篠田桃紅『107年のキセキ』(その1)

古川美術館 分館 爲三郎記念館 追悼 藤田桃紅『107年のキセキ』展

篠田桃紅氏は、2022年に107歳でお亡くなりになった、女性の芸術家です。戦前の満州生まれ。書家として活動を始め、戦後に抽象的な作品に移り、一時渡米、当時のアメリカ抽象表現主義の影響を受け、墨や和紙はもとより、胡粉、朱、金銀泥、金銀箔などの日本古来の材料で、抽象的な表現活動を続けた方であるとのこと。

不勉強にて、その「篠田桃紅」の名を知ったのは、しばらく前の、岐阜県に新しい美術館が出来た、というニュースでした。

その、岐阜現代美術館の中心が、篠田桃紅作品のコレクションという事で、サイトにて、いくつか作品を拝見して、抽象画としか見えないのに書であるという点に驚きました。

今回、こちらも一度訪ねてみたいと思っていた、古川美術館でその展覧会があるということで、いったいどんな作品なのか、この目で確かめるために出かけました。

名古屋市営地下鉄東山線池下駅を降りて住宅街を歩く。

古川美術館外観

住宅街のど真ん中に美術館。
向かいはアパート。
建物の外観は無骨だけど、内装はなんとも優雅というか、そこらじゅうの結婚式場が、お手本にしたんだろうなっていう、ロマンチックで清潔で、会談まで桃色フカフカの絨毯が敷き詰められている。その階段や廊下の間接照明も、いちいちお花の絵が入っているレベル。建物がすでに作品だ。

今回は企画展の性質上、建物内は撮影禁止でしたので、また別の機会に紹介いたします。

Departure-Autumn

最初の部屋、篠田桃紅さんの写真などの後に、壁一面に並べられた『Departure-Autumn』『Departure-Black』『Monument-いしぶみ』これは三部作だそう。

最初の『Departure-Autumn』は、向かって左側半分が、寺社の軒の組み物みたいな、浅いV 字型の重なりが、刷毛で引いたように黒々と濃く、上から下までみっしりと描かれている。
良く見れば、三本ほど鋭く細い線が、朱も赤々と、Vの字の隙間にスパッと切りつけられている。

右半分は、白い胡粉が滝のようにザアザアと勢いよく、無数の糸のように束になって、上から下へ降っている。墨が少し混ざっているのか、うっすらと灰がかっているのは、まるで滝の裏の影が映っているよう。

全体の風景は、段々に岩塊の重なった崖に落ちる滝そのもので、右は滝、左は岩山といったところか。刻まれた朱は、濡れた岩が光っているのか。あるいは、誰かがそこを上った体温が残っているのか。

Departure-Black

黒白二色だったのが、黒灰白の三色に。
等しく巨大なV字型で、ガッチリと組まれていた左の墨が、
大きさもバラバラな四角になって、無造作に積み上げられたような、ゆるい様子になって、幅も四分の一近くに縮んでしまった。もう、峻厳な岩壁の面影はほとんどない。

右側の滝も、あの降るような線はもう見えない。ぼんやりとにじんで、ゆったりと流れているようだ。混ざっていた影はなく、その穏やかさを示すように白い。
こちらも、四分の一ちかくに縮んでいる。

中央は、幅広の薄墨で、整然と、横長の長方形が積み上げられている。
階段のように見えるのだけど、高低差があるように思い込んでいるのは、先に『Departure-Autumn』を滝と見立てたせいかもしれない。
この作品単品で見れば、そんな想像をさせる要素は特になく、ともすれば、岩と川とその間の砂州の河原のようにすら見える。

Monument-いしぶみ

『Departure-Black』を、『Departure-Autumn』の滝が穏やかになった様子、と読み取ってしまったのは、この『Monument-いしぶみ』が三部作のもう一作とばかりに並べられていたせいでもある。
この作品では、前二作と異なり、縦に分けられているのではなく、七本の横長の長方形が積み上げられた構成となる。

一番上と二本目は、白に近い薄墨。『Departure-Autumn』の滝の水ほどの濃さ。だけど、一刷毛でスゥと静かにすいへいに引かれた様は、飛沫を叩く滝どころか、穏やかに凪いだ川面のよう。
二本目も同じ薄墨だけど、右四分の一ほどが、もう少し濃い墨になっている。三本目はその濃さの刷毛が、左端にとどくわずか手前で止められており、四本目は端から端まで、滑らかに引き切られていて、五本目は右から三分の二までで止まっている。その先は、一本目と同じ薄さの薄墨。
六本目はさらに濃い墨となるが、ちょうど五本目が終わるあたりで、ジワリと薄くなって、四、五本目と同じ濃さに落ちている。
七本目は完全に墨色となって、左端の寸前で鋭く断ち切られるように終わっている。

七段階の、墨の濃さのグラデーション。
幅の広い大河の流れを、遠近法で表現したかのよう。
墨の色が左側で途切れる場所が、ゆるりと「ゝ」の字の形になっていて、それは全く、静かな川面に落ちる山の影のようだ。

こんな感じで、自分は、峻厳な岩山の激しい滝から、穏やかな大河へと移り変わる、という物語を、この三枚の絵から思い描いた。

ただ後でよく調べてみたら、確かに
『Departure-Autumn』『Departure-Black』は三部作のうちの二作だけど、もう一枚は『Departure-Spring』という作品で、『Monument-いしぶみ』ではないらしい。
ぎゃふん。

とはいえ、滝だ山だ河だと、具体的な形象に無理にこじつけず、自分にそんな想像をさせた、静と動、硬と軟、その境界の様々な状態、というように、形而上学っぽいあたりを考えると、こんな鑑賞の仕方も、当たらずとも遠からず、という事でよいのではないか。

と理論武装ができたので、以後、そんなふうに開き直って観ることにしました。

Daybreak 夜明け

抽象画って言わなきゃわかんないんじゃないか?
これはまさに、早朝の竹林の一隅を描いた、金屏風の一部。

これは、薄墨を水平にスゥと引いた上に金箔を貼ってあるのかな? ジワリと影が払われていくように、朝の霞がたなびくように、うっすらとした明暗のさざなみがある。
その上に、スイ、スイ、スイと、細くまっすぐな筆使い。
その薄さが、朝もやの奥に見え隠れするそのままで、さらに奥には見えないけれど、無数の竹のさざめきが聞こえるよう。
左端にはグイと太い竹が、濃い墨色も黒々と、まるでそこに夜の闇の名残があるよう。それに隠れるようにくの字に覗いているのは、笹の葉か。葉の形はしていないけれど、笹船のように折り曲げられた質感が、笹の葉としか思われない。

前衛でも抽象でも、根底にあるのは、墨で描く、もしくは書く、その歴史の積み重ね。
見た事もない作品ばかりだけど、安心して見ることができる、確かにその凄みが分かる、何か、自分のこれまで見てきたもの、感じてきたことに、繋がっているのが分かる。
それは何故か? この一枚が、それを分からせてくれたように思います。

Commemoration 1,2 祝 1,2

二曲一隻の屏風。銀箔と胡粉で白く輝く面と、墨色黒々とした面が、ほぼ半分。縦にサクサクと割られて、左曲は墨2白1、右曲は白2墨1。
どちらの曲にも、白と黒を繋ぐように、篠田桃紅のあの月の字が、くるりくるりと回るように。
明けの月と宵の月なんだろうか?
これは、銀婚式の贈り物として作られた作品という。であれば、明けの月宵の月を連ねて、夫妻の重ねてきた時間を祝しているのかしら。
抽象的な作品に見えるけれど、よくよく見ると、白い部分は、銀に薄墨のやや暗いエリアの上に、胡粉で四角いエリアが垂れ下がるように掛かっている。そこにはY字型にちょっと色が違う部分があって、それは全く和服の、特に襦袢の襟の袷にそっくり。
つまり、コレは屏風に襦袢が掛けられている絵だ。

なんとなく、艶っぽい雰囲気があるわけだ。
それは、最初は左曲にズバリと差し込まれている朱のせいかと思ったけれど。
艶っぽいとはいうものの、こんなに爽やかで、気品のある色気なんて、ありえるんだろうか?
まあ、ここに実際あるんですが。

Awakening

吹き上がる朱の上に、三筋の白が左上を目指して飛ぶ。
旭日に舞う鶴だ。
そうとしか見えなかった。
太陽の赤、旭光の上昇、鶴の翼の輝く白、飛翔の勢い。そんなエッセンスを抽出したらこうなるのかな。
描かれたのが2012年とのこと。
東日本大震災から一年。何か思う所があったんだろうか。

Kiri no Hana 桐の花

二曲一隻の屏風。
三好達治の詩を、紺に染めた紙に銀泥で書いた書、周囲を、朱色で、組井筒のように囲うような表装をしてある。
紺も銀も黒くなってしまっている。

三好達治の詩は、散った桐の花が、恋しい人の肩に触れて地面に落ちた、恋しい人はその花びらを優しく拾い上げた。
その花びらが妬ましい、という、情熱的な恋の歌。
わかる。
自分も、年甲斐もなく、絶対にかなわない恋をしている最中だもの。
それで他人事とも思われず、三好達治の詩の情景は、どんなものだっただろうか、と思い詰めてしまって、しばらく立ち尽くしておりました。

でも、桐の花の咲いているところなんて、見た事がない。いつだって、葉をみっしりと繁らせているイメージがある。
紺の紙が、朱色に取り囲まれている様は、花の咲いた木々を上から覗き込んで、暗い木陰を見下ろした感じだろうか。
黒変する前は、銀泥で書かれた文字が、キラキラと輝いていたんだろう。それは、暗い木陰に瞬く木漏れ日みたいに。

花の咲いた樹の下、暗い木陰に、木漏れ日が綴る恋の歌。

花のようにはかなく、木漏れ日のように移ろうとも、失われることが分かっていても、人の一生をかけがえのないものにする、その一瞬。
報われなくても良いんだ、という事を知るために、人は恋をするのだろう。
二十代の頃に気づきたかったなあ。

で、後になって調べたら、桐の花というのは、葉が茂る前に咲くらしい。しかも赤系の色ではなく、淡い紫色だとか。

想像してたのと全然違ってたじゃねえか。
俺の人生はいつもこうだよ!

長くなったので続きは後日。

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