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地理の基本知識から、世界史を見る!―中国史編


世界史講師のいとうびんです。

今回は、地理の内容から世界史を見ていく、というちょっと変わったアプローチをしてみます。

……とはいえ、この地理での基本知識は、ちゃんと知っているか否かで世界史の理解にかなり差が出る、ということも言えます。まさに、侮るなかれ、です。

今回は中国史をテーマに、地理と関連させながら見ていくことにしましょう。


また、この記事ではいくつかのクエスチョンを設置しました。みなさまもぜひ、クエスチョンの答えを考えながら、記事を読み進めてみてください。


では、はじまりはじまり~



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実は中国史は、世界史選択者のなかでも苦手意識をもっている人が少なくはありません。

中国史が苦手な人の声としては、「制度がコロコロ変わる」「漢字が覚えづらい」「異民族もわんさかやってきてあかん」などなど挙げていけばキリがないのですが、

一番根本的なのは、そもそも中国の地理がわかっていないことなのです。

これは何も中国史だけに限りませんが、世界史の理解で地理感覚は絶対的に必要です!!

じゃあその地理感覚って何なのよ? ということで、ここから具体的な内容に入りましょう。

まずはこちらの問題から


問.中国の首都北京は、北緯何度に位置するか?








さて、いかがでしょうか?

正解は北緯40度です。意外と知らなかったという人も多いかもしれません。

ですが、ここで終わりではありません。


問.北緯40度に位置する日本の都道府県はどこか?


さあ、今度は日本です。いったいどの都道府県に合致するのやら……








正解は秋田県と岩手県です。とりわけ、秋田県の県庁所在地である秋田市は、北緯39度に位置し北京とほぼ同緯度といえます。


……さて、お分かりいただけましたでしょうか。

北京を中心とする一帯は、日本でいえば東北地方、それも北寄りに位置するということです。だからこそ、この辺り一帯の気候はかなり寒いのです。

北京と言えば郊外の周口店で北京原人の化石が発見されましたが、北京原人は火を使用した痕跡が見つかっています。彼らの居住環境を考えれば、火の使用も不思議ではないということですね。

この北京を中心とする一帯を「華北」と言います。中国は大きく3つの地域に区分することができ、それぞれ北から順に、華北、華中、華南と言います。

そう、華北、すなわち北京の一帯はかなり寒いのです。

したがって、作物の生産効率は必ずしも高くはありません。このため、主食となるのが小麦、粟、稗、コーリャンなどの雑穀類が中心となります。稲は寒すぎて育たないのです。



…続いてはこちらのクエスチョンを!

問.中国の都市南京は、北緯何度に位置するか?


今度は南京です。北京が北緯40度であったことをヒントに考えてみますと……






正解は北緯32度、ほぼ30度ということですね。

では今度はこちら、


問.北緯30度に位置する日本の都道府県はどこか?








さて、今回はどうでしょう。

正解は鹿児島県です。県庁所在地の鹿児島市は、北緯31度に位置し、ほぼ南京と同じ緯度といえます。

緯度は赤道を0度とし、北極点/南極点を北緯/南緯90度とするものです。したがって、緯度は0に近づく(=低緯度である)ほど、赤道に近い=熱帯性気候に近づく、といえます。


今回ももうお分かりですね。南京の一帯は、北京とは対照的にかなり温暖であるといえます。この南京を中心とする一帯は「華南」と呼ばれますが、南京はこの華南でも北に位置します。ということは、中国の華南一帯は、九州どころか沖縄と同じような、亜熱帯の気候が支配的であるということが想像できるかと思います。

そのため、華南一帯で主食となるのはです。そもそも稲は熱帯性の植物であり、稲の原産地もこの華南であったとされます。

また、温暖湿潤な気候から、生産効率は華北に比べると高いといえます。

中国地名


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一口に中国と言っても、その気候は日本以上にかなり地域差があるということがお分かりいただけたと思います。

核となるポイントは何よりも、

華北寒冷小麦雑穀が主食

華南温暖が主食

という2点に尽きます。


さて、ここからが本題の本題。中国の地理的な感覚が大まかでもいいのでつかめたのであれば、中国史の展開もおのずと理解しやすくなります。


華北と華南は、それぞれ大河が流れています。

華北には黄河、華南には長江です。

中国では華北と華南は距離的にかなり隔たりがあります(北京⇔南京間がおおむね秋田市⇔鹿児島市間の距離に当たりますので)。このため、古代文明は黄河と長江のそれぞれに発生することになります。


しかし、いち早く国家が築かれたのは華北。その理由は、華北は寒冷な上に豊かな土地がある程度限られているため、人口が集中しやすく、また黄河が暴れ川だったこともあり、治水や灌漑のため、村や町単位での共同作業が不可欠だったことにあります。

こうした農作業や土木工事の指揮から、村や町の指導者への集権化が進み、邑(ゆう)と呼ばれる都市国家が各地に発生します。さらにこの各地に散らばった邑が、次第に大規模で強力な邑によって統率されるようになります。いわば都市国家の連合体ですね。これが中国史における初期王朝の誕生です。(か:中国の考古学会では実在の王朝と見なされています)、といった初期王朝は、いずれも華北を中心に邑という都市国家の連合体からなります。

中国最初となる統一王朝、をはじめ、など華北を中心とする王朝が連続しますが、

の滅亡後に、中国最大の分断の時代がやってきます。魏晋南北朝時代です。この魏晋南北朝時代は、三国時代(220~280)、五胡十六国時代(304~439)、南北朝時代(439~589)の3つの時代に分かれ、実に350年にも及ぶ長い分断が続きます。

この魏晋南北朝時代の分断が長引いた理由のひとつが、華北に様々な異民族が侵入したことでした。これにより、華北の漢民族の一部は、戦乱を避けて華南へと避難します。華北に侵入した諸民族は、いずれも騎馬民族です。彼らの乗るという動物は、涼しい気候を好み、華南の温暖な気候ではかえって体力の消耗が早まります。実際、華北の王朝は何度か華南への南下を試みますが、その都度、南の暑い気候に阻まれ、攻略に失敗するパターンがほとんどです(その代表例が、三国志で有名な208年の赤壁の戦いです)。

モウコノウマ

この魏晋南北朝時代は、避難民の受け入れなどから華南の人口が増加した時代でもあります。そして、華南の王朝は、豊かなこの地域の開発に勤しむことになります。これを江南開発と呼びます。この300年にわたる江南開発の結果、華南は農業生産が格段に向上し、宋王朝(960~1279)までには中国の穀倉地帯としての地位を確立します。言い換えれば、華南は中国経済の中心となったのです。

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ここでさらに重要なのが、魏晋南北朝時代を終わらせ、中国再統一を果たした隋王朝(581~618)でした。その2代皇帝であった煬帝(「日出づるところの天子…」のくだりで有名ですね)は、この華北と華南を結合させる大運河の建造に着手します。この大運河の建造は、隋の国力を疲弊させ、ひいては王朝滅亡の原因にもなりますが、その労力を賭したこの大運河は、中国の物流の中心として、以降の王朝を支えるのです。

なんとなれば、唐以降の宋、元、明、清といった王朝は、いずれも大運河沿線の都市に首都をおいています。どの王朝も、物流を重視して首都の位置を設定したことは明らかです。

※唐の都であった長安は、8世紀には人口100万人を数えたという世界最大の都市のひとつでしたが、末期にはしばしば食糧難に悩まされていたようです。これは、華北の生産力の限界を示す好例と言えるでしょう。


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今回は中国史をとらえるうえで、地理を出発点にさらってみました。

まとめると、

寒冷な華北で人口が集中 ⇒都市国家 ⇒初期王朝 ⇒騎馬民族の侵入 ⇒温暖な華南で江南開発 ⇒華南が経済の中心 ⇒大運河で結合

という具合でした。

実は今回クエスチョンで用いた知識は、中学地理の内容にちょっと花を添えた程度のものばかりだったりします。

世界史の理解には、こうしたごくごく基礎的な地理の知識があるかないかだけでもだいぶ違います。

むしろ、世界史の出来事そのものよりも、こうした周辺知識のような要素の方が、初学者や学びなおしにはもってこいの視点と言えるかもしれません。


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というわけで、今回はここまで。

お読みいただきありがとうございました!

読んでいただいただけでも、充分嬉しいですよ!