見出し画像

2005 IFFR『母モニカ―for a film unfinished』

『母モニカ―for a film unfinished』
2005 IFFR official ロッテルダム国際映画祭 公式出品作品(オランダ/2005) 制作 三好暁+宮岡秀行
監督 三好暁 宮岡秀行 Director Aki Miyoshi& Hideyuki Miyaoka
出演 三好暁・中根以久美・高岡敬子 Cast Aki Miyoshi , Ikumi Nakane, Keiko Takaoka
安定した強い制作基盤を持たないインディペンデントの映像作家は、どのように創作に立ち向かっていけば良いのか? 『シアワセの記号』によって、ぴあフィルムフェスティバルでW受賞した大阪生まれの三好暁、その後の 彼女の生と創造の過程を、変貌を遂げていく若い母性の姿を通じてとらえる。

「メビウスの帯のように」 by 三好暁
“Girlquake” を撮るにあたって、私はまさに揺れの中にいた。宮岡さんは私を、「きわどいところにいる」 と言っていたけれど、その揺れの一方には、尊敬する母親を困らせたり、悲しませたりせずに、私の意志を隠して上手くやっていく、平和な三好家の日常。そして、仲良くしている男の子たちとの楽しい関係、誰も私を苦しめず、私も誰も傷つけない日常。 もう一方には、その平和な日常の中で、何か満足しないでいる私自身の渇望。自分の望む何かに向かって動きたい、創りたい、創らなきゃいけない、というところで苦痛 を強いられる宮岡さんとの制作。そこには、作品を完成できずにいる私がいた。自分の弱さと、宮岡さんの出すプロットへの「異和」から、私はこの制作から逃げた。 一人で子供を産むという決心は、プロットへの「異和」、その最後の抵抗であったように思う。プロットのように作れなくても、子供を産むことは出来る。 日常に引きこもって逃げてしまうのではなく、それらを断ち切って、一人で命を生 み出すことは出来るという意志表示。けれども実際、子供は欲しくない。母親になることはないと考えていた私が産もうと思えたのは、他でもない、その作品を撮ろうともがいていた時間、カメラを廻していた時間があったためだ。思えば、それもプロッ トに示されていたこと ・・・ 。 そして今、完成されなかった作品と、宮岡さんとの制作に、もう一度向き合わせてくれたのは、その作品によって産まれた新しい命だった。
メビウスの帯のように、よじれ、つながっている映画と自分と子供と時間。 ああ、これが私なんだ。こうでしか作れないんだ。こうしてでも創って行きたいんだ。 結局は、創ることを選んでいる自分がいる。かたわらには、護符のように作る私を創ってくれた子供がいる。
全ては一人ではありえなかったこと・・・。もう、逃げたりすることはないだろうと、今は思う。
2001年12月02日 大阪

三好暁(みよし・あき) 映像作家。1976年大阪生まれ。97年、京都造形大学で制作された『ハタチのユウウツ』がBBCCヴィデオ&ネットワークフェスタで佳作を受賞。99年ぴあフィルム・フェス ティバルで 『シアワセの記号』が入選、審査員特別賞とブリリアント賞をW受賞。2000年3月に福岡市総合図書館とスタジオ・マラパルテの共催で行われた 「A.D.2000/映画零年〜作家との対話」にゲストとして参加『恋愛物語』を制作。宮岡がマドリードで制作したビクトル・エリセのインタビュー作品にも協力している。

魂の充足と子の孤独 by 徳富すみれ
(親になった者にとって)子供というのは自分(親自身)の存在を最も端的に表すものである。親である自分の存在意義を、具体的な、誰の目にも明らかな形で表し、ある意味ゆるぎないものにする。そして親として自分の立っている位置がいったん安全なものになり、月日が経つと、人はかつて自分の存在に疑問を抱き、その危うさに悩まされ、孤独に消え入りそうだった日のことをすっかり忘れてしまうようだ。
そうなる前の、つまりまだ親になっていない、一人の母を見た。私はそこに懐かしく痛みを伴う鼓動と不安な空気を感じた。これでいいんだ、これでよかったんだと自分に言い聞かせながらも、まだその答えを事実として得ていない不安。自分では、自分は正しいことをして いると確信しているつもりでも、まだ誰からもそれを認められていないという、居場所のなさ。「この子を絶対に幸せにする」ことを宣言する母。しかしそんな不安や意気込みとは無関係に、新しい命の輝きを放っている嬰児。そしてその嬰児と母のどこかぎこちない関係。
人の本質は日常には現れない、日常に傷をつけなければ本質は撮れない、と彼女は語る。人が本質を表すのは、たとえば安全や信じていたものを失う危機に立ったときだ。彼女の周囲の人々は日常を当たり前のもののように生き、彼女はそこに自分が内面で感じている真実の入る隙はないと感じていたのかもしれない。そして彼らは表面に現れた自分しか見ていないと。そんなできあがった空間の中で彼女は「自分自身の」真実を引き出すことはできないと思っていたのだろう。
では周りに波風を起こし真実を問いただすために、自分の現在の創造のためだけに、彼女は子供を生むことにしたのか? なぜ結果としてそのようになったのか、それについて、表面に現れるさまざまな事情やきっかけらしきものをいくら分析しても、答えは出ないだろう。なにか具体的な理由があってそう なるのではないから。あえていえば、「生きるため」。別の言い方をすれば、「先に進んでいくため」だと思う。
ここに存在する子供は、プロットに沿った創造の目的でもなければ助けでもない (結果的にはその役割も果たすけれども)。
自分の中だけでたったひとりで自分を見つめても、本当の自分は見えてこないし、またその作業だけでは、創造という、内面を外へ出す行為の手がかりも外界との接点も生まれてこない。創造は孤独だけれど、まったくの孤独では人間の創造性は失われる。自分にとっての真実を(または自分の中にあるものの一部)自分の外に、他人の中に共有すること。おそらく彼女のそれまでの日常では、少なくとも彼女を取り囲む人々とは、望みようがなかったこのことが、必要だったのかもしれない。彼女が仕組まれたプロットに成長を促されたことは確かかもしれないが、プロットにぶつかる前からこの必要性はあった、またはいずれやってくることだったのだと思う。そして子供というかたちで現れたのではないだろうか。彼女の膝に抱かれた子供 は、彼女にとって初めてのリアルな、手に触れることができるつながりであり、体に伝わる鼓動である。 分身一親にとって一生、自分の中に生きる、または自分がそれを通して生きる分身が子供である(子供にとって親の分身は、自分の中には少なくとも「意識する」自我の中には存在しないが)。
彼女が自分の人生において、あのようなタイミングであのようなかたちで子供を持ったことは、たしかに彼女の生き方から見れば、正しいことをしたのだと思う。しかしそれはあくまで彼女個人(親になると、人は半分、 個人ではいられなくなる)の人生から見たときのことであって、はたして子供の立場からも同じことが言えるかこの問いにはさまざまな人の思いが入り乱れる。しかし私は人の存在に、つまり誕生に「間違っている」ということは決してないと信じている。どのようないきさつや思惑からであろうと、その子がこの世に生まれた瞬間から、それらのことはすべてその子の「生」の前では無意味なことになり、子供はその存在についてすべての権利を持つ。だから、ここでは子供の生い立ちについて、結婚や家族などの道徳的、社会的な観点から語るつもりはない。
しかしひとつだけ言うとすれば、私はこの母親の視点からは共感する一方で、どこかに不安を感じずにはいられない。説明できない一抹の寂しさを感じる。それはやはり、どんなに正当な理由があろうとも、母親子一人の光景は(それだけでは)孤独だからである。それがたとえ、(この場合ではないが)父親がいないほうが、子供が幸せになれる場合であっても。もちろん、完全な家族構成が健全な子供を作るのではないし、不完全が致命傷でもない。足りない部分を補う多くの人がいれば、子供は十分に健全に育つと思う。しかし、子供の立場から言えば、父親を持つ権利を最初から拒否されるというのは、やはり不幸である(子供がそれを実際に意識するかどうかは別として)。
「認知していらん」
その気持ちは痛いほど理解できる。しかし決して子供の前で言ってはならないことだ。それはその子のアイデンティティーを半分切り捨てることになるからだ。子供のアイデンティティーの出発点は、まず自分の親を認識することなのだから。
「まさに、 父親のいない子やなぁー」 「どっちにしろ、いい話やない」
彼女の父親が言いたかったのはそういうことだったのではないだろうか。子供の育つ社会から父親の姿が消えていくことは、やはり不幸であると (そしてそれは一人の子供にとどまらないと)。しかしながら、この会話にも彼女と彼女の父親の、それぞれの偽らない真実があり、この作品はそれらの真実を残酷なほど鮮明に映し出す。
もうひとつの親子の会話で、彼女と向き合った母が言う。
「去れへん人かているやろ、親は去れへんわ」
この場面の彼女は、母となった彼女ではなく、まさに「子」である。親は孤独を永遠に失ったかわりに、「親」という永遠の束縛を得た。そして一方で子は孤独である。親は選択の余地がなく縛られている。しかしそれは言い換えれば、人間社会に生きる人間として、また生物として、生きるうえで拠りどころとなる最大の安心でもある。しかし子どもにはそれがない。手ごたえを感じようにも、感じることができない大きな 「生」の不安の中にある。
しかし始まりはいつもこうである。それは自分が用意するものではなく、ある日突然やってくるものである。子供の誕生は一見、この物語の結果であるようでも、やはり私には子供が必然として「やって来た」としか思えない。自分のコントロールをはるかに超えた力によって、前触れもなくこの世に生まれてくるのだと。それでも(少なくとも最初は)人は(そして彼女も)、自分の行動を分析し、一生懸命理由づけしようとする。子供の誕生を理解しようとする。彼女のそんな姿は新鮮であり痛々しくもある。この作品を撮った時点では、彼女は自分と子供を、自分の世界の中だけでしか捉えていない。そこにはまだ子供の世界は存在しない。しかし子供はそのように自分に与えられたさまざまな理由の枠を簡単に飛び越えてしまうだろう。まさに始まりである。
しばしば人は、その成長過程において、まだ子供である自分から大人になろうとするときに(思春期を過ぎた後も、まだ成長しきれずにいる魂のことである)、自分の外にある何か大きな力に頼ろうとする。しかし誰にも頼りたくはないから、自分一人でできる(ように思える)ことを選び、それが子供の場合もある。しかし子供を持ってすぐに親に(大人に)なるわけではなくて、それには時間がかかる。そしてあるとき、自分の子供を見つめて、小さな寂しさとともに自分が本当にもう子供ではなくなった (親になった) と感じるときが来る。そのときになって初めて、彼女は自分の母親のことがわかり、そしておそらく、母親をちっとも完璧だとは 思わなくなるだろうと思う。
この作品が、親と子が始まりに立つときの、その一瞬を捉えた、貴重なものであることには間違いない。そして偽りの無い、サナギから生まれたばかりの蝶の、まだ不完全で伸びきっていない、触ってはならない、触っては壊れてしまう羽のような瞬間である。
2001年12月21日 廿日市市
とくとみ・すみれ/英語翻訳・通訳/スタジオ・マラパルテ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?