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「ホテル・クロニクル」

『EUREKA』 で世界的な評価を得た青山真治。無名時代から親交の深い宮岡秀行との会話を通じて、その信念と映画への愛を語る。
京都在住の映画作家・野上亨介との共同制作。
監督 Director…野上亨介 Kyousuke Nogami
出演 Cast...青山真治 Shinji Aoyama & 宮岡秀行 Hideyuki Miyaoka
1995年、 宮岡秀行への手紙 (公開書簡)
by 青山真治
またでかけたのかね。 今日はどこにいる? いづれにせよ、宮岡、君はいつでも外出しているに決まっている。そもそも我々は、ずいぶん以前に互いの外出先で出会い、それからしばらく離れ、そしてまた外出先で出会ったのだ。離れ離れの間、互いに何か作り、それを見せあう機会にも恵まれなかったが、君という光はいつでも私という影と隣りあっていた。
宮岡。君はその間、ローマ、ロール、マドリード、ベルリン、リヨン、ニューヨーク、リスボン、そしてヒロシマにいたが、外出者の君にとってそれらに差異などないのだろう。私はその間、差異だらけの東京で時を微分していたけれど。
だから君は越境者じゃないよね。君は何というか、そう、侵蝕者なんだよね。 当然君はあのおそろしく政治的なカーペンターの傑作『光る眼』(1995)は、見ていると思う。あそこであの白線の向こうを束の間支配したのはまぎれもない光だったが、その光は誰にも気づかれない、要するに我々が不断に浴び続ける光と何ら差異の無い光だった。
識別不能な、しかし明らかに<異物>としてある光。そのような光の侵蝕を受けて、村は壊滅への道を歩み始めた。それが「光る眼」だ。 私はそれを見てすぐに、君を想起した。 越境なんていう十九世紀的なアクションじゃないよね。それは明らかに人間的な嗅いがする。典型的な廿世紀ボーイの君には 、もっと、近未来SFの、反地上的なアクロバ ットこそふさわしい。一光の侵蝕とは、それだ。
そして、宮岡、君こそ世界に遍在=偏在して、何の不思議もなく、人々にあの奇蹟を喚起する<異物>だ。 だから、君は孤独なんかじゃないのだ。 無論、連帯も必要ない。 そんな暇、君にはない。 どんどん世界を侵蝕してくれ! <異物>として!
私は相変わらずここにいて負の戦線を、負けいくさを不断に更新するから、君は君の前線で駆け抜けてくれ。そしてモールス信号がいづれ鳴り響くだろう。君の万年咳として。

“HOTEL CHRONICLES” 補遺
by 野上享介
“HOTEL CHRONICLES” において青山真治のインタビューが行われた東京ステーシ ョンホテルには辰野金吾(1854~1918)という固有名の痕跡がある。しかし「東京ステーションホテルは・・・が作った」又は「AはBがつくった」という(一見普遍的な)自動律こそが、建築の外部に潜むコンテクストを逆説的に要請することも事実である。
東京停車場 (現東京駅/東京ステーションホテル)は1914年に辰野金吾によって建てら れた。その洋風建築物(西洋に見劣りしないモノ/西洋人にバカにされないためのモノ)の建造が明治政府の国家政策に関わる極めて政治的な出来事であることを示すには、そのホテルに対面する皇居をこっそりと眺めれば事足りるだろう。国家的造営(?)皇居への玄関(?)つまりはこの国の(?)建築はその外観・内観をあくまでも無防備に呈することによってのみ、個々の建築に向けられた無名無数の散漫な視線(ベンヤミン)を切断する契機を与えられる。
なぜなら表象がそれ固有の認識として切断されうるためには、当のその表象が必要なのだから。しかし “HOTEL CHRONICLES” におけるインタビュー映像が凝りに凝ったモノクロ加工を施され「今ではない何時か」をそれ自体として見る者に要求している。露出時間の異常に長く、モデルに過度の集中力を要求する初期写真のような、こう言ってよければアッジェ風のモーション・ピクチュアとして入念に加工された東京ステーションホテルにおける青山真治のインタ ビュー映像・・・それを見ることは、“HOTEL CHRONICLES” に予め滑り込ませてある「ホテル建設という近代化の事態」及び 「皇居前にホテルを建設する事態」というアレ ゴリーを<免れ得ぬ歴史>として、ひきうけることと同義である。
「資本主義はまず物語を要請するのであって・・・」(青山発言) <作者=建築>とは作者にとってはリニアかつイノセントな関係(これこれは私が作ったのだ)を保持してはいるものの、<構造=建築>とはやはり作者の固有性に還元されるのではなく逆に、むしろ作者の固有という(それが内面の政治であれ、外圧の政治であれ)フィクションを暴く契機となるだろう。この意味で建築はおろか、国家と呼ばれるものにおいても、固有の自律性は空間的 (構造的)に形成されるしかない。
例えば「外圧(現実)とその内面化 (想像)こそが日本の日本製/性 (象徴)建築の成り立ち (和様化)として何度も反復され、強化される」 と指摘する建築家・磯崎新を、強引に次のように言うオスカー ・ワイルドとオーヴァーラップさせてみよう。

「きみは日本のものが好きだね。ところで芸術に表現されているような、あのような日本人が存在するなどと本当に考えているの? もし考えているならきみは日本の芸術などこれっぽっちもわかっていないんだ。日本人とはある個性的な芸術家の慎重な産物なのだ。もし北斎とか北渓とか、日本の大画家の誰かの絵を現実の日本の紳士淑女のそばに置いてみれば、両者のあいだにいささかの類似もないのが分かるだろう。日本に住んでいる現実の人間は十人並みのイギリス人と似ていなくはない。つまり極めて凡庸で、奇妙なあるいは異常なところなどなにひとつない。 実際、日本全体が純粋な発明品なのだ」

「嘘の衰退」より「オスカー・ワイルド全集4」 (西村孝次 訳)

これは1889年にダブリン生まれのオスカー・ワイルド(1854~1900)が雑誌「19世紀」に発表したテクストであるが、それに先立つ1867年に日本は 「日本国」の存在を「国際舞台」において知らしめるため、パリ万国博覧会に正式参加したのだった。
周知のように日本は日本の固有性を外的環境(欧米)に晒すことによってのみ、その枠組みを獲得しえたのだ。(国家化!)これはその後のテキストである。 そして「純粋な発明品」とは<天皇制>そのものを指しているというよりも、<天皇制/日本>を非難していると言うよりも、黄昏しヨーロッパ (主にフランス)が盲目無知になって喜んでいる「ジャポニズム」を嘲笑しているだけの比喩なのだと思われて仕方ない。
「フィクションが現実に侵食されることを、よしとしないところがある・・・」(青山発言) フィクション(fiction)・・・動詞として定義する<相手をうまくやりこめること>になる。他国をうまくやりこめることが自国のアイデンティティーを強固にできるという前提にもならない前提(それこそ盲目的玉砕的前提というものだ)。フィクテイフな政治学の有効性とその失敗、その失敗の繰り返しとしての歴史(?)善し悪しは別として、現実的に作動し、機能しているメカニズムを内在させたパワーポリティックスをもって<相手をやりこめるには > 自己を自己たらしめるために他者を普遍的、絶対的な対象ととらえること、そのために鏡像関係をとりもつ<クニ>という観念の普遍化に勤めること、モダン/ポストモダンな状況に関わらずとも、現実的なレベルに おいて作用する現実的かつアクチュアルな虚構をすみやかにでっちあげることだ。そして、その虚構を外部に受け入れさせ、かつ同時にその虚構を作動させた主体をも、虚構の内部にすみやかに滞留させることが、日本の日本性として自明とされる構造をでっちあげるのに効を奏し、フィクションとはその自明性を内面化させるテクニックとして重宝されてきたことのいわれなのではなかろうか?
しかし「存在が意識を決定する」(マルクス)をもじって言えば、「島国が島国人の意識を決定する」ことも明晰にかつ自覚的に意識し出した島国人が他でもない島という物質によってつくられることを知った時、二重に捩じれた島国意識が個々の内面を覆っている局面をこそ、リアルな問題として受け止めねばならないのだろうか?
それとも、かつてのオスカー・ワイルドが言ったように「純粋な発明品」としての日本を弄び、「ニンテンドー」や「ソニー」と戯れていればよいのだろうか?

「それは非合理という問題ではなくて、切断の恐さみたいなものですよね。たとえば現実的に彼が日本の橋を見るのは、京都へいく時に鉄橋を渡る汽車のなかから見ていたわけよ。ところがその自分が渡っ た鉄橋のほうは彼は還元しちゃう。それによって可能になる原型の持続であって、彼は鉄橋のほうも一応認めはするんですが、しかし私はこの哀れっぽい橋だと言いつのるわけですから、そこに虚構が出てくる。そしてそのフィクションを彼は、あの発展のない反復で訴えかけて、話者の私をもその言説のなかに押し流してしまう」

一蓮實重彦の保田與重郎に関する発言「近代日本の批評・昭和篇(上)」(柄谷行人・編)


切断の恐さ、そしてその快楽。 “HOTEL CHRONICLES” において、<天皇制>という主題(?)を圧縮映像の羅列でもって<express>しようとすることにはやはり困難な<反切断への意志>が必要となる (保田與重郎が試みた巨大な歴史の持続における<「日本」一認識>を踏襲するように?) 圧縮形式が再び無限に引き延ばされることを密やかに前提するのではなく、「歴史の過剰」へ向かう意志をその断片的なメルクマールによって指揮しはじめるバロック的な意志。極めて音楽的に意志し、明確な調律をもって意志することの持続。それは<反切断への意志>の恐さであっても<切断の恐さ>ではなく、 個々の映像を<反切断の契機 >において捉えることに逆説的に接続されるだろう。
例えば<京都御所の監視カメラを今ここで撮影している私>のシニフィアンを踏査するには 「監視カメラに監視される私を監視するカメラを撮影(記録)する私を監視するカメラを撮影する監視カメラ ・・・ 」という無限にその円環に封じ込められた次元を瞬時に要求する (それもまた主体のイマジネールな産物なのだろうか?)だから一方で、なんでもないと言えばなんでもないだろう、と断言することも必要なのである。
(「監視カメラに監視されている」という内面化(文法の出現と事物の明証性の同時成立させる<いま、ここ>のアリバイによって、監視カメラは知覚主体を監視しはじめるにすぎない)それでは、なぜ私は京都御所の旋回する監視カメラを<あんなにウキウキと>撮影したのだろうか? それは、<監視カメラーたんなるメディウムとしての>晩期(?)資本主義における極めてアクチュアルな認識過程において、つまり「見られるモノは見られるモノは見られるモノは・・・」という解答なしかつ底なしの反文法的認識過程において、まさしく「メディウムはメディウムに過ぎない」という<あまりにもあからさまな、それによって、かつあまりにも人をがっかりさせる認識>でしかないことを表象したかったからであろう。
そして、その表象をもって<あまりにも人をがっかりさせるフィクション=天皇制>に迫ってみる契機を視聴者の皆さんに与えることができたのなら、この制作は私にとって確かに有益だったに違いない。
2002年4月23日 京都
のがみ・きょうすけ/映画作家/1969年京都生まれ。京都での上映活動、音楽活動をする傍ら映像の理論面を独学で学ぶ。「sagi times」にレギュラーで執筆。 作品に『B級ソロ』 (1994)、『ホワイトライト・ホワイトヒート』 (1999) ほか。

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