(七十二)細川幽斉の旅日記にある和歌を読む

細川幽斉は、戦国時代の武人であるが、歌人としても有名であった。特に、『 古今和歌集 』の解釈を、秘伝として藤原定家 の嫡系子孫に伝えた『古今伝授』を得たとの誉れある人物である。
その彼が「九州道の記」という旅日記を書いている。芭蕉とは異なり、この旅日記では名所めぐりをしていたので、芭蕉の次の句
  山路きて何やらゆかしすみれ草
  夏草や兵どもの夢の跡
 
の様な句を作っていない。ドナルト・キーンは『百代の過客』の中で、次の様に述べている。
 残念にも日記は、主としてさして面白くもない連歌と、さらに面白くな    い和歌とに多くの紙数を割いている。キーンは彼の連歌・和歌が面白くないとしているが、その例をいくつか挙げておこう。
 
佐陀大社を訪れたときに、次の歌を作っている。
  千早ぶる神の社や天地と分かち初めつる国の御柱
 (威厳のある神の社だよ。天と地とに分かち初めた、我が国の尊い二柱の 神を祭るこのお社は(『中世日記紀行集・九州道の記』伊藤敬訳による))
杵築大社を訪れ、施主より発句を所望された時には、次の句を提示している。
  卯の花や神の斎垣(いがき)の木綿鬘(ゆうかずら)
 (卯の花が神域の斎垣に掛けた木綿鬘のように白く咲いている(同上訳に    よる))
更に、石見の国の大浦から銀山の側の舟で漕ぎ行った時には、次の歌を作った。
  これやこの浮き世を巡る舟の道石見の国の荒き波風
 (石見の海の荒い波風にもまれ凌ぎ逝く姿、これこそまさに、浮き世を巡る船路―人生というものなのだろうよ(同上訳による))
 
彼は上手に歌を作る才があったことは確かであろう。しかし、内容が形式的で人をして感動させる句とは言い難い。彼にとって、歌は出世の手段と思っていたように思える。
 

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