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【短編小説】あの夏

 下駄の鼻緒が指のつけ根に食い込んで痛い。赤地に花柄の鼻緒は可愛いけれど足の指に容赦なく圧をかけてくる。やわらかな指の股がすれて水膨れができそうだ。

 瑠理は顔をしかめた。が、恋人の千景と目があうとあわてて笑顔を作るのだ。彼と瑠璃は共に高校二年生、最近付き合い始めたばかりである。

 –– 夏祭りに行こうよ ––

 恋人の誘いにふたつ返事で乗ったものの、張り切って選んだ浴衣が窮屈で瑠璃は後悔していた。

 –– もっと楽な服を選べばよかった。 –– 

 そんな風に思っていたが、
「いいね。浴衣似合うよ」
と、千景がひとこと口にしただけで瑠理の気持ちは簡単に舞い上がってしまう。白地に花びら舞い踊り金魚も泳ぐ賑やかな浴衣は、自分で簡単に着ることができる帯がセットの激安品だ。それでも高校生の瑠璃にとっては大枚はたいて用意した、とっておきの一着である。褒められれば嬉しい。好きな相手からの褒め言葉なら、なおのこと嬉しい。浴衣を選んで正解だった、頑張った甲斐があった、と、嬉しくなってしまう。笑顔になった瑠璃は、
「ありがとう」
と、返した。振り向きざまに千景の涼しげな目と目が合った。瑠理よりも二十センチ近く上にある目、一重ながらも存在感のある千景の目が瑠理を見下ろしていた。胸がトクンと騒ぐ。そんな自分が恥ずかしくて瑠理は目を伏せた。

 この時期は日が落ちた後も暑さが和らぐことはない。それでも人々は誘蛾灯に集まる虫の如く、どこからともなくワラワラと集まってくる。駅前は人いきれも手伝って暑かった。もちろん瑠理が熱くて堪らない理由は、それだけではない。隣に並んで歩く千景の存在のせいだ。彼が隣にいるだけで瑠理の心は熱くなった。制服姿を見慣れているせいか、淡い色の半袖シャツに薄手のジーンズというシンプルな装いですら新鮮に感じる。常にも増して千景の存在は瑠璃をときめかせた。

 自然に緩んでしまう口元をうちわで隠しつつ、瑠理は居並ぶ屋台の方へ目をやった。駅前から花火会場まで途切れ途切れになりながら並ぶ屋台は、祭りの盛り上げ役だ。裸電球で軒先を飾った屋台は、あの手この手で誘惑してくる。イカやトウモロコシが焼ける匂いに砂糖が綿菓子に化けていく過程が放つ甘い匂い。小気味よくひっくり返っていくタコ焼きに、音を立てて美味しそうな匂いを放つ焼きそば。ひょっとこやキツネと並ぶ、名も知らぬヒーロー達の安作りのお面たち。屋台のお兄さんたちが上げる威勢のいい声と賑やかな祭りばやし。それに負けず劣らずの話し声を上げながら家族連れや友人同士のグループ、そして恋人たちが楽しそうに行き交っていく。そんな中に、瑠理と千景も紛れ込んでいた。

 –– この楽しい時間が続けばいいのに ––

 千景の横顔を見ながら瑠理は思う。千景の整った顔は横から見ても美しい。細面の顔はどちらかといえば色白で、後ろに流した少し長めの髪が一層黒く見える。

 高校二年生は、まだ子供であり、もう大人のとば口にいる。できれば瑠理は子供のままでいたかった。子供であれば無邪気な恋心だけを抱えて、隣にいる人に寄り添っていられる。そんな時間が少しでも長くありますように、と、願った。しかし望んだところで、それを許してくれるほど時間はお人好しではない。

 人は皆、大人になる。

 進路が定まってくるにつれ、女であることが両手広げて道を塞ぎ始めるのを瑠理は感じていた。頭では理解できる。しかし心が追いついていくかどうかは別問題だ。それに、瑠理だって、女だって、生きていかねばならない。

 警備員に誘導されながら花火会場に向っていた二人の足元は、いつの間にかアスファルトから砂利敷きに変わっていた。

「三者面談なんて面倒だよね。進学するのなんて決まってるのに」
 千景がこともなげに言う。
「そうね」
 瑠理は無難な相槌を打った。

 瑠理も進学するつもりだ。しかし希望する学部は地元にない。どこに住むのかを考えなければならないし、学費のほかに生活費も必要だ。悩ましいことは山積みなのに合格できるかどうかも分からない。担任は瑠理の成績であれば男子なら余裕で合格できると言い、そして、女子では厳しい、と、続けた。

 瑠理は嫌な記憶を振り払うかのように軽く頭を振ると、笑顔を作って愛しい恋人を見上げた。

「千景君はどこの大学がいいの?」
「ボクは地元の大学へ進学するよ」

 千景は当然のことのように答え、さらに、さも当然のことのように言う。

「瑠璃も、そうするでしょ?」

 ドーンと大きな音を立てて花火が上がった。瑠璃色の空を背景に広がる鮮やかな光に、周囲の人々から歓声が上がる。

「女子大もあるし」

 再びドーンと体を揺さぶるような音が響いた。次から次へと花開くカラフルなきらめきは瑠璃色の空と相まって美しい。人々はうっとりしながら歓声を上げた。

「短大って手もあるよね。女の子だから」

 下駄の鼻緒が食い込んで痛い。
 柔らかな部分に食い込み擦れて、痛い。

「あっ」
 瑠理は小石に躓いてよろけると、その勢いのまましゃがみ込む。

 下駄の鼻緒が食い込んで痛かった。
 柔らかな部分に食い込み擦れて、痛かった。

「大丈夫?」
 うずくまった瑠理に驚きながら、千景は手を差し出す。

 彼は優しい。それに目前に差し出された手は色白で繊細でいて力強い。彼をあらわすような手が目の前にある。

 なのに、その手をとるかどうか、瑠璃は迷った。

「大丈夫?」
 千景は瑠璃を覗き込むようにして聞いてくるのに。

 瑠理は、まだ迷っていた。

 近くではドーンと響く大きな音が人々を震わせて、ひときわ艶やかな大輪の花がきらめいたというのに。

 瑠璃は、目前に差し出された千景の手をとるかどうか、決めあぐねていた。





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