち直す。

「とうとう娘がぐれたのか!どいつもこいつも、勝手にしろ!」

私とお母さんは言葉を失くし、その場に立っていた。その間にお父さんはどかどかと玄関まで歩いて行き、バタンと思い切り扉を閉めた。

「…凛、ごはんにしましょう…学校に行かなけりゃ…」

お母さんは唇を震わせ、玄関を睨んでいた。私は一体何を言えばいいのかわからなくなって、「うん」とだけ返事をした。




学校に着くと、いつもの雑音だらけのクラスに入って席に就く。近頃では、私に話しかけてくる生徒はもういない。後ろの席の木野美子も、この間、私を見ながら他の女子生徒と何やらひそひそと話しているのを見た。それに、クラスに入ると男子生徒たちは私を見てニヤニヤとして、あからさまに避けるようになった。

もちろん私はそれでよかった。裏で何を言われているかは知らないけど、とてもそんなことには構っていられない。高校生にだって私生活がある。学校だけがすべてじゃない。

それに、やっぱり昨日観た“シスピ”のステージのことを考えると、クラスメイトが私をどう思っているのかなんて、どうでもよかった。

“ルイの笑顔、素敵だったな。チルが一人で歌う一番高いところ、ミリーが途中で入れるラップ、ココのジャンプも、スーのフェイクも、リリーの高いコーラスも…全員で合わせて歌う以外にも見せ場があって、それに、全員一緒になったら、それこそ世界一なんだもん!”

私はそんなことを考えながら、一番好きな曲、「Suddenly」を頭に思い浮かべて、切ない歌詞をなぞっていた。


“Suddenly 君がいなくなって 僕は一人だけど まだ終わりじゃない 最後まで君と 最後まで君と ずっと隣で”


悲しい曲だけど、私はなぜかこの曲が一番好きだった。自分が落ち込むことが多いからかもしれないけど、間違いなくこの曲には一番大切な気持ちが詰まってると思っていた。


すると突然校舎内に、「ガガッ、ガッ」という、放送室でマイクを入れた音が聴こえてきた。

「全校生徒にお知らせします。本日、緊急で全校集会を行いますので、各担任の指示に従い、体育館に集合してください…」

クラス中から、「なんだろう」、「なんだろうね」という囁きが聴こえて、そのうちに担任教師が慌てて教室にやってきた。私達は高校生らしく、のんべんだらりとそれについていった。






200人ほどの生徒がきちんと整列するまでは時間が掛かったけど、生徒達はみんなが“一時間目が短くなってラッキー”とでも思っていたのか、大して騒がなかった。そして、体育館の檀上には校長先生が上がる。校長先生が急に話し出すなんてほとんどないことだし、それでまた「なんだろうね」のざわめきは起こった。でも、校長先生がマイクに向かって一つ咳払いをすると、やがて静かになった。

誰もがだるそうに足元をもじもじさせながら、大して校長先生に注目していなかった。私は身長が低いし、一学年だから、檀上がよく見える前列の方に居て、校長先生がさびしそうに、厳しい顔をしているのが見えた。ためらいがちに口を開くと、先生はこんなことを言った。

「今朝は皆さんに、悲しいお知らせをしなくてはなりません。昨晩、一年三組の内田隆康君が、亡くなりました」

私は、そこから先を聞いていなかった。いや、聞くことができなかった。


目を覚ますと私の目の先には、ところどころ虫食いのような模様のある我が校の天井があって、そこからぐるりと回りを取り囲む薄緑のカーテンが下がっているのが見えた。私はベッドに寝転んで、布団を掛けられていた。背中に少し硬い保健室のベッドが押しつけられていて、ガサガサと引っかかる布団のシーツが首元にまといついた。でも、なぜかその感覚がどこか遠い。

“なんで私、保健室なんかにいるんだろう?どうしたんだっけ…?”

頭がぼーっとして、上手く働かなかった。でも、しばらくすると急に胸に寒々しい不安が押し寄せ、“思い出した”と思った時、私は自分の顔がくしゃっと歪むのがわかった。

“そうだ…校長先生が、「内田たかやす君が亡くなった」って、言ったんだ…”

どこか夢うつつだった気分は消し飛んで、私は胃の中身がぐるぐる回っているような吐き気がした。指先がひどく冷えて、震えている。

“なんで?なんでよ。あんなに元気そうに笑ってたじゃない。なんで。なんでそんなに簡単に、死んじゃうのよ…”

私は何が起きているのかがわからなかった。それに、たかやす君がなんで死んじゃったのかもわからない。でも、校長先生がわざわざ全校生徒を集めてそんな縁起でもない嘘を言うはずなんかない。

私は床に向かってよろけながら足を下ろし、ふらふらしたまま、先生の居ない保健室から出る。もう授業は始まっているようで、廊下には生徒の姿もなかった。私の足は、ひとりでにあの階段へと向かう。

自分の体がどうして動いているのかがわからなかった。でも、全身がひどく軽く感じて、少しでも力を入れれば体が左右に大きく振れた。息の切れるのも構わず急いで階段を上り、最上階の扉に体でぶつかるようにして、屋上に飛び出した。そして私はそのまま、へなへなと座り込む。

そこには、誰も居なかった。


5話「失われた場所」




私は、たかやす君が亡くなり、元々家庭もめちゃめちゃになっていたことで、なんだか「これからどうしていったらいいんだろう」といつも考えるようになっていった。

でも、誰にもたかやす君の話はできなかった。だって誰に言っても、「でも、知り合ったばかりだったんでしょう?」と言われれば、私だって慰められたような顔をしなければいけない。二回しか話したことのなかった人の死をひどく悲しむなんて、普通はあり得ないからだ。でも、私には置いていけないことだったんだ。

確かに喋ったこともすごく少なかったけど、そのとても少ない言葉の中で、“たかやす君は私をわかってくれた”と思った。それだけで私はとても嬉しかった。“たかやす君と友達になりたい”とも思った。

ほとんど会話をしないまま別れが来たからこそ、私は悲しかった。

“もっと話したかった。たかやす君のことも知りたかった。でも、もう無理なんだ。たかやす君は死んじゃった。だからもう会えない。なんでこんなに早くに…。”

私の頭にそれが思い浮かぶと、ふっとそこへ“家に帰るのも辛い。学校に友達もいない。これからどうしていくんだろう…。”という文句が付け足されて、空回りを続けた。

それだからか、私はもうまったく学校に興味を失くしてしまっていた。


「学校に行きたくないの」

私がそう言った時、お母さんはとても慌てて、「どうして?学校で何かあったの?」と何度も聞いた。でも私は何を聞かれても首を振ることしかできなかった。「辛いことがあったの?」という言葉にも、「いじめられたりしてるの?」というのにも頷かなかった。お母さんはそのうち根負けして、その朝、学校に電話をして相談してくれた。






保健室登校になってから、スクールカウンセラーの先生とお話をすることもあった。カウンセラーの先生には、「家庭が上手くいっていない」とか、「クラスにいづらい」というようなことしか話せなかった。他の誰よりも、学校の先生にだけは、たかやす君の話をしたくなかった。


だって、学校の先生たちは公平だ。生徒ひとりひとりに同じように接する。

でもそれじゃ、私たち二人のことが、「たくさん居るうちの二人」というふうに、薄められてしまう気がしていた。私がたかやす君の死をどうしても受け入れられないと思う気持ちも、たった一つのものとして扱ってもらえないんじゃないかと思っていた。





私は今、保健室のベッドに寝転んで、保健の先生にもしたかやす君のことを打ち明けたら、先に続く会話はどんなものだろう、と考えていた。薄緑のカーテンに囲まれた天井に、たかやす君の朗らかな笑顔が浮かぶ。


保健の先生はためらいがちに息を吐いてから、なるべく私を気遣うように、静かに静かに喋るだろう。先生は急に姿勢を直したり、書類を閉じたりしてから、こう言う。

“友達だったのね”

私は返事を一つしか持っていない。

“いいえ、はっきりとは”

それで保健の先生は、私が親友を失ったわけでもなかったことに少し安心して、それでもなお悲しそうにこう繰り返す。

“でも、仲が良かったんだ。悲しいわね”

私はそれに、ただ次のように返すしかない。


“はい”



「違う…」

思わずそうつぶやいて、ごろりとベッドの中で寝返りを打った。

“そんなに簡単に片づけられるような関係じゃない。私たちは普通に出会ったわけでもなければ、普通の付き合いをしていたわけじゃないし、当たり前の言葉だけ交わしたわけじゃなかった。だからそんなふうに…”

私が一生懸命そうやって考え回している時、保健室の戸がガラガラと開けられた音がして、すぐさま私の隣のベッドに誰かが寝転ぶような、シーツが大きく擦れる音が聴こえてきた。

“誰だろう。変だな。怪我や急病なら、先生や他の生徒が付き添ってくるはずだし”

私はベッド周りのカーテンをすべて閉めていたので、どんな生徒が来たのかもわからなかった。でも私の体は思わず緊張して、ちょっと居心地が悪くなる。

“でも、これがもしサボりに来たような生徒だとしたら、すぐに眠ってしまうし、それに私はここから起き上がる気なんかないし…”


「ねえ、跡見さん」


私はびっくりした。隣のベッドから、私を呼ぶ女生徒の声がしたのだ。知らない生徒の声が。私は校内に友達もいないから、保健室でたとえ隣にいたとしたって、こんなふうに出し抜けに、親しげに話しかけて来る人なんかいないはずだ。

それは、よく通るけど細く小さい、消え入りそうな声だった。私は、か弱そうで腺病質に見える女の子を想像しながら、一応返事をした。

「は、はい…」

まるで、洞穴から聴こえてきた謎の声に返事をした気分だった。すると、突然ころころと女の子が笑う声がして、しばらくそれは鳴り止まなかった。そして笑い終わると、その女の子はわけを話してくれた。

「あーおかしい。ほんとに跡見さんだった。私ね、たかやすの友達。彼から聞いてたの。びっくりした?ごめんなさいね」

どこか大人の女性になりきったような女の子の声はやっぱり細くて高く、そして私を大いに驚かせた。

「今日ね、たかやすのことであなたをクラスに探しに行ったらいなくって、もしかしたらと思ってここに来たの。でも、前から保健室登校してた先輩は私の方よ?今日は久しぶりの登校なの」

「そ、そうなんですか…でも、なんで私のこと、探してたんですか…?」

私は、矢継ぎ早にいろいろと聞かされたので、処理しなければいけないことが山積みで、あまりびっくりばかりもしていられなかった。


すると突然、保健室はひっそりと静かになって、隣のベッドに軽いものが落ちたような、とさっ、という音がした。女の子が腕をベッドに下ろしたのかもしれないと私は思った。

でも、いつまで待っても返事はない。私はせっつきたかったけど、これはたかやす君の大事な話なんだろうし、隣の彼女も乱暴に聞き返されたくはないだろうと思って、黙って待っていた。


「…自殺よ」


ため息を注意深く絞り出したような声が、そう告げる。私の息が一度止まった。


「…遺書はなかった。どこを探しても。でも、病死でも、事故死でもないわ…」


“そんな。どうして?これは本当なの?”


私はそう思ってから、“急なことを聞くと、本当にこう思うんだな。”と、どこか別の場所から自分を観察する別の私を感じていた。極端な驚きに、神経が麻痺しているような気がした。

“あ、息、止まってたっけ。どうしよう、いつになったら始めていいのかな?”

でも私はすぐに我に返って、細く細く、隣の彼女に聴こえないように息を吐いた。

“待って。落ち着いて。どうかしてる。”

呼吸をするのに考える必要なんかないし、止めたままでいなきゃいけなかったら死んでしまう。でも、そんな当たり前のことすらわざわざ一度手に取って確かめてしまうくらい、私は気が動転していた。

そのうちに私の体は、あの時のように手や足がどんどん冷えていき、呼吸は苦しくなっていった。

「たかやすはね…あなたが好きだったのよ」


細く高い声が言ったことは、どこか遠くの、白い光に包まれた空から響くように聴こえた。



6話「壊れる家」




保健室で会った女子生徒は、そのままたかやす君の話をたくさんしてくれた。たかやす君の友達になったのは、たかやす君も保健室登校をしていたからで、毎日のように保健の先生に軽口を叩いては、笑わせたり、時には叱られたりしていたらしい。

明るく、上手く周りに合わせることができるのに、どうしても教室に行きたがらないたかやす君には先生たちも首を傾げるばかりだったみたいだ。それでも保健室に来ると安らいで元気にしているたかやす君を見て、周りの大人も少しは安心するようだった、とのことらしい。

それから、たかやす君は勉強をしている姿を見たことがないのにすごく成績が良くて、いろいろなことに詳しかったと、隣の彼女は言った。喋る調子もとても頭の回転が速いのがよくわかった、と。

あとは、ネットゲームが好き、ロックミュージックも好き、スナック菓子も好きという、ごく普通の若い男の子である一面もあったらしい。よく保健室にお菓子を持ち込んで、たまに見つかって叱られていたみたいだ。

私は隣のベッドで、私ではない別の生徒がたかやす君についていろいろと話すのを聞いていて、彼が本当にこの学校に居た生徒だと、初めて感じた気がした。

“ああ、それで学校内を探してもなかなか見つからなかったんだ…。”、とも思った。

その後隣のベッドから衣擦れの音がして、私のベッドのカーテンが開けられた。そこには、目も覚めるような綺麗な女の子がいた。ベッドから半分起き上がった彼女の体はとても細くて儚く、そしてぱっちりとした大きな瞳を瞼で半分包んだような彼女は、こう言った。

「わたし、みずほっていうの。よろしくね、新入りさん」






あれから、お母さんは毎朝心配そうに私を送り出して、いつも何か言いたげな顔をしていた。私はなぜ教室に行かないのかの理由はいまだに話していないし、もちろん同学年の生徒が亡くなったことなんか話してない。言えるはずがなかった。私が屋上に入り浸っていたことを話さなくちゃ、話が出来ないのだから。

「たかやす君と出会ったのは屋上だし、帰りが遅くなった日に一緒にライブに行ったのもたかやす君だ。私が「逃げたい」と感じていた時、たかやす君はそばに居て、連れ出してくれた。私はそれが嬉しかったから、彼の死がこんなに悲しいんだ」

もし言葉にするとしたら、私はこう話すだろう。お母さんには本当のことを底の底まで話して、私が本当に悲しいんだってことを分かってもらいたいから。

でも、そんなことを言えば余計に心配される。それに、お母さんは家のこと、お父さんとのことで手一杯なんだから。





家は毎晩、まるで戦場かのように揺れた。お父さんとお母さんは、殴り合ったり一方的にどちらかが殴りつけたりすることはないけど、それこそどんな罵詈雑言だって怒鳴り合っていた。

お父さんが酒に酔ってお母さんの家事などに文句を付け始めると、事が始まる。それからお母さんは用事をしながらお父さんの文句をかわそうとするけど、結局お父さんは片手間にあしらわれることに怒って、お母さんも売り言葉に買い言葉で喧嘩になってしまう。それを私は何度も聞いた。

私は自室で一度、お母さんの叫び声を聴いた。それは、お父さんが「養ってるのは俺だぞ!その俺を差し置いて、苦労苦労と言われたって困る!」と言った後だった。

「あんたの甲斐性がないことに、私や凛を巻き込んでおいて、何よその言い草!」

すぐにお父さんは言い返したけど、私はその時はっきり分かった。“この家はもうダメだ”と。お母さんは、「巻き込む」という言葉を使った。それなら、お父さんはもうお母さんにとっては部外者であって、家族ではないのだ。

私はほんの少しお父さんが気の毒になったような気もしたけど、その直前にお父さんが言ったことだって酷い。とにかく、家はめちゃくちゃだった。

でも、そんなある日、一晩だけ静かになった夜があった。

私はその晩、“あれ?今日は言い合いが聴こえてこないな”と思って薄気味悪かったけど、だからこそ部屋から出なかった。何か、嫌な予感がしたのだ。

“もしかしたら、今部屋から出たら、お母さんを殺してしまったお父さんと鉢合わせしたりするかもしれない”。そんな非日常的な空想をしてしまうくらい、家はいつも怒号が飛び交っていた。




予感は、ある意味では当たった。ある火曜日に私が学校から帰ると、お母さんは私をキッチンに呼んだ。

「おかえりなさい、凛」

そう言った時のお母さんは何かすっかりくたびれたような顔をして、私を玄関で待っていたようだった。

「ただいま。どうしたの、玄関で」

お母さんは私が驚いたことには「そうね」と返しただけで、うつむきながら両手の指をおなかの前で組み合わせて、「制服から着替えたら、キッチンでお話しましょう」と言った。



キッチンにあるテーブルの真ん中にはティーポットが置かれ、お母さんの好きな紅茶の葉が踊っていた。二杯分が出終わるまでお母さんは喋らなかった。その顔は、お茶が出来るのを楽しみに曖昧に微笑んでいるようにも見えたけど、私にはお母さんがすっかり憔悴し切っていたのがなんとなく分かっていた。

お茶はそのうちにポットからカップへと注がれて、静かなキッチンに、とぽぽぽ…、という音が二回響いた。それからお母さんは、いつまでも黙っているわけにもいかないというように、ためらいがちにこう言った。

「お父さんとお母さんね…離婚することにしたの」

私は一応、少し驚いた。でも、それは仕方のないことかもしれないと、やっぱり感じた。“あれだけ上手くいかなければ、もうお互いに見切りをつけないと、傷つくばっかりだし”と、どこかで私は納得していた。

「そう、なんだ…」

私はもうすっかり納得してしまっているのに、驚いている振りをしているのが苦痛だった。お母さんは、何度も私に「ごめんなさい」と言って泣いた。それから、「少し休むわね」と言って寝室に入っていった。



7話「薄闇の中で」


「離婚が決まった」とお母さんが口にした晩から、お父さんはほとんど家に帰ってこなくなった。たまには帰るけど、両親の会話は事務的なもののみに限られて、私が夜中にトイレに起きた時は、リビングのソファからいびきが聴こえてきていた。

「あなたは…お母さんについてくることになったの。それで…大丈夫かしら?」

「そうなの…?」

お母さんはまたお茶を入れて、引っ越しの一週間前にそう言った。

あまりお母さんは話したがらなかったけど、どうやらお父さんにあるなんらかの事情で、私を引き取ることができない、そんなような口ぶりだった。

私は他に何を言うこともできなかったので、「うん、わかった」と言った。

“わかった”。子供の頃から何度も言った言葉。

子供は結局何にもわかってないけど、ただ“そうしなきゃいけないんだな”と思った時には、“そうすることに決めたよ”という意味で口にする、「わかった」。この時私は、自分がそんな言葉を使ったことに気づいた。

私はお母さんから、「荷造りをしておいてね。この家を出ることになるから」と、段ボールをいくつか渡された。何も知らないまま、結局お父さんとお母さんはなんの理由があって別れることにしたのかわからないまま、お父さんともろくに話せず、私たちは離れた。





私とお母さんは一週間して、こぢんまりしたアパートに移り住んだ。そこはリビングと寝室の二つしか部屋がなくて、それぞれ六畳くらいの広さだった。前のマンションよりだいぶ狭かったので、お母さんが好きで持っていた花瓶やたくさんのお皿、それから家電もいくらかを売り払ってしまわなければいけなかった。私の学習机も新しい部屋にはとても置けないので、小さなテーブルに買い替えられた。

深夜、両親が怒鳴り合っている声はもう聴こえない。でも、それは「いない」からだ。私はもちろん、「いがみあう親」というものを見なくて済むようにはなって、少しは落ち着いた。でも、“いないのと、いても喧嘩してるのとでは、どっちがいいんだろう”と思い始めて、わからなくなっていった。

それから、お父さんが一人で暮らす様子も考えた。

まだ一緒に暮らしていた時、お母さんはよく、お父さんが次のビール缶に手を出すのを止めていた。そうすると決まって喧嘩が起きるけど、誰かがそうしなかったら、お父さんは延々とお酒を飲み続けるだろう。

“大丈夫かな、お父さん…。”

私はそれだけが心配だった。

“あんなにお酒を飲むお父さんが嫌いだったのに、離れてみるとこう考えるものなんだ…。”

お母さんはだんだん気鬱な様子でいることが増えた。時々、一人で泣いているのを見つけたこともあった。

「あ、凛。ごめんなさい、そろそろごはんの時間よね…」

食事の時間になっても寝室から出てこなかったお母さんを呼びに引き戸を開けた時、お母さんは後ろを向いていた。それから急いで顔を拭うような動作をして、振り向いた。お母さんの目は、真っ赤だった。

「う、うん。大丈夫、急がないから…」

その時の私には、そのくらいのことを言う頭しかなかった。

悔しかった。

“私は子供だから、なんにもできないんだ。家がめちゃくちゃになっても、家族が悲しんでも、なんにも。”

そんな無力感に苛まれることもあった。






ある晩、私はなぜか悲しい気分だった。頭が重い。体も同じ。気分はぼんやりして、体もくたびれているはずなのに、なかなか眠れなかった。

傍らでお母さんはくうくうと眠り込んでいて、少し安心したけど、自分も眠らないとと焦った。

しばらく目を閉じてみたけど、やっぱり眠れなかった。それで、なんとなくだけど、前によく聴いていた“シスピ”のアルバムをスマートフォンから探して、イヤホンを差して聴いてみることにした。

“たかやす君が亡くなってから、聴いてなかった…。”

どうしても思い出してしまうから、“シスピ”を聴くことができなかった。でもその時はなぜかそれを聴きたくて、たかやす君のことを思い出したい気がして、自分の一番好きだった曲を選ぶ。

それは悲しい歌。歌詞には何も書かれていないから、どんな別れかはわからないけど、急な別れで好きな人と離れてしまって、それでもまだ隣にいるんだって思いたい気持ちを綴った…。

私は、耳の中に流れ込んで来るキラキラした悲しみがどうしても心臓に突き刺さって、涙が溢れて来るのを止められなかった。でも泣き声は立てられないから、涙を拭うのも遠慮がちに、お母さんの隣に敷いた布団で、縮こまって泣いた。

真っ暗な狭い部屋で、悲しみを押し留められずに泣いていると、苦しくて苦しくて仕方がなかった。

“どこかに行きたい。誰も知らない遠くに…!”

そう思った時、私はもう自分を止められなくなっていた。

私は慎重にお母さんが寝入っていることを確認してから、起き上がった。

何度も振り返っては、音を立てないようにびくびくと身支度をして、それから一日分くらいの着替えと、貯金箱の中身も入れた財布、スマートフォンの充電器などの手回り品をボストンバッグに詰めた。

その時、私は自分がなぜそんなことをするのかわからなかった。でも、どこでもいいからどこかに逃げたかったんだと思う。だから私は、行先も考えずに家を出た。



8話「それは決まって真夜中に」



家を出ても、私には行く先なんかあるはずはなかった。そりゃそうだ、高校生なんだから。それに、私が住んでいるのは地方都市からも少し外れた場所だったので、深夜十二時半を過ぎても動いている公共交通機関なんかなかった。子供が一人でタクシーを呼ぶわけにもいかない。体は疲れているから長く歩くことも出来そうになかった。

それでも、私は早くどこかに行きたかった。だから私は適当に近場の、お母さんに見つからないだろう目的地を目指した。

「ネカフェかな…?」

行き先に納得していないからか、それとも疲れていたからか、私はよろよろとした足取りで、最寄りの駅の近くまで歩いて行った。





結構時間が掛かってしまったけど、私はやっとインターネットカフェに着いた。普段あまり使っていないお小遣いと、それから貯金箱の中身も持ってきたので、計一万五千円が手元にある。ネットカフェで使うにしては豪勢過ぎることだって出来そうだった。

もちろんそのお金でタクシーを呼んで、電車が動いている地区まで連れて行ってもらうことも出来たんだろうけど、私はこの時何を考える余裕もなくて、この時には、それが精一杯だったんだと思う。

私は、ビルの二階だけを使っている古く小さなネットカフェまで階段で上がる。それから、汚れでくすみ、少しがたつく自動ドアをくぐった。

「いらっしゃいませー。お一人様ですか?」

「は、はい…」

「プランはどれになさいますかー、三時間パック、フリータイムとございますー」

ネットカフェの店員さんは、店の名前がプリントされた青いエプロンを着けていて、メガネを掛けた背の高い男性だった。私はなんとなく、「未成年だってバレたら入れてもらえないかも…」と考えた。だからなるべく淑やかな女性らしい喋り方を意識して、「フリータイムをお願いします」と言った。

店員さんは大して気にも留めないのか、私を見もせずに、「ではこちらの、部屋番号は26番で、あちらの通路を右に曲がるとございます。ヘッドフォンございますので音声出る場合は必ずパソコンに繋いでお使い下さい」と、どこかこなれて片手間のような敬語を話し、レシートを挟んだ小さなクリップボードを渡してくれた。そこには確かに「26」とあった。

両側に漫画が詰められた本棚がぎちぎちにそびえ立った狭い通路をいくらも歩かないうちに、私は席に就いてドアを閉めてから荷物を下ろし、小声で、「どうしよう…」と言った。


どうしようもこうしようもない。明日も学校がある。学校なんかもう行く気になれないけど、朝になればお母さんが私を探すだろう。

そこで私ははっと気づいて、スマートフォンを取り出した。ホーム画面を開こうとすると、お母さんから着信が五件あった。


“無視しよう…。ここで電話なんかしてられるはずもないし、それに今は戻りたくない。お母さん、ごめんね…”


私の頭の中はもうめちゃくちゃだった。そしてそのめちゃくちゃな中で、ある曲が思い出される。その曲のタイトルは「Suddenly」。それは好きな人との別れを歌った悲しい歌。今晩、ずっと私の頭を追いかけてくる曲。


何もしていないのもどんどん不安になってくるし、と思って、私はパソコンで動画サイトにアクセスして、傍らに下げてあったヘッドフォンをパソコンに繋いだ。頭にかぶってみるとだいぶ大きいので、少しバンドを縮める。


“シスピ”の公式の動画ページに行くために、動画サイトの検索バーに“Sister P”と入力してみると、いつも通りスマートフォンでも観られるチャンネルが出てきた。


“パソコンってあんまり触ったことないから、ちょっと使いづらいな”


そうは思ったけど、私はマウスで好きな曲のサムネイルをクリックした。その曲を聴けばいつでも元気が出て、“もう一度やり直そう!”と思える曲だった。でも、それもこの日ばかりはダメだった。





“ダメだ…。なんにも湧いてこない…”


悲しい気持ちは治まらないし、虚しさも消えなかった。それ以上聴いていても、無理に励まされているようで辛くなる気がして、私はやむなく「Suddenly」を聴いた。これはたかやす君と出かけて行った“シスピ”のライブでも歌われていたし、私はPVを観て、あの時に感じていたことすべてが胸に蘇った。


嬉しそうに目を細めて、ステージからの虹色のライトを浴び、時々私を振り返っては満足そうにはしゃいでいた、たかやす君。


“それなのに、どうして?”


私はもう一度その気持ちをなぞった。それから、学校の保健室でみずほさんから聴いていたことも思い出す。


“たかやす君は、私が好きだった”


それが本当に本当かどうかは私にはわからないけど、もしそうだったなら、なぜ私に何も言わずに居なくなってしまったんだろう。たかやす君の悲しみはどこにあったんだろう。なぜそれをみずほさんにも、私にも話さずに、たった一人で決めてしまったんだろう。


でもそれは、もう誰にも確かめられない…。






私はいつの間にか仰向けにリクライニングチェアに横になり、長袖のシャツを目に押し当てて、声を殺して泣いていた。悲しかった。悲しかった。私の心は何かにズタズタに切り裂かれて、そしてその中から鮮血のような気持ちが溢れ出す。


“たかやす君…もう私だって…死んじゃいたいよ…”


私は頭が重くてくらくらする中で、横になっていた恰好から起き上がる。それから、動画サイトを閉じて検索サイトを立ち上げた。そして、その検索バーに、「自殺」と入力し、エンターキーを押した…。


9話「掲示板にて」




まさか自分がそんなことをするなんて、考えたこともなかった。でも私はインターネットで「自殺」と検索して、瞬時にずらりと並んだ検索結果に、まずはため息を吐く。

まず、ページの一番上には「辛くて死にたいときは こころ電話」という、夜中にも受付をしている自殺防止なのだろう窓口のURLが現れた。その次に「うつ 死にたいと思ったら専門家に相談してみませんか?」、「辛い気持ち、一人で抱え込まないで」、「県内の心療内科・精神科一覧」…。

“…無駄よ。一人で抱え込むな、なんて。だって私だけの気持ちだもの…”

私は自殺を止めるためのページは全部無視して、どこかで誰でも聞いたことのある、「自殺したい気持ちを持った人たちが集まる場所」を探した。検索ページを何枚か送ると、案の定、“自殺掲示板”というものが現れた。

「あった…本当にあるものなんだ…」

なんとなく、独り言が今日は多い気がするけど、私は思わずそう口走って、そのリンク文字をクリックする。画面はぱっと切り替わり、真っ黒な背景に、赤い四角で囲まれた大きなサイト名が一番上に現れた。




最初は黒い背景に赤文字だからよく分からなかったけど、その下にあったのは、掲示板にあるトピックの件名が乱雑に詰め込まれた、大量の文字列だった。その中に、一つだけ一番上に固定されている大きな文字で書かれたトピックのリンクがあり、「初めましてトピ」と書いてあった。

“私、掲示板とかあんまり入ったことないけど、ここに多分自己紹介を書き込むんだろな…”

私はそこをクリックして中に入り、入力画面から、自己紹介を書いた。

“16才です。高校1年です。友達が自殺しました。両親が離婚しました。どうしたらいいかわからないです。わからないけど、死にたいと思いました。”

そこには「詳しい個人情報を書かないで下さい」とはあったけど、「在住県」という欄だけはプルダウンバーで選択することが出来たので、自分が住んでいる県を選択して入力し、メールアドレスも登録してみた。誰かと話したいという気持ちもあったけど、私は何も考えることが出来なかったから、ただ書かれていることに従ったというだけだったかもしれない。


でも、そこに何かを書いたところで、問題は解決されないし、私の落ち込んだ気持ちがすっきりするはずもない。だからトップページに戻って、最初に見た時から気になっていたリンクをクリックした。

「初心者チャット」。そこには小さな文字でそう書いてあった。タイピングがとても遅いけど、とにかく何かを吐き出していないと、私は次に息をすることもできないと思った。チャットルームに入室する名前は、なんとなく「たかこ」にした。





タイガー:今夜もなかなか眠れないなあ
優:私も
ことのり:無理しても仕方ないじゃん( ̄▽ ̄;)
<<たかこ>さんが入室しました。>
ことのり:たかこさん、こん、初めましてですね(^^♪
タイガー:こん。はじめまして
優:こん、たかこさん


“えっ?「こん」って何?”


たかこ:「こん」ってなんですか?
タイガー:「こんばんは」とか「こんにちは」の略だよ(^^)/
優:もう2時ですね、私落ちます
タイガー:おやすみー(^_-)-☆
ことのり:おやすみ優ちゃん
タイガー:あーはらへった
ことのり:私ちょっと薬効いてきました
タイガー:たかこさんっていくつ?(^^♪
ことのり:ここに来たってことは
タイガー:チャット初めてっぽいね
ことのり:病院とか行ってるんですか?


どうしよう…やっぱり全然会話についていけないスピードだし、「病院行ってる?」って聞くってことは、この人たちは行ってるのかな…。私みたいな、一瞬「死にたい」って思っただけの人間なんかがこんなところに居て、いいのかな…。

“「メンヘラ」とかって、聞いたことある…。やっぱりそういう人が集まるんだ…”


たかこ:私は病院は行ってないんですけど、ちょっと事情があって、死にたいんです。それだけです
ことのり:そうなんですね
タイガー:ごはん食べられないとか、体動かないとかある?疲れやすいとか


“どうしよう…なんか、私病気だと思われてる?親切そうではあるけど、なんか薄気味悪い…”


私はしばらく返事を書かなかった。でも、その間にも画面は流れていく。


ことのり:もし、落ち込むだけじゃなくて、気力、体力、食欲にも異常が出たら、専門機関の受診をお勧めしますよ
タイガー:早期発見が早道
タイガー:学生だったら学校、社会人だったら職場行けなくなったら病院よ


私はそこで、ギクッとした。

“最近、学校行きたくなくて、全然行かない日もある…。”

で、でもそんなに問題じゃない、私はちょっとひどく落ち込んでるだけで、それに、自分が病気だなんて感じ、しないし…。


たかこ:学生なんですけど、たまに学校いけないときはあります
ことのり:心配だね
タイガー:ちょっと注意かな、でも、寝られない食べられないになったら病院おすすめ(;^ω^)


“そういえば、最近あんまりごはん食べてないかも…お母さんからも、「もっと食べなさい」って言われてるし…。それに、今日はこんな時間になっても寝てない…”

私はそこで初めてそれに思い至った。それまでは、そんなことを気にしてられる状況じゃなかった。


タイガー:じゃ、俺夜食くってくる(^^)/
ことのり:私は眠いので寝ます。たかこさんお体おだいじに
<<タイガー>さんが退室しました。>
<<ことのり>さんが退室しました。>
たかこ:ありがとうございます、ことのりさん、タイガーさん。


もう遅い時間だったのもあって、みんなあっという間に退室していってしまった。それに、ここはなんだかにぎやかな交流の場って感じみたいだった。

“場違い、だったかなあ…”


そう思っていると、私のポケットの中でスマートフォンが二度振動した。それはメールの受信を報せる振動だ。インターネットカフェに入る時も確認したけど、お母さんから五回ほど電話はあった。もしかしたら、今度はメールかもしれない。

私は見たくなかったのに、やっぱり罪悪感からホーム画面を開いてしまった。でも、そこにあったのは“お母さん”という文字ではなかった。

知らないメールアドレスからメールが来ていた。迷惑メールかもしれないと思ったけど、件名でそうでないことが分かった。


「自殺掲示板見ました」


私はその瞬間、ちょっとゾッとした。多分さっき、「初めましてトピ」にメールアドレスを載せてしまったからだろう。


“嘘。メールアドレス書くと、やっぱり送って来る人って居るんだ。どうしよう。でも、ただのメールだし…”

私は戸惑いながらも、内容を確認する。


「私、同じ県に住んでいる者です。お近くなら、これから会えませんか?」


“なにこれ。出会い系サイトと勘違いしてるんじゃないの?”そう思ったけど、私はその簡素なメールに添えられた最後の一文で、ぐらっと頭が揺らいだ。

「一緒に死にませんか?」



10話「現れた人」




私は、メールに書かれたその文を読んで、大きく気持ちが揺らいだ。


「一緒に死にませんか?」


“一緒に…死ぬ…?それなら、あんまり怖くないかもしれない…”

もちろん私は、当たり前だけど死ぬのは怖かった。でも、誰かと一緒なら、そんなに怖くないかもしれないと思ってしまった。

そして私は“逃げたい”と思う気持ちだけを見るようにして、怖い気持ちに捕まってしまわないうちにと、そのメールに急いで返信をした。


「初めまして。あなたは県内のどこに住んでいるんですか?」


文章はそれだけ。私は他に気を遣う余裕なんかなかった。それからスマホを両手で握りしめ、メール画面を立ち上げたまま、返信を待った。息が苦しくて、絶えず急かされているような緊張があった。

ほどなくしてその人からまたメールが来た。簡単な住所だけを見ても、私が居る駅前からさえ近くて、二十分ほど歩けば着く場所だと分かった。


私は、自分が軽はずみで向こう見ずな行動をしていることに気づいていた。でもそれ以上に今の苦しみの方が勝っていると感じた。それから、メールの送り主とのやり取りに従い、入ったばかりのインターネットカフェから退店して、待ち合わせ場所までは何かに駆られるように急いで歩いた。






私は、メールで「津田実」と名乗った人に指定された、コンビニの駐車場に居た。アーチ形の車止めに腰をもたせかけて津田実さんを待つ間、私は少し落ち着いて考えることが出来た。

“もちろん本名かなんてわからないし、会ったら私はさらわれて、売り飛ばされたりするのかもしれない…”

落ち着くと、そういった常識が湧いてきて、私は少し怖くなる。それでも、“これから死のうって考えてるんだから、そんなこと気にするなんて馬鹿馬鹿しいかも”と思って、それを退けた。


「あの…跡見、凛さんですか…?」


私が顔を上げると、目の前に知らないおじさんが立っていた。私は少しびっくりした。もちろん急に声を掛けられたからもあったけど、その人の恰好がちょっと言葉に出来ないほど、異様だったからだ。


その人はボロボロにほつれたワイシャツとチノパンを着て、それから髪は、普通だったら外に出るのを躊躇するほどにボサボサだった。それから中年太りで、おそろしく猫背だった。顔の表情は、まるで子供が大人を怖がるように、私を覗き込んでいる。


「は、はい…そうです…」

「あ、そうでしたか…すみません…こんなに、夜遅くになってしまって…」

「津田…実、さんですか…?」

「あ、はい…そうです…」

津田さんは初めから私に謝って、それから、「私の家、こっちなので…」と申し訳なさそうに微笑み、コンビニの横手にある、裏路地のような細い道を指差した。





津田さんの自宅らしき場所は、周りに大して街灯もない中に建てられた、古いアパートだった。外廊下にある電気に照らされた玄関のドアはどれもボロボロで、下が見透かせる階段は、私達が上るとギシギシと軋んだ。

津田さんは玄関を開ける前に私を振り返り、「すみません、散らかり放題で、汚いんですけど…」とまた謝って、私を部屋に招いた。

「いえ…お邪魔します…」


心許ない灯りをつけた部屋の中は、本当に床じゅうにゴミが散らばっていた。津田さんはそこで、「ちょっと待ってくださいね」と言った。それからゴミをどかして捨て、ボロボロのクッションを一生懸命はたいてから床に置き、やっと私の場所を作ってくれた。狭い部屋が一つしかないので、その様子はよく見えた。

「どうぞ、座ってください。すみません…」

「ありがとうございます」

津田さんは私がクッションに座ってから、床に直接正座をして、大きくため息を吐いた。

「ごめんなさい、こんなところへわざわざ…」

私は、ずっと申し訳なさそうにしている津田さんが少し気の毒になってしまって、「あの、大丈夫ですよ、どうぞおかまいなく」と声を掛けた。でも、津田さんは「いえいえ」と言って首を振った。

「…あ、何か飲み物を持ってきますね。ちょうどジュースがありますので」

津田さんはそう言ってまた慌てて立ち上がる。すぐにも手が届くところにあった小さな冷蔵庫からりんごジュースを取り出し、津田さんはそれをコップに注ぐ。そして、私のそばにあったテーブルにそれを置いてくれた。

「ありがとうございます。いただきます」

私が会釈をしてからりんごジュースをひと口飲むと、津田さんは私をまじまじと見つめ、急にこんなことを言った。

「…あなたは、きちんとしていますね。きっと、ご両親が良い方なんでしょう…」

そう言われたので、私は思わず首を振る。そして、あやふやに「いえそんな、うちは…」と返した。

「掲示板で読みましたが、離婚をされたと…どんな事情があったんですか…?」


私はちょっと迷ったけど、「これで自己紹介もできるかな」と思い、長い長い話を始めた。


11話「涙無しでは話せない」



私は津田さんの狭い部屋の中、クッションに座って淡々と、両親が離婚したことについて話をした。

「昔は仲が良かったんです。でも、ある日お父さんが職場で左遷されてから、お父さんはお酒ばかり飲むようになって、それを止めたり、お父さんの嫌味に言い返したりするお母さんと、喧嘩が絶えなくなっていって。私はあんまり関わらないようにしてたけど…本当は、止めたかったと思います。でも、子供の私が出て行っても、なんにもならないことは分かってました」

そこで津田さんは、悲しそうに顔をしかめて、正座をした膝に乗せた手をつっぱり、肩で体を前に乗り出した。

「それで、だんだん喧嘩することで喧嘩がさらに増えてる、みたいな状態になっていって、それこそ話をすると言ったら嫌味だけ、っていうふうになりました。それで、もしかしたら、お母さんの方から「もう喧嘩したくない」って切り出したかもしれないです。ほんとは優しい人だし。だから、喧嘩したまま離婚したけど、二人がいがみ合って疲れることももうないし、これで良かったのかも…。でも、お母さん、家でたまに泣いてるんです。離婚、したくないのにしたのかも…わからないですけど」

そう言い終わった時、私はできるだけ笑おうとした。でも、津田さんの表情が、そうさせてくれなかった。それは、真面目そのもの、という顔だった。

「そうでしたか…でも、あなたはとてもえらい方ですね。子供なのに、もう冷静に考えようとして…それに、「自分が止めたかった」と、普通は考えないことまで、しっかり考えようとしていらした…すごいです」

津田さんがあんまり感心した様子で、頷きながらそう言うので、私はそれに少し照れてしまって、「いえ、全然、そんなことないですよ…」と、思わずうつむいてしまった。

その時私は、津田さんがあんまり私を丁寧に扱ってくれて、親身に話を聴いてくれるので、第一印象とはまったく違う人間像に、驚いていた。

“「一緒に死にませんか?」なんて赤の他人の私に向かって言うから、てっきりいい加減な人かと勘違いしてた…。それに、“売り飛ばされるかも”なんてことも考えてたし…”

私はそれで津田さんに申し訳なくなって、恥ずかしさから顔が熱くなった。だからしばらく黙って下を向いていて、“もう、顔、赤くないかな?”と、もう一度津田さんの方を見ようとした時だ。

「あの…お気にさわったら、申し訳ないんですが…」

また自信のなさそうな様子で、津田さんは両手を前に浮かせて、おろおろとしているように震わせた。

「なんでしょうか…」

その時、津田さんは急に胸が苦しくなったかのように顔を歪めて、脇を見た。でも、もう一度こちらを見た時には、しっかりした顔つきをして、私の目を直接覗き込もうとしているように見えた。

「お友達が、お亡くなりになったということもあったんですよね…悲しかったでしょうに…」

そう言いながら、津田さんはどんどんと泣きそうな顔になっていった。


私はさっきまで、深夜なのに見知らぬ人の家に来て、自己紹介がてらに辛い出来事を話すという、ある種非常事態のような中に居た。だから、たかやす君のことは忘れていた。

でもそれが一気に胸に蘇り、背筋を通って私の脇腹をがっちりと掴んだ。思わず下を見て、“冷静にならなきゃ”と心の中でつぶやく。


「ああ、ごめんなさい、ショックなことを聞いてしまって…!」

津田さんは私の心を察してしまったのか、やっぱり謝った。でも私は、これこそ話したいことだった。

だって、この人は多分、「あまり親しくなかったなら、気にすることはないですよ」とは、言わない。なんとなく、そう感じていた。





「…仲が良かったかどうか、わからないくらいに、何度かしか会っていないんです…」

私は、あえて同情してもらえなさそうなことから話した。なぜそうしたのかはわからない。津田さんは少し驚いたけど、もう一度神妙な顔に戻って頷いた。

「でも、彼にだけ、本当のことが話せると思いました…私に、とても優しい人でした…私が落ち込んでいることもすぐにわかってくれて、私に逃げ道が必要だとも、思ってくれました…!」

私の手はぶるぶると震え、それを押さえつけるために着ていた服をぎゅっと握りしめた。目の前が滲んでいくと、そこにたかやす君の笑顔が浮かぶ。それを私は失くしたくない。

「でも…でも、彼は自分のことは何も…苦しいとも言わずに…ある日突然、自分からいなくなってしまったんです…!」

津田さんは一言も口を挟まずに、私の話を聴いていた。だから私は、いつの間にかその存在を忘れて、叫んだ。

「どうしてなの?私には分からないけど、悲しむことしか出来ないなんて、ひどい!何も言わないで…!…何も言わないでいっちゃったなんて…!」

わけもわからなくなって、とにかく私はそうわめき散らした後で、わっと泣いてしまった。この時私は、“この涙はきっと枯れない”と知った。





私が落ち着いてから、津田さんはもう一杯りんごジュースを汲んできて、また私と少し話をした。私はまず、津田さんに謝った。

「ごめんなさい…「一緒に死にませんか?」ってメールについてきたのに…私、いろいろあって、ちょっと落ち込んでただけなんです…なんだかよく分からなくなっちゃってるけど、すごく悲しくて、それで逃げたくて…ごめんなさい…」

「大丈夫ですよ。それは普通のことです」

「えっ?」

津田さんの返事は、私が謝ったことに対する返事ではないように思えた。それから津田さんは少し斜めの下、ゴミだらけの畳に目を落として、こう話し出す。

「あなたは今、目まぐるしく変化して、悲しいことばかり起きる中にいます。だから混乱して、自分を守るのに必死なんです。でも…時間は掛かりますが、しっかり休めば、必ず良くなりますよ」

私はそれを聞いて、なんだか「自殺掲示板」のチャットに居た人達が喋っていたことを思い出した。

「そ、そうなんですか…?」

“だって、現実に起きた悲しいことは拭えないのよ。それでどうやって悲しみが消えるって言うのよ…”

なんだか私はそう思って、拗ねてしまいたかった。

「はい。きっと良くなります」

なぜかそう言い切る津田さんに、私は少し薄気味悪さを感じたままだった。でも、次に津田さんが話始めたことで、それはどこかに行ってしまったのだ。


「少し、これは私の話ですが、聴いてください…参考になるかもしれませんし…」


そう言って津田さんは、テーブルの上のりんごジュースをじっと見つめ、ため息を吐いた。


12話「瀬戸際のわたし」



津田さんはうつむきがちに、辛そうな顔をして話し始めた。津田さんの目はずっと、りんごジュースに向けられていた。

「はい。私自身は…幼い頃両親が亡くなって、預けられた親戚の家でずっと虐待を受け…就職を機に抜け出してから、病気を発症しました…」

私はそれを聞いて、心臓が止まるんじゃないかと思った。

「当然勤め先もやめて、病院に入院をし…。ですが、少しずつ良くはなりました…。まだまだ、それから十年しか経っていませんから、全快ではありませんが、口を利くことも物を食べることもできなかった状態からは、抜け出せました…働くことはできないので、生活保護を受けながら、今は薬の調整をしています…」

「そんな…辛い過去が…。しかも、今もですか…?」

私は、信じるしかないけど、信じられないような辛い話だと思った。そんなに何年も続く苦しみの中で生きてきたなんて。そんな人が、やっぱり居るんだ…。

寂しそうな、津田さんの微笑み。その髪はボロボロで、服だって同じだ。部屋の中も。私は、“辛い目に遭ったのに、なんでこの人がこうしてなくちゃいけないの”と、怒りで涙が滲みかけた。

「だんだん、良くなってきました。私のような者でも、良くなるんです」

津田さんはそう言って、また笑うけど、その背後には嵐があることを、私はもう知ってしまっている。

私はその時、津田さんの壮絶な過去と自分の現在を比べれば、私なんて大したことがないんじゃないかと考えていた。そこへ、それを読んでいたように、津田さんが付け加える。

「もちろん、あなたの今と私の過去は、比べるものではありません。だってそれはそれぞれ、私たち「自分」にしかわからないでしょう?だから、今「とても辛い」と感じている自分のために、休みましょう?」

私は、津田さんのその優しさに、一瞬で泣いてしまった。

それから津田さんも涙を流して、「あなたがこうして話を聞いてくれたから、私、もう少し生きられるかもしれません」と、泣き顔のまま微笑んだ。





「そろそろ、帰りますか…?」

「はい…」

津田さんは、私を家の近くまで送り届けてくれた。

「ご自宅を私が知るのはまずいですからここまでですが、本当に危ないので、気をつけてくださいね。では、おやすみなさい。今晩は遅くまで、本当にすみませんでした…」

最後まで申し訳なさそうに前かがみの猫背になって、津田さんは私に謝っていた。

「ありがとうございました。おやすみなさい」


私が帰宅してドアを開けた時、“お母さんがまた走ってきやしないか”と、少し心配だった。でも意外なことに、お母さんは眠っていた。だから私も、家出の荷物をどこか気恥ずかしく感じながらもほどいてから、放ってあったパジャマに着替えて布団に入った。すると、眠っていたお母さんがすぐに目覚める。そして、私を見ながら目をこすった。

「凛…こんな時間にどこに行ってたの?電話したのに…」

お母さんは起きたけど、まだどこか夢の中に居るように、瞼を持ち上げられないままで枕に肘をついている。

“本当のことを言ったら、今度こそ怒られるかも…”

「散歩…眠れないから…。ごめん、着信とか、気づかなかった…バイブにしてて…」

私がそう言うと、お母さんはすぐに納得したようにゆらゆらと眠そうに頷いた。

「そう。でも、危ないから夜中に散歩するのはやめなさいね」

そう言った切りで、お母さんはすぐに眠ってしまったのだ。

“もう、お母さんは私の心配もしないんだ…私なんか、どうでもいいのかな…”

私はそう思わずには居られなかったけど、“そんなはずない…きっと、最近体調が良くないだけ…”と、自分に言い聞かせた。事実、お母さんは「朝の四時には目覚めてしまって眠れない」と、近頃言っていた。


13話「溶けない氷」



それから数日間、私は学校に行かなかった。でもその間で、お母さんの様子を確かめることができた。とは言っても、子供の私の前だからなのか、泣き言を言ったり、愚痴をこぼしたりはしなかったけど。


お母さんは家事をあまりしなくなって、布団に寝転んでいることが増えて、食事はいつも安い弁当を近所の弁当屋で買ってくるだけになってしまった。

「お母さん…体調、悪いの…?」

ある日の昼に、私はダイニングから寝室を覗き込んで、寝そべっているお母さんにそう聞いた。お母さんは後ろ向きに横になっていたところから顔だけ振り向かせる。

「そんなことないのよ、少し、あんなことがあったから…疲れが出たのかしらね…」


“あんなこと”というのは、お父さんとの喧嘩別れだろう。もしかしたら、長年連れ添ってきたお父さんと別れてしまわなければいけないというのは、お母さんにとってとても辛かったのかもしれない。

“私が考えてたみたいに、解放感があるものじゃないのかももしかしたら、お父さんを心配してるのかもしれないし…”


だから私は、“私より、もしかしたらお母さんの方が辛いのかも”と思い、「お弁当、今日は私が買ってくるから、少し休んで」と、初めてお母さんに言えた。

「ありがとう…じゃあ、お願いしようかしら…」

お母さんはまるで病床に居るようで、今にも死ぬんじゃないかと思うくらい、儚い笑顔だった。

私はその日から、少し元気が出るようになった。勇気が出たからかもしれない。

“お母さんの代わりに私が頑張らなきゃ”

そう思えば、学校にも頑張って行けたし、保健室でみずほさんと喋っているときだって、たかやす君のことを思い出して悲しくなることもなかった。





私はある日、現国のテキストを解きながら、みずほさんと勉強の辛さを語り合っていた。私達は、保健室登校をしている生徒のために用意されている、向かい合わされた二つの机に座っていた。

目の前には、つまらなそうに淡々と世界史のプリントを解いていくみずほさんが居た。彼女は窓に背を向けて頬杖をつき、細くて長い髪を机に向かって垂らしている。

午後の明るい日光が彼女を後ろから照らすので、彼女の輪郭は輝いていた。顔の表情は物憂げに陰り、長いまつ毛が下に向かって流れているのを見ていると、美しいと思った。女の私だって、見ているだけで気分が良くなるくらい。

「ああ、もう。勉強ってなんでこんなに面倒なんだろう。でも、クラスに行かなくても、勉強だけはしないと先生たちが納得してくれないですよね」


私はそう言ってちょっと笑いを付け足した。みずほさんは三年生だけど、私と仲良くしてくれるから、私はいつも中途半端な敬語で喋っている。

するとその時、みずほさんはこちらを見ないで急にこう言った。

「あなた、それをやめないと、ダメになるわよ」

「え?なんですか?」


「てんで空元気じゃない。ずいぶん上手く繕ったようだけど、中身が透けてるわ」


私はその時、「そんなことないですよ」ともなんとも、言えなかった。背中に水を浴びせられたように、血の気が引くのを感じていた。でも、何かを言わなければいけない。だから考えたけど、やっぱり「そんなこと…」と言いかけてやめることしかできなかった。みずほさんは、そのあとは何も言わなかった。





みずほさんの言ったことは確かだった。

私はそれから、笑っているのが辛くなり、自分は危機をまだ脱していなくて、そして家族や周りの大人には頼れないと分かって、悩まされていった。お母さんはいつも体調が良くなさそうだし、私が自分の悩み事を切り出せる状態じゃなかった。

私はまず、スクールカウンセラーの先生に少しだけ話してみることにした。それでも、なかなか全部を言う気にはなれなかったから、「お話を聴いてくれる時間を定期的に持ちたいんです」とお願いしただけだった。

カウンセラーの先生からはすぐに快諾をもらい、私は水曜の十三時から、三十分話をしてもらえることになった。





その日は、一回目のカウンセリングだった。カウンセリングルームとして使っている部屋は、保健室の間に一室を挟んで隣にある。

私は時間通りにノックをして部屋に入り、「よろしくお願いします」と言って、先生に勧められた椅子に腰掛けた。

小ぢんまりとして掃除が行き届いた部屋の中には、先生と生徒が対面で座る椅子とテーブル、小さな先生のデスクがある。それから、ガラス扉の向こうにファイル類が見えている細長い灰色の棚が、部屋の片方に寄せられていた。そして壁の隅には、緑鮮やかなドラセナが、風にでも吹かれているようなたおやかさで大きな葉を鉢植えから伸ばしていた。

私は先生がなんと言って話を始めるのかわからなくて緊張していたけど、先生はまず、こう言った。

「お願いしてくれてよかったわ」

「えっ…よかったって、どういうことですか?」

先生は私の前で、記録をつけるノートに私の名前を記入しながら、話を続けた。

「いや、SOSが出てないなって思ってたの。二度だけど、話したことがあったでしょう?でもそれであなたからは何も求められなかった。だからね、少し心配だったのよ」

先生はそう言いながら今日の日付をノートに書き込んで、何気なく長い髪を耳に掛けた。

スクールカウンセラーの先生とは何回かしか会ったことはないけど、八木路子さんという名前で、三十歳くらいに見える、愛嬌のある微笑みが特徴の人だ。いくつかの学校を兼任しているらしく、私の学校には水曜と木曜だけ居るらしい。私が不登校になりかけて保健室登校を始めた時、クラス担任の先生の勧めで、二度だけお話をした。でも、たかやす君の話はできなかった。

路子先生はあらかじめ書きつけておくことが済んだのか、顔を上げて私を見て、「じゃあ、何から話しましょうか」と言った。

私はテーブルの上に乗せられた先生のノートを見ていた。まだ何も書かれていない。

“ここに、たかやす君のことを書くのかな。文字にしたら、二、三行で終わりそう…”

私はそう思って、言えるか言えないか、言うべきか言わないべきか、まだ考えていた。

もちろん、重荷は降ろしたい。

“でも、そうすることで私がいつかたかやす君のことを忘れてしまう手助けになってしまったら?仲が良かったわけでもない同じ学校の生徒が死んだだけでこうなった変な子だと思われたら?”

私はそんな不安な想像しかできなかった。だから、まずはその不安が消えてからにしようと、慎重に話し始める。

「悩みがあるんです。でも家族は具合が悪くて、それを相談できなくて…」

「大変な悩み?」

「はい…話しても、誰にもわかってもらえないんです。多分…」

路子先生は「そうなのね」と言って、私と同じようにテーブルに目を落とす。

「どうしてわかってもらえないのかしら?」

「どうしてって…」

“大したことがない悩みに苦しむのはおかしいから”、と私は言えなかった。

「それは…どういった類のもの?悲しいとか、苦しいとか、それか現実に迫るおそろしいこととか…どれだと思う?」

私はそこで、初めてこの悩みについて、具体的に考えたと思う。

“悲しくてたまらない。そう私は言いたいけど、それがわかってもらえるかわからないから、言うのが怖いんだ…”

それらの言葉から、私は一つだけ選んだ。

「悲しくてたまらない…そういうものです」

「そう…」

私達の会話は一旦途切れ、私は息苦しさから、こちらから見える壁の隅にある緑の葉をぼーっと見ていた。すると、しばらくして先生はこう言った。

「ねえ、跡見さん。ここではね、何を言ってもいいの。それに、ここは今あなたのための空間だから、先生は何も付け加えたりしない」

私はその言葉に思わず顔を上げて、先生を見つめていた。その時、先生は私を見ていて、まるであの夜、ボロボロの部屋で私の前に座っていた、津田さんのような目をしていた。

“この人も、悲しかったって、わかってくれるのかな。でも、こういうことに慣れてる立場の人だし、もしかしたら受け流されてしまうかも…”

私はそう思って、まだ不安だった。それに、本気で相談するのは今日が初めてだったから、まだ怖い。

なんとなく先生の目を見続けているのが怖くなって、私はうつむいてしまった。それからどんどん時間は流れていったけど、先生は何も言わない。それで私は沈黙が苦しくなって、その間もたかやす君のことを考え続けているから、どんどん辛くなっていった。

“なぜ、彼が自分だけで考えて、誰にも何も言わずにいってしまったのか。それが悔しくて、悲しくて…。それはやっぱり、私がたかやす君のことを、近しい人だと思っていたからで…。でも私は、そう信じてもらうほどの材料がないんだもの…それなら、先生だって私をどうすればいいかなんて、わからないはず…”

私はそこで、初めてわかった。ちらりと光が閃くかのように、心の中に、暗い重苦しい何かが生じるのがわかった。

“そうだ、私はこの悲しみをどうやって拭えばいいのか、どうしたら拭われたことになるのか、まったく知らないのよ。それでどうやって、人に話して救われようっていうんだろう…”

するとそこで先生はノートを閉じて、自分が座っている椅子の背もたれに背を預けた。

「ねえ、跡見さん。悩み事を話せないでいると、辛くならない?」

私は、先生が急に当たり前のことを言い出したから、少し驚いた。どうしたんだろうと思ったし。

私は先生の顔を見ていたけど、先生は伏し目がちに、まだテーブルの端あたりを見ていた。それから、どこかさみしそうにこうつぶやいた。

「悩み事を一人で抱える。それは辛いこと。そうするとだんだん、辛さがふくらんでいって、それを吐き出すのはもっと勇気がいることになる…。だからね、先生は跡見さんがすごく追い詰められてるんじゃないかと思うの…」

私はその言葉を聞きながらドラセナを見ていたけど、もう一度先生の顔を見たときには、もう心を決めていた。



14話「救いの手」




私はついに、カウンセラーの路子先生にたかやす君の話をすることに決めた。

怖かった。それに、“あまり関係のなかった生徒に落ち込まれても、先生だってどうしたらいいかわからないかもしれない”と、やっぱり思った。でも、もう言うしかない。私は苦しくて苦しくて仕方がないんだもの。

私は制服のスカートをテーブルの下で少し握りながら、やっと一言こう言った。

「この間、亡くなった生徒が居るのを、先生は知ってますか…」

先生は、“まさかそんなことだったなんて”と驚くように、一瞬表情が険しくなった。でも、すぐに先生は悲しそうな顔になって、「ええ」とだけ言った。

「私は、特別仲が良かったり、ずっと一緒に過ごしたわけではありません。でも、彼に救われたことがあります…」

“そうだ、私は彼に救われた。だからこんなに悲しかったんだ…”

私は、その先の話まではやっぱりできなかった。「なんで何も言わないでいってしまったのかということで、彼に会えたとしたら責めてしまうかもしれない」とまでは。

路子先生はノートを閉じたままで、表紙を何度かさすり、私を見つめてこう言った。

「そんなことを誰にも話せないのは辛かったでしょう」

私は静かに頷き、少しだけ涙を流した。

“よかった。路子先生も、否定して励ましたりなんてしなかった…もっと早くに信じていればよかったかもしれない…”

「大切な人を亡くす悲しみは、その悲しみを拭われることすら拒否してしまうときもある。それは、大人ならみんな知っているの。だから、私に話してくれて良かった」

先生はそう言って、大きく一つため息を吐いた。

路子先生にそう言われたことでまた救われた私は、何度かカウンセリングを重ねて、少しずつ緊張や不安を解きほぐしていった。




カウンセリングで私は、だんだんと心を打ち明けるようになった。

ある水曜日、私はついに、「どうして何も言わないでいってしまったのか、怒る気持ちもあったんです」と、口にすることができた。

先生は私のその言葉を聴いて、「よっぽど大切な人だったのね」と言ってくれた。私はそのとき、咽び泣き、うつむいていた。

私が落ち着いてから、路子先生はこう言った。

「跡見さん。もしかしたらあなたは、その感情を、良くないものだから消したいと思っているかもしれない。ここまで話せなかったんだもの。でも、感じてしまったことに罪はないの。自分を責めないで」

私はそう言われながら、ブレザーの袖を顔中にこすりつけ、何度も頷いた。





それから私の体調は日に日に良くなって、ついにある日、クラスに戻った。

教室が一度ざわついたけど、みんなすぐに興味もなかったように、私から目を逸らす。それでも私は、“この中にもし、たかやす君がいてくれたなら”と考えていることで、精一杯だった。

私が席に就く前から視線を感じていたけど、椅子に座った途端、後ろから木野美子がせっつくように話しかけてきた。

「凛ちゃん、おはよう。もう出てきていいの?体調大丈夫?」

「お、おはよう。久しぶり…。なんとか大丈夫…心配かけて、ごめん…」

「本当にね。心配したよ。何かクラスであったら言ってね」

「えっ…ありがとう…」

私は、呆気に取られていた。自分がもう、木野美子の言葉を、“どうせ社交辞令だろう”とは思っていなかったことに。

何があったのかは聞かないまでも、「ずっと心配していたんだ」という美子の言葉を、私は信じられるようになっていた。





それは、私が普通に登校し始めて少ししたある日に、家に帰ってきた時だ。

私が帰宅してもお母さんが寝室から出てこなかったので、私は不思議に思って寝室の磨りガラスに近づいた。すると、その扉の向こうから、お母さんが誰かと電話をしているような声が聴こえてきた。

お母さんが電話の相手に喋りかける口調はどこか切羽詰まって、必死のように聴こえた。私はその様子で心配になったので、思わず立ち聞きしてしまった。

「ええ、ええ…お義母さん、あの人は今どうしていますか?お酒のことは…」

相手の言葉は、ずいぶんと長いようだった。そのあとお母さんは一度大きくため息を吐き、嬉しそうな声を上げる、

「ごめんなさい、私、あの人に何もしてあげられなかったのに、お義母さんにこんな電話をしまして…はい、はい、ありがとうございます…良かった…本当に…」

それはどうやら、父方のおばあちゃんとの電話だったみたいだ。


そしてお母さんが電話を切って寝室から出てきた時、私は立ち聞きしていたことがわかってしまったので、どうしたらいいかわからず、お母さんを見たまま、突っ立っていた。でも、お母さんはとても嬉しそうだった。

「おかえりなさい、凛」

「お母さん…電話してたの、おばあちゃん?お父さんの方の…」

お母さんはそれに嬉しそうに頷くと、「ええ、そうよ。これであなたにもやっと話せるわ」と、安心したように微笑んだ。

「紅茶を入れるわね。長い話になるから、少し多めにしましょう」

そう言ってお母さんは、久しぶりに気持ち良さそうに微笑んでいた。



最終話「歩いていく」



お母さんは紅茶のポットを傾けて中身をカップに注ぎながら、待ち切れない様子で話し始めた。

「凛、お父さんね、入院してたのよ、先月まで」

「えっ…どういうこと…?」

お母さんはもう不安がなく、心配が去ってほっとしているみたいだったけど、私は急に聞かされたことで、やっぱり不安になった。

「お酒がね、お父さん多かったでしょう。それで、私達と離れてそれがますますになって…おばあちゃんが心配して、病院に行くのを勧めたの。もちろん、私もお父さんを手伝いたかったけど…おばあちゃんは、「さんざん息子のことで苦労を掛けておきながらそんなことはできない、それに、自分でやるしかないから、時々様子を報せる」って言ってくれてね…」

知らなかった。私が知らない間に、そんなことになってたんだ。私はびっくりして、それから納得した。


そりゃあ、お父さんと元々はすごく仲が良かったお母さんだもの。そんなことを聞かされたら、心配だけでどうにかなっちゃうだろう。私に話さないで隠しているだけでも、心が潰れてしまうかもしれない。


お母さんはゆったりとカップから紅茶を飲むけど、私は先がわからないからそういうわけにもいかずに、ティーカップに掴まって身を乗り出していた。

「それでね、先月退院できたんだけど、家での様子が心配で…」

「そう、だね…」

私にできるのは、相槌を打つくらいだった。

「あなたにはもちろん言い出せないし、でも、失敗したらまた始めからになるから、あの人にその勇気があるかどうか、心配で心配で…」

「そうだったんだ…知らなかった、そんなことになってたなんて…」

「でも、おばあちゃんが言うには、退院して自宅での生活も問題なく出来るようになったって言ってたし、薬も効いていて、病院に通うことも嫌がってはいないようなの…それで、良かったと思って…」

そこまでを話すと、お母さんは本当にほっとしたように大きくため息を吐いて、ゆっくりとまたお茶を飲んだ。

「良かったね…お母さん…」

私もほっとした。

“良かった…、お父さん、お酒やめられたんだ…!”

嬉しかった。私も、時々お父さんのことは心配していたから。

“これでお母さんも、もう心配し続けなくて済むんだ…お父さんとお母さんがこれからどうするのかは、わからないけど…”

私達は二人とも「よかったね」と言い合って、お茶を飲み終わって雑談をしていた。

それからお母さんが、「お茶のおかわりがほしいわね」と言ったときだ。


その時、私は考えていた。

“もう、今なら話していいんじゃないかな”

それは、他ならぬ、たかやす君のこと。

今ならお母さんはショックな話を聞かされても大丈夫なような気がするし、それに、私だってずっとお母さんに話したかった。


だから私は、そのまましばらくお母さんと話しながら、タイミングを見計らっていた。




お母さんが二杯目の紅茶を注ごうとしたとき、私は注意深く息を吸う。


「ねえ、お母さん、内田たかやす君ていう子がいてね…」

何も考える気力が持てない話題だったからかもしれない。それほどに重い憂鬱が支配する問題だったからか、整理して話すなんて、できなかった。

だから私はそれをそのまま、テーブルの上に投げ出したのだ。

「前に、ライブに行ってたって言った日、チケットを私に分けてくれて、連れて行ってくれた人、なの…同じ学年で…その子とは、実は私が、クラスにいたくなくて、屋上に通ってた時に、会って…」

「屋上に…?」

そこで、今度はお母さんが心配そうに身を乗り出してきた。お母さんは両手に小さな紅茶のカップを持ったままだ。

「うん…なんかね、特に理由があったわけじゃないんだけど…ほら、思春期って変なこと考えるでしょ?」

「そう、かしらね…」

お母さんは、泣きそうな顔をしていた。多分、自分とお父さんが家でどんな様子だったかとか、思い出してたんだと思う。でも私は、あえてそれは口に出さなかった。今、お母さんは喜んでいるんだもの。

“そう。今、お母さんは喜んでる。そこに、こんな話をしていいのかな”

でも私には、下ろしかけた重荷を途中でまた背負い直すことは出来なかった。

「たかやす君はね、「君はちょっと息抜きが必要そうに見えた」って言って、私のことをわかってくれたように見えた。もちろん、それでお母さんにあんなに心配を掛けたのは悪かったけど…でもね…」

「でも?でも、どうしたのよ?凛…」

お母さんは、今にも泣きそうなのを堪えている私を見て、怯えてせっつく。

「死んじゃったの…たかやす君…自分から…」

私はやっぱり、またうつむいて泣いていた。いつもこう。彼の話をする時は。

そこで私は、“ああ、やんなっちゃうな”と思った。

“どうして泣いてなくちゃいけないの?どうして悲しみだけで埋め尽くさなくちゃいけないの?たかやす君との思い出まで…!”

そう思って顔を上げて、泣き顔のままで、お母さんを見た。お母さんも泣きそうな顔をしていた。

「ねえ…でもさ、お母さん…私、自分を助けてくれた人のことを話すのに、毎回悲しんで泣くなんていやだよ…!笑って…笑いながら、そんないい人がいるんだって、誇って話したいのに…!」

「凛…!」

お母さんは、ついに私が吐き出した気持ちに震え出し、慌てて私の椅子に近寄ってきて、私を抱きかかえた。

「ねえ、凛。そんなに急ぐことないじゃないの…だって、友達を亡くすって、とても悲しくて辛くて、お母さんだってそんな時には何も考えつかないわ…。でも、凛が悲しい気持ちがあるなら、お母さんだって聴くわ。だから、そんなに自分を痛めつけないで…。もう、見てられないわよ…」

私はそれを聴きながら、声を上げて泣き、お母さんに抱きついた。お母さんは私が落ち着くまで、何度も私の背中をさすってくれていた。





「美子、また同じクラスだったね」

「うん、凛ちゃん」

始業式前の教室では、二年になったばかりで浮かれた生徒たちが、整わない輪唱のようなおしゃべりをしている。


私と木野美子は、いつの間にか仲のいい友達になっていた。

美子は心配性で、笑顔がほにゃっと可愛らしい女の子だ。

前に、その美子が私を見ながら、クラスの女子と噂話をしているように見えた時があった。

でもあとから美子本人にそのことを聞いたけど、それは、私が昼休みにどこに行くのか心配になって、聞き込みをしていただけだったみたいだ。

私がそれを見た時は「ニヤニヤしながら噂話をしてる」としか思わなかったけど、よく思い出してみたら、あの時、美子だけは顔が笑っていなかった。


「今日さ、一緒に駅前のお菓子屋さん行かない?動物の形の飴細工が新発売だってよ?」

「美子、甘いもの好きだね。まあ付き合うけど」

「いいじゃない」

「いいよ、行こう」


私はその朝も、たかやす君のことを思い出して、ふと悲しくなった瞬間があった。でも、学校に来て美子と話をしていたら、少し落ち着いた気もする。


「それでさ凛ちゃん、その駅前のお店でね…」

「ちょっと、美子」

「え、何?」

私は挑戦的な微笑みを想像し、自分の顔でそれを作って机に肘をつく。すると、美子はおどおどとし始めた。だから私は、強ばっていた顔を和らげて、もう一度美子に笑う。

「ちゃん付け、もういいって」

美子はなぜか赤くなって、いろいろと言い訳しながらも、これからは「凛」と呼ぶことを了解してくれた。

私は、もしかしたらまた屋上に行くかもしれない。それか、行かないかもしれない。

でも、もし行く時には、あの頃の正体を持たない透明な気持ちは、消えてしまっていると思う。

そこには、あの時とは違う、淡く心地よい色があるような気がする。

わたしと美子が帰る通学路には、あれから一年が巡った春の桜が咲きこぼれて、その姿を誇っている。雲一つない晴天に白い花びらが飛ばされて舞い散る様子は、どこか切なく感じるほどで、その分とても綺麗だった。


私は分かっている。何一つ解決はされていないこと。また泣きもするだろうこと。


“胸に青い絆創膏”


ふっと私の頭にそんな言葉が思い浮かんだ。


“私が知ってるのは、歩くことだけ”

「凛ー!置いてくよー!」

遠くで美子が呼んでいる。私は行かないと。

「待って、今行く!」


End.

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