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極東のトルコ帽始末(1)洋画家

(この文章は、調べたことを記した備忘録です。新たにわかったことがありましたら、追記していきます)

 芹沢光治良(1896~1993)の自伝的小説『人間の運命』を読んでいたら、こんなくだりがあった。
 1921(大正10)年の東京帝国大学。主人公の森次郎は、三年生である。

 二十四番教室の方へ行くと、植民政策の講義がおわって、同級生がどやどや出てきた。和服に赤のトルコ帽をかぶった清木に呼びとめられた。

 当時の東大には植民政策の授業があったのか…ということはさておき、この「和服に赤のトルコ帽」というのが結構な衝撃であった。恥ずかしながら、戦前の日本人でトルコ帽をかぶっていた人がいたとは、全然知らなかったからだ。

 日本の男性は明治以来、帽子に親しみ、大正時代にはほとんどの人が外出時に帽子をかぶるようになっていた。しかし、当時の人がかぶっていたのは主にカンカン帽、ハンチング、中折帽、山高帽などであり、学生だったら制帽が普通だろう。いったいどういう人たちが、わざわざトルコ帽を選んだのだろうか。

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 ちょっと調べてみた。
 まず検索にひっかかったのは画家の黒田清輝(1866~1924)。トルコ帽をかぶった自画像がある。和服ではない。1889(明治22)年、つまり20代前半、フランス留学中の作品だ。フランスでトルコ帽の洗礼を受けたのだろうか。いったいどうやって入手したのか、謎である。
 
 その黒田に師事したのが画家の和田三造(1883~1967)だ。
 和田に関しては、1924(大正13)年8月29日付『東京朝日新聞』に、「長髪人の由来」という記事がある。「洋画家はなぜ長髪なのかという疑問を解き明かす」という内容なのだが、和田が東京美術学校の学生時代に髪を伸ばしていたら、それが学生の間で流行した、とある。そして記事は、この和田が相当な奇人であり、

 ともかく明治三十三、四年頃の美校学生の気風は寧ろ殺伐で且つ普通人と変わった所を好んだ、和田氏は髪の外にも、トルコ帽とセル袴の元祖である序だが、

と、彼こそが「トルコ帽+袴」姿の元祖だった、と述べるのである。
 ちょうど同じ頃、東京美術学校で学んでいた南薫造(1883~1950)も、「赤いトルコ帽の少年」(1904(明治37)年)という作品を描いており、洋画科の学生界隈ではトルコ帽はよく目にするものだったのかもしれない。

 ちなみに、1911(明治44)年からヨーロッパに渡った与謝野寛(1873~1935)の旅行記『巴里より』には、この和田三造が登場する。そしてそのほかに、やはり画家の満谷国四郎(1874~1936)が出てくるのだが、この満谷もトルコ帽をかぶっている一人であった。与謝野は、パリで満谷のアトリエを訪問したら、寝起きの満谷が小豆色の寝間着に黒いトルコ帽をかぶっていた、と記している。(関係ない話だが、和田は満谷を「自分の父だ」と言っていたらしい。与謝野もトルコ帽姿の満谷を見て、自分の父だと言ってみたくなった、とのことだ)

 ということで、まずは明治後期から大正初期の洋画家で、トルコ帽をかぶっていた人たちを三人、見つけることができた。

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 大正時代の半ばになっても、一部の洋画家はトルコ帽をかぶっていたようだ。
 
 名古屋出身の画家、鈴木不知(1870~1930)の「自画像」(1917(大正6)年)は、赤い帽子姿であるが、なんとなく素材が柔らかそうで、もしかしたらトルコ帽ではないかも?と思えるものだ。
 しかし、明らかにトルコ帽と断定できるものもある。夭折の画家、和達知男(1900~1925)の「眼鏡をかけた自画像」(1923(大正12)年)だ。和達は先述の芹沢光治良とほぼ同時期に東京帝国大学に入学したが、1921年から1924年までベルリンに留学していた。ヨーロッパで日本人画家がトルコ帽をかぶる、というのは意外に息の長いトレンドだったのだろうか。

 と、こんなことをTwitterでだらだらとつぶやいていたら、一人の方から情報をいただいた(ありがとうございます)。宮沢賢治の「かしわばやしの夜」(1924(大正13)年)に出てくる「画かき」がトルコ帽をかぶっているという。

(主人公の清作が)びつくりして振りむいてみますと、赤いトルコ帽をかぶり、鼠いろのへんなだぶだぶの着ものを着て、靴をはいた無暗にせいの高い眼のするどい画かきが、ぷんぷん怒つて立つてゐました。

 この「画かき」は当然洋画家だろうが、作中では一風変わった人物として描かれている。主人公の農夫、清作に対してはかなり居丈高な態度をとる一方で、彼は「柏の木大王」の客であり、柏の木たちの歌に対してメダルを授与するのだ。梟たちもやってきて、歌と踊りの一夜となるが、朝霧が出るやいなや、「赤いしゃっぽ」だけを放り出して、どこかへ消えてしまう。

 彼が心のうちに抱えているものに関しては、最後まで明かされないままだ。

 こんなような、赤いトルコ帽をかぶった孤独で奇矯な洋画家を、宮沢賢治はどこかで実際に見たのだろうか。

 さて、明治・大正時代の洋画家のトルコ帽を追いかけてきたが、ここでようやく写真を見つけることができた。宮崎県出身の画家、塩月桃甫(1886~1954)である。東京美術学校を卒業した後、1921(大正10)年に台湾に渡り、西洋美術を広め、台湾美術界の発展に寄与した。ロイド眼鏡にトルコ帽スタイル、きっと周囲の人々に強烈なインパクトを与えただろうな…。(続く


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