ことばを探して手を伸ばす
わたしと俳句の出会いは小学校だった。
「修学旅行の思い出を俳句にしましょう」という授業で初めて「俳句」という世界にそっと触れることとなったのだ。
授業が佳境に入る。日光を舞台に、思い思いの拙くも自由でかわいらしい句が詠まれていく。
わたしの記念すべき初めての一句はというと。
眠り猫春の光で眠たそう
うん。わかる。ですよね。いやはや、小学生らしくてかわいいなあと思わずにっこり。
でも、この時に感じた『ことばを探して宙に手を伸ばす』感覚がとてもとても良かったのです。切望と静かな興奮が混ざったような、暗闇の中にひとつの星を見つけ出すような。とにかく今まで感じたことのない感覚に、わたしは静かに夢中になっていたのです。
子どもながらに、情景をただ見たままに言葉にすれば良いってもんじゃない気はしていた。情景の奥に静かに流れている「いのちの働き」のようなスケールの大きなものを詠めてなんぼ、じゃないのか?なんとなくだがそんな気がしていた。わたしの心に響く先人の句には、どれもその大きなものを感じられたから。
が、しかし。それは6年生のわたしの語彙力ではなかなかに難しい試みでありすぎてしまった。
その後の俳句との関係は、国語の授業でもっぱら目と耳で楽しむだけのライトな付き合いとなっていくことになるのでありました。
ランドセルを揺らして走った女の子は、その後なんだかんだとありながらお母さんとなり。
そしてまた。生きているこの不思議を、うたいたくなってしまったのです。
よし、うたおう!
楽しい一歩のお祝いに。わたしからわたしへ俳号などもプレゼントしてみよう。
冬至生まれのわたしは、そこから名前をいただくことにします。
乃東生(なつかれくさしょうず)から東を取って。
『生乃 (いくの)』
これからどうぞよろしくお願いいたします。
風がやわらかい。
入り日が世界をピンクに染めている。どうやら春が来ているらしいのです。
うす紅の刻の来たかと夕桜
いつかの成人式に詠んだ句。時代と大きな転換点を思っていた。
発つ朝に向かひ啼きやる鵠かな
鵠(くぐい)とは白鳥のことです。
だ、騙した訳ではないのです。
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