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備忘録:不登校のきっかけ

おはようございます。
まさです。

嫌なタイトルですね。
僕もそう思います。

「学校行きたくね~~」って思った方は多分この世にごまんといると思います。
その中でも『不登校』を選んで学校に行かなかった人はなかなか少ないと思います。
大体はどれだけ気だるくても行くものです。

しかし僕は学校に行かなくなった内の一人です。

ただ勘違いしていただきたくないのは、色んな要因で学校に行きたくなくなったのは間違いないのですが、根っこには『学校行きたくね~~』とメンタルがあることです。

なので普通に自己責任です。
それでも当時はそれが最適解だと思って動いていました。
愚かですね、当時の僕も。


注意事項です。
登場人物や学校のイニシャル等の名称は全て仮のものです。
特定を避けるために出来事に脚色を加えたり、むしろ減らしたりしています。
「これお前だろ」と思っても静かに見守ってください。

それでは僕のお話です。
あくまで備忘録なので読みづらいかもしれませんがご了承ください。


①小学生時代


時は遡って小学生時代。
ここはサラッと行きましょう。

この頃から学校に行きたくない気持ちが強かったです。
それに団体行動が嫌いな人間でした。
これにはちゃんと理由があります。

僕のクラスはあまりにやんちゃする人が多く、怒られることが多かったからです。
僕は怒られるのも誰かが怒られているのを見るのも嫌いです。
怒っている姿を見るのも嫌いです。
なので心穏やかな日は少なかった気がします。

そのせいで学生時代は優等生と言われていました。
やんちゃしている人を注意したり、先生の言うことをちゃんと聞いたりしていたからですね。
でもそれは結果論で、点数を稼ぎたかったからではありません。
再三申しますが、怒られるのも怒っているのを見るのも嫌だったからです。

そのせいで教師からは「まさくんなら大丈夫だね」とか「まあお前なら平気か」と言われまくります。
社会人になった今でも変わりませんが。

事前に怒られるだろうことがわかっていれば学校を休むこともありました。
保健室に逃げたり早退したりもよくしていました。
空気を察するのだけは小さい頃から得意でした。
小学生ながらにせこいですね、こいつ。

だからと言って同級生が嫌いというわけではありませんでした。
僕がガチギレする日もありましたが、今思うと本末転倒ですね。
怒られないために怒るって......ダブルオーじゃないんだから。

でも友達がやんちゃしてうるさくても、根は面白いやつだということも知っていたので完全に大嫌いなわけではないというかむしろ好きですよ。
まるでDV彼氏ですね。もしかして絆されてたのかな......。

②Sくん


そして時は少し進み中学生。
小学生時代と比べて、休む頻度は減っていきました。
ちゃんとした(?)体調不良が多く、しかもそれが長引きやすかったんですよね。
一度体調を崩すと平気で3~4日連続で休みます。
病弱ってわけでもないんですけど、治りが極端に遅い子でした。

休みが少なくなった理由はいくつかあります。
中学生になりメンタルが多少強くなったのはあるかもしれません。
小学生時代の反省で「少しくらい緩くても大丈夫だろう」という心の余裕ができていました。

さらに明確な理由となる出来事があります。
それは中学2年生の秋ごろです。
確かその日は部活も無かったので、誰か見つけて一緒に帰ろうと学校の駐輪場にいました。
すると同級生のKくんが話しかけてきました。


K「誰か待ってるの?」

まさ「一緒に帰れる人いないかなって。Kは?」

K「これからSくんの家にノートを届けるんだ。一緒に来る?」


Sくん。それは同級生の名前でした。
僕とは保育園が同じだった、言わば幼馴染です。
小学校は違いましたが母親同士が仲良かったのでたまに遊ぶようなことはありました。
中学で同じ学校になったもの、1年も2年も違うクラスだったためなかなか話す機会もありませんでした。

Sくんが学校に来ていないことは元々知っていました。
中1の後半くらいから病気がちになってなかなか学校に来れていないという話だけ聞いていました。

KくんはSくんと同じクラスで同じ部活の友達です。
なので部活動で使っているノートを届けに行くところとのことでした。

僕はこのまま待ってもどうせ暇だと思い、二つ返事でOKをしてSくんの家に向かいました。
そしてこれからSくんとのお話が始まります。

③友達の不登校と僕の休めない理由


小学生の頃に遊びに行った記憶で止まっていたSくんの家に到着しました。
Sくんの母親が出てきて、Sくんも家から出てきました。

その時は久しぶりで緊張していたこともあり、何を話したかなんて覚えていません。
でも妙に疲れている様子は分かりました。
病欠という感じでもなさそうなので、「何かあるんだろうな」くらいに思っていました。

それから僕はKくんと一緒にSくんの家に行くことが増えました。
そしてKくんが忙しくなって行かなくなってからも僕一人でSくんの家に通い詰める日々が続きました。

何を話していたかなんて本当に覚えていません。
今日学校で何があったとか、あのゲームが面白いとか。
友達同士のなんてことない会話です。

「学校に来なよ」とか言ったことはありません。
もしかしたらぽろっと言っているかもしれませんが。
強制までしたことはありませんし、当時は不登校の理由も聞きませんでした。
ぶっちゃく興味ないですし。

よく勘違いされる点ですが、僕は「Sくんに一日でも早く学校に来てほしい」わけでも「先生に言われたから通っていた」でもありません。
だって手間じゃないですか。
人の為にわざわざ家にまっすぐ帰らずに友達の家に寄ってから帰るなんて。

そう、主目的は「Sくんの不登校の改善」じゃないんです。
Sくんの家に行っていたのは「僕が現実逃避するため」です。

理由や経緯は後述しますが、当時僕は家族が大っ嫌いでした。
なので少しでも家にいる時間を短くしたかった僕はSくんの家に行っていたというわけです。
Sくんが自宅を学校からの逃げ場所にしたように、僕は僕でSくん宅を自宅からの逃げ場所にしていたんですね。
ひでぇ話です。

それに他人抱える悩みを自分も抱えている時は、自分のことを考えなくても良かったのが楽だったからです。
いくら不登校の改善が主目的でなくても人並みに心配はします。
なんで来ないんだろうとまでは言いませんが、本人は学校に行きたがっているのであればその気持ちを察することは出来ます。
だからその気持ちを勝手に僕も背負い込んで、自分が悩むべき問題から身を背けていたのですね。

もちろん単純に話すのが楽しいから会っていた節もあります。
中学生は思ったより子供なので、楽しいことがあればそちらになびきます。
僕とSくんの性格は、行動原理も考え方も違い正反対だったので面白かったです。

口実として通っていたことに負い目も感じていましたが、僕はずっとSくんの家に行き続けました。
そのうちクラスの友達も一緒に行きたいと言い出して、数人で押し寄せたこともあります。
日によってはSくんの体調やメンタルいかんで追い返される日もありました。
それはそれで無理に家に上がろうとはせず「ほなしゃーないか」と大人しく帰ります。
いや、僕は寄り道しながら蛇行運転で帰ります。家に帰りたくないので。

そしてSくんの存在は僕が学校を休めない理由にもなりました。
当時は平均で週3~4くらいでSくんの家に通っていました。
なので僕が学校を休んでSくんの家に行かなくなって、それをSくんが気に病んだらどうしようとか、不登校の人の家に「学校に行きたくない人」が行くのはどうなんだとか、どうしようもない杞憂とどこから湧いたかわからない責任感がいつからか生まれていました。

再三「自分のため」と強調しておりますが、さすがに心配はしています。
メンタルが不調であることが分かっていたので、いつか死んでしまうんじゃないかとも思っていました。
そのトリガーが何かは分かりませんし、なんなら毎日のように通っている僕を鬱陶しく思っていたかもしれません。
それに「こんなに来てくれてるのに登校できなくて申し訳ない」と思われてしまったらどうしよう、とか。
何度か家の前まで来て引き返したこともあります。

これは後日談ですが、Sくんは全くそんなこと思ってなかったらしいです。
僕が来ていたことで死のうって選択肢が消えたし(これ言われた時ちょっと怖かった)、来てくれてありがてぇ~くらいにしか思ってなかったようです。
なら今までの杞憂をお金にして返してほしい。請求できないかな。

④好転


中学3年生になると僕はSくんと同じクラスに組み分けられました。
そして2年の時にSくんのクラスの担任をしていた先生が担任となりました。

だからといって担任からSくんについて何か任されることもありませんでした。
それどころか担任からはこう言われました。


「Sくんのこともいいけど、自分のことも大事にしてあげてね」


勿論、中学3年生にもなったので進路のこともあります。
他人に現を抜かしている暇があれば自分のこともなんとかしなさいと言うのは教師として当たり前です。

だからこそ他人の問題に首を突っ込んでいる僕を見て言ってくれたのでしょう。
ちなみに今まで受け持ってくれた担任の中で唯一僕を優等生として扱わなかった先生です。
「まさくんなら大丈夫でしょ」と言わずに、1人の人間として接してくれて本当に嬉しかったです。
本当に感謝してます。

しかしそれでも僕はSくんの家には足繁く通いました。
僕の現実逃避は続いたわけです。
もちろんその間にSくんの進展はありました。
修学旅行に行ったり、保健室・支援学級通いが始まったりと
少しずつ通学へのリハビリも進んでいました。

給食を持って行って一緒に食べることもありました。
「今日はいるんだって」と同級生と押し掛けたのはいい思い出です。
いや、正直Sくん以外の支援学級通いの人に申し訳ないことしたなとは思います。


そしてSくんの家に通ってから大体1年が過ぎてまた秋になりました。
中学生活最後の文化祭の日がやってきます。

僕のいた中学校では合唱コンクールも合わせてやっており、
僕のクラスは「COSMOS」を歌いました。
Sくんも音源を聴いて頑張って覚えていたらしいですが、残念ながら一緒のステージには立てませんでした。

そして僕は当時それぞれ所属していた生徒会と吹奏楽部の準備や準備や準備に奔走していました。
こんなんでも生徒会副会長だったので。
やりたくなかったけど。
まあ色々やっちゃう自分がいけないですね。

吹奏楽部が最終プログラムだったため、文化祭終了後に楽器の運搬をしてから教室へ戻りました。
「お疲れ~」とクラスから迎え入れられながら僕は自分の席に座りました。
その時は制服ではなく吹奏楽部の簡易衣装で黒いワイシャツに黒いパンツでした。
クラスメイトから「中国雑技団?」と言われたのを覚えています。どういうことなんだろう。
確かに中国人みたいな顔してますけど。

教室の後方でクラスメイトが喋っていたので混ざろうとも思いましたが、疲れていてそれどころじゃありませんでした。
自分の席でぼうっとしていると、クラスメイトが数人教室に戻ってきました。
そういえば僕が教室に入った時にはいなかったなと思いながら眺めていました。
そして僕は目を疑います。

そのクラスメイトの集団の中にSくんの姿がありました。

ええそうです。今まで教室に入ってこれなかったSくんがいました。
ヘラヘラしながらクラスメイトと一緒にさらっと入ってきました。

僕はその状況を飲み込めませんでした。
まだぼんやりしている視界の中、ゆっくりとその姿を目で追います。
クラスメイトも「おう! Sくんじゃん! 久しぶり!」と歓迎ムードでした。
そしてSくんはまるで昨日まで一緒にいたかのように、教室後方にいたクラスメイトと話し始めました。

僕はずっと自分の席に座っていました。
都合の良い夢でも見ているんじゃないかと思えるくらいでした。
しかし後ろを振り返ると確かにSくんがいました。
楽しげに話しています。
もうわけがわかりませんでした。

僕がうだうだ考えていると担任の先生が教室に戻ってきて、帰りのホームルームが始まりました。
Sくんの席には、ちゃんとS君が座っています。
担任の要望で最後にみんなで「COSMOS」を歌いました。
Sくんも何とか歌っていました。
そして帰りのホームルームが終わり記念写真を撮りました。
ようやくみんなが教室に揃った一枚です。

そして僕はSくんと一緒に支援学級へ向かいました。
荷物をそっちに置いてあるとのことだったので、二人で向かいました。
それからのことはよく覚えていません。
でも泣いたことは覚えてます。
Sくんから「お前を泣かせられた。やったね」とか言われた気がします。
腹立ちますね、ほんと。

後に色々種明かしされましたが、当日Sくんは体育館後方で支援学級の先生と一緒に見学していたらしいです。
僕らの合唱を聴いて感極まって泣いていたらしいです。
お前もじゃねぇか。
そして文化祭が終わり、担任がクラスから数人を支援学級に派遣して迎えに行かせて、あとは上の通り。
何も聞かされていなかったので僕に対するドッキリかと思いました。
実際は僕が忙しすぎてそれどころじゃなかったからなんですけどね。

ちなみにそれからは普通に学校に来るようになりました。
休むとクラスメイトから「なに休んでんだよー」と軽いヤジが飛ぶようになりました。
1日休むと「また来なくなるんじゃないか」とクラスメイトみんな内心はヒヤヒヤだったからだと思います。
てか僕がそうです。

それから卒業式まで大きな波乱はありませんでした。
Sくんが学校に来るようになってもSくんの家で遊ぶ日々は終わりませんでした。
なんならみんな部活もないので増えたまであります。
なんだ、青春か?
ちょっと特殊ですが青春っぽくていいですね。

しいて言えば高校受験が難航したくらいですが、それは次章で。
ちなみに紆余曲折あって僕はSくんと同じ高校に通うことになりました。
どうやら頑張れば不登校児でも高校に行けるようです。
本人と親と担任がめちゃくちゃ頑張ったようです。

そして話は高校へと移ることになります。

⑤高校の選択


Sくんのお話が続きましたね。
ここからようやく自分の話が中心となります。
これまでは「学校に行きたくない人が学校に行く理由があったから行けたよ」って話です。
なにも「友達が不登校克服できてよかったね」、という話ではないです。

少し時は遡って中学3年生の秋ごろ。
Sくんが学校に通い始められた頃です。

僕はSくんと同じ高校に行くことに決めました。
仮にA高校としましょう。
もちろん行きたい学校はほかにありましたし、他に受けた所もあります。落ちましたけど。

じゃあなぜ同じにしたのかというのは、何もSくんが心配だからとかいう事ではありません。
というかそこまで過保護じゃないです。
保護者でもなんでもないので。

問題は「距離とお金」です。
当時の僕はA高校よりも上の高校に行ける頭はありました。
しかしA高校の一つ上の高校はかなり遠いところにあります。
具体的に言えばA高校は自転車30分+電車5分+徒歩5分でしたが、その高校は自転車30分+電車15分+徒歩30分といった具合に。
ぶっちゃけどこも遠いんですけどね。

さらにもう一つ上の高校は少し遠いですがさっきの高校よりはましです。
学力的にも少し頑張れば行けました。
しかし「頑張れば行けた」というのが懸念点です。
栃木県は県立高校(公立高校が県立しかない)の受験を1校しかできないため、そこを落ちると自動的に滑り止めの私立に通うことになります。
正確には県立受験は2回ですが、これもシステムがややこしいので省略です。

僕には姉が一人いるのですが、その姉が県立を落ちて私立に行ったこともあり、僕が姉に続いて私立に行くのは気が引けました。
実家もそんな裕福じゃないですし。
それに滑り止めで受けていた高校はさっき紹介した高校よりも遠く、定期代も馬鹿になりません。
そのため距離も近くお金もかからない県立のA高校にした、という流れです。

なので、僕は元々A高校行こうとはしていませんでした。
そのため高校見学も行ってませんし、どんな学校なのか全く知りませんでした。
同じ地区に住んでいた先輩が通っていたのでかろうじて少し情報を貰えた程度です。
でももうそこを受けると決めた以上は仕方ありません。
そしてA高校を受験し、何事もなく無事に合格しました。

これは余談ですが、受験当日にハプニングが起こりました。
体育館で事前の説明を受けている最中に後ろにいたSくんが鼻血を出し始めたのです。
すぐさま保健室へ運ばれて、そのまま2時間くらいは保健室受験となりました。
やらかしてんな、と思いましたがSくんも無事に合格していました。
よく受かったな。マジで。

入学後にA高校の同級生たちは
「あれは絶対に落ちると思ってた」
「可哀そうだった」
「お前あんなやらかして受かったの?!」
と散々いじってました。ざまぁみろ。

合格発表後、担任からは「Sくんと仲良く通っておいで」と言われました。
クラスメイトの一人からは「まさくんみたいな頭良い人が合格枠埋めたら行けなかった人が可哀想でしょ!」と言われました。
散々ですね。

まあ実際、この選択は大失敗です。
選択というか時の運というかガチャというか......。
違う学校に行っていればと後悔することになります。
それも入学して早々に。

⑥最悪の出会い


入学式等々を終えてようやく本格的に高校生活がスタートしました。
最初はクラスの人や部活に馴染むのが大変でした。
特に僕のクラスはみんな人見知りみたいなクラスだったので仲良くなるまでが長かったように思えます。
それに部活も吹奏楽部ではなくバドミントン部へ転身しました。
元々運動部には入りたかったので、高校デビュー的な感じですかね。

ちなみにSくんは別のクラスです。
話を聞いている限り新しい環境でもなんとかやっているようでした。
部活も同じバドミントン部に所属することになりました。

しかし、僕にとって大問題となる人物がいました。
学年主任です。
仮にQ先生しましょう。

Q先生はとても独裁的で自分勝手な人でした。
日や人によって態度がころころ変わり、すぐに連帯責任にしてきます。

クラスでやんちゃをする体育会系の生徒がいたとします。
そいつが教科書を忘れた時は「もう~何やってんのよ~」みたいに返します。
別の生徒が同じように教科書を忘れたとします。
すると「なに?やる気ないの?なんで忘れた?」とめちゃくちゃキレて詰めます。

なかなか掃除に行かず教室にいる生徒がいます。
ある日は「何してんの!早く行きなさい!」とすごい剣幕で怒ります。
ある日は「ほーら、早くお掃除いきなさーい」とやんわりと伝えます。

誰かが大きめにやらした時がありました。
すると学年全員を体育館に呼び出して説教が始まります。
極めつけにこう言います。
「関係ないみたいな顔してる人がいるけど、ふざけちゃってもいいって空気作ってるのはみんなだからね」

ちなみにこの件は僕らの学年のフロアで発生しましたが、やらかしたのは先輩らしいです。
事実確認してから呼び出せや。

以上から僕はこの先生が大嫌いでした。
小学生時代から空気を読んで先生の機嫌を損ねない様に立ち回るのは得意でした。
しかし、Q先生にそれは通用しませんでした。
本当にQ先生の機嫌が読めないからです。

すごく楽しげにしていることもあれば、生徒の発言の揚げ足を取ってヒステリックを起こすこともあります。
僕にはあまりに非合理的なQ先生が理解できず、大の苦手で嫌いでした。

そして自然とまた「学校行きたくねぇ......」と思うようになりました。
ただ今までと違って明確に「出席日数」が重要な高校では気軽に休むことはできませんでした。
高1なので勉強はまだ大丈夫でしたが。


救いはQ先生が担任ではなかったことです。
1年次の担任と副担任はかなりの放任主義でした。
孫が遊んでいるのを後ろでお茶をすすりながら「いいんじゃない?」と見守っているような人でした。
すごくやりやすかったですし、最初は人見知りばっかりだったクラス全体もどんどん仲良くなっていって毎日楽しかったです。

それにSくんが学校に楽しく通っている手前、僕が辞める訳にはいかないという謎の責任感がありました。
中学時代の僕と同じ立場にさせたくないというほうが正しいかもしれません。
自分が学校に行かなくなった時にSくんが僕のしたように家に来るんじゃないかという懸念もありました。
学校帰りについでに通えていたSくんの家とは遠さが比ではないので避けたかったのです。

それにこの頃は家族仲が最悪だったので家族に会わせたくなかったのです。
絶対に。何があっても。

そんなこんなで1年乗り切りました。
Q先生という目の上のたんこぶがある以外は楽しく通っていました。
しかし2年次に上がってから、さらに多くの問題とぶち当たることになります。


⑦波乱の1学期


僕らの年のクラス分けは特殊だったようです。
例年では文系/理系と国公立/私立の4組と就職組、みたいな感じで5クラスに分かれていたそうです。
今年だけ『選抜クラス』が組まされたのです。
「成績上位」且つ「上の大学への進学を目指す人」を集めたクラスになりました。

しかも担任は例のQ先生です。
この時点で僕はやる気がどうとか言ってられなくなりました。

初日からQ先生は

「ビシバシやっていくからね」

「このクラスに選ばれたプライドを持って」

「教科担任にもそういうクラスだって言ってあるから」

「推薦入試とか受けさせないから」←これが一番意味不明


初日からやる気を削ぐ言葉の雨あられ。
ちなみに担任の受け持ちがコミュニケーション英語だったのですが、
ぶっちぎりで嫌いです。

いつ怒るか分からないストレスと、授業進行の下手さで毎秒イライラします。
教科書から文章引っこ抜くだけなのに「隣と確認して」とか、
穴埋めするだけのプリントを配られたのに「授業で解説するから勝手にプリント進めないで」とか
マジで邪魔でしかないです。


「レベルに合ってないからではそう思うのでは?」とお思いでしょう。
受ければわかる。マジでみんな言う。

それでいて寝てる生徒がいればめちゃくちゃ怒って機嫌を損ねます。
たった一人寝ていただけでクラス全員がその被害を食らいます。
毎回誰かが寝ていないかヒヤヒヤです。

そんなクラスですが、なんとSくんも一緒でした。
こんなことを言うのはなんですが、A高校においてSくんはそこまで頭が良いわけではありません。
受験の為の付け焼刃が多く、基礎がしっかりできていなかったため赤点回避が関の山でした。

しかしSくんはこの『選抜クラス』にいました。
あまりに不自然です。本人もそう思っていましたし、不服そうでした。
ちなみにこの理由はのちに聞かされましたが本当に意味不明でした。

クラスでは毎日妙な緊張が走っていました。
Q先生の機嫌を損ねてはいけない。
選抜クラスにいるからには成績を高く保っていなきゃいけない。
他のクラスでも変なことを起こすとうちのクラスで期限が悪くなるからやめてくれ、など。

そんな緊張感が続く中、とある出来事が夏休み明けに起こりました。
Sくんの不登校が再発してしまいます。

もちろんその理由は聞いてませんし、無理に来いという事もしませんでした。
しかし今は状況が違います。
通っているのは中学ではなく高校です。
義務教育から離れた今、出席しない生徒を高校側が抱えるわけもなく、成績もつけられないため進級もさせてくれません。

だから不登校になってしまったことは仕方ないとしても、
悠長にしていられるほどリミットはないです。
高校側としてもなるべくなら登校してもらいたいと思っているとはいえ、
規定は規定なので最悪のケースには逆らえません。

少し違う点と言えば中学時代のように全く来なくなってしまったわけではない点です。
たまに来てはまた来なくなるようなサイクルです。
しかしそのスパンはどんどん長くなっていきます。
そのことでSくんもSくんの親も焦っていたのを知っていますが、
正直、当時一番焦っていたのは僕かもしれません。

余談ですが、高校の同級生たちもSくんが中学時代に不登校だったことを知っており、
Sくんの家に通っていた僕のことも知っているので、僕を「保護者」とか「親」とかいう輩もいました。
ぶっちゃけ嫌な気分でした。僕はSくんのただの友達です。

⑧いじめ......?


そしてさらに災難は重なります。
夏休み明けからSくんのこともあり、僕は部活に顔を出せずにいました。
バドミントン部に所属していたのですが、Sくんが来た日や気が向いた時に部活に顔を出す程度になっていました。
ちなみにSくんも同じ部活です。

そしてSくんがなかなか学校にこなくなり、僕も部活に顔を出さなくなったある日です。
担任のQ先生から呼び出されました。
当時はSくんのことだろうと思っていました。

職員室前の廊下のソファに座って待たされて数分。
Q先生は言いました。


「Pくんがいじめられてるって話を受けたんだけど、なにか知らない?」


Pくんはダブルスのパートナーです。
中学は一緒でしたが、中学生当時は仲がいいわけではありませんでした。
高校で同じ部活になったため話すようにはなったくらいの仲です。

そして僕はPくんのそんな事情は知りませんでした。

確かにいじられるようなキャラでしたし、それを本人が不快に思うなら仕方がないなと思いました。
しかしQ先生は話を聞いているうちになんだかおかしいと思ったそうです。

Q先生がPくんからの受けた相談をまとめるとこうでした。

・スリッパに画鋲、机に落書き、物を隠されるなどいじめにあっていると自己申告。

・こんなクラスは嫌だからクラス替えをしたい。

・できれば同じ部活の人がいるクラスがいい。


よくある、と言っては申し訳ないですが、本当にテンプレないじめです。
それを学年主任に報告するのは当たり前です。
しかし変な点もあったとの事です。

それは、クラスの誰もその様子を知らないという事でした。
「その様子」というのは、例えば分かりやすいのが『机の上の落書き』です。
クラスぐるみで何かしているとかであれば話は違いますが

その落書きを見たのはPくん本人だけとの事です。
しかも先生に確認して貰う前に自分で消したそうです。
落書きされていたら消したくなるのは分かりますが、いじめを立証したいのに証拠を自分で消すのだろうか、とQ先生は訝しげにしていました。

考えすぎだろうとおもいましたが、しかし
・こんなクラスは嫌だからクラス替えをしたい。
・できれば同じ部活の人がいるクラスがいい。
ここ二つがQ先生も僕も引っかかった部分でした。

「同じクラスの人がやったわけではないだろう」とたしなめてもPくんは同じクラスの人だと決めつけていたようです。
そして「同じ部活の人」と指定してクラス替えを希望した点は明らかにおかしいです。
Pくんのクラスにも同じ部活の人がいますし、そいつと仲が悪いわけではありません。

Q先生は以上の情報から「いじめを偽装して、仲の良い人と同じクラスになりたいだけ」と考えたそうです。
これはのちに知ったのですが、Pくんはクラスに馴染めていないことを気に病んでいたそうです。
だからこの推理も遠くはなかったらしいです。

なぜ僕に話したのか、と思ったのですがこれは単純です。
Pくんと同じ中学で同じ部活の僕に話した方が早いと思ったからだそうです。
同時に抱えてるSくんも同じ中学同じ部活ですし。

しかしこの教師、僕がSくんの件を抱えているのを知らないんでしょうかね。
プリントを毎日のように届けに行っていることは知っているはずなんですが。

結局Pくんの話は進展せず、僕は話を聞くだけ聞いて解散になりました。
ちなみに後日学年集会で「いじめはやめようね。なんかあったら先生に言ってね」みたいなことを言われました。
やる必要もなかったけど、Pくんから相談を受けた以上やらないと示しがつかないからだそうです。
形だけならやる必要ないだろうが。

ちなみに部活に行かなくなりPくんとも疎遠になったある日、廊下で久々にすれ違ったので挨拶したら無視されました。
当時僕は「あ、こいつほんとにやってんな」と思いましたし、俺が抱える問題でもないと思いました。

これは余談ですが、今現在はPくんと仲良くしています。
当時のことを聞くとよく覚えていないそうです。
あんだけ気を遣ったのはなんだったんだ。

しかし心労が増えるばかりなのは確かです。
中学のように他人のことだけ気にしている場合でもありません。
勉強、進路、将来。
それに家族仲の問題もあります。
これは身の上話になるので割愛します。お金も絡むので。

⑨学校外でのストレス要因たち


当時の僕は吹奏楽部ではなく一般の吹奏楽団に所属していました。
楽団と言っても緩く、土曜の夜に数時間練習があるくらいの感じです。
社会人を中心とした身内の集まりのような小さな楽団でした。

そんな小さな楽団でも問題は沢山あります。
1番大きな問題は「人間関係」です。

とにかく面倒でした。
誰が誰を嫌いで、苦手で、あそこが前にいざこざがあって......と。
マジでだるかったです。僕はその輪に入りたくもなかったので傍観していました。

それでも年を召した田舎者は悪口で仲良くなるのが世の常です。
比較的輪の中にいない僕に対してはバレることがないだろうと安心して誰かの悪口を言います。
僕はそれを聞き流しているだけです。
気分がいいわけもなく、モチベーションは日々下がる一方でした。

というか中学時代から疑問なんですが、「吹奏楽」をやりにきているのにそれ以外で揉めるなよと思いません?
そういう人に限って全く練習しないし口だけだし指示も的外れなんですよね。
すみません、余談の愚痴でした。


そしてちょくちょく触れていた家族のことです。
僕は父方の親族が大嫌いでした。

というのも、父親は僕が小学生の時に原付で大きな事故を起こしてしまい、耳と目に大きな障碍を残しました。
全く使い物にならないというわけではありませんが、耳は遠くなり目もよく見えないとの事です。

入院後、家に帰ってきたもののその状態では働くのはおろか車の運転さえままなりません。
ようやくパートで清掃の仕事を見つけましたが、父方の祖母に送迎されている状態です。

別にここまではいいんです。
僕が嫌いなのは家での態度です。

耳が遠いから仕方ありませんがとにかく声がでかいです。
笑い声もでかいので別の部屋にいても聞こえてきます。

父親と父方の祖母の会話も嫌いでした。
父親は祖母を見下すような話し方をします。
屁理屈もこねます。
「お前の子供であってもガキじゃねぇんだよ」、とか。

原付で自己って家族に迷惑かけた挙句に後遺症で祖母に仕事の送迎を頼んでる身で一体何を言っているんだこの人は、と思います。

そんな父方の祖母も嫌いです。
典型的な田舎人でプライドが高く隠ぺい体質です。
ここには詳しく書けませんが、当時僕や家族に話していないことが沢山あるようでした。
姉と祖母で言い争いをしていた日もありました。

そして祖母はとにかく余計なことしか言いません。
すぐに首を突っ込んできます。

そしてこれが問題なのが、「息子と孫を誇りに思っている」ことです。
典型的な女尊男卑です。母と姉のことはかなり無碍に扱っているのが分かります。
しかし息子である父と孫である僕、ようは男性陣に対してはとても甘く盲目的です。

僕が良いことをすればすぐに学校へ報告します。

「うちの孫がね」、と。
近所の人にも言います。

それだけならまだ「可愛いお祖母ちゃんじゃない」となりますがそうではありません。

僕の先祖は代々教職をしていました。
だから祖母は僕にも同じことを望んでいました。
そしてその理想をずっと僕に語ります。

「将来立派になるんだから」と。

正直に言いましょう。
不愉快です。
もちろんご先祖様と同じ道をたどるのは素晴らしいことかもしれません。
それでも僕は別にやりたいこともありましたし、勝手に道を決められることに対して腹を立てていました。

これは少し後の話になりますが、僕が不登校になった時に祖母からかけられた言葉は

「ちゃんと大学は行くんだよね」

「勉強しなさいね」

など、僕の体調やメンタルを心配するような言葉は一切聞きませんでした。
僕の将来、というか自分のメンツにしか興味がなかったようです。


2学期に入ってから、離れで暮らしていた母方の祖父が亡くなりました。
よくうちに来てはお菓子をくれて、家では酒にたばこな人でした。
とても優しく温厚でしたが、そんな生活で長く続くわけもなく天へと旅立ちました。

今まで顔も名前もよく知らない親戚のお葬式なんて何度も出席しています。
しかし今回は幼少期からよくお世話になっていた祖父です。
さすがに何かを考えざるを得ませんでした。

葬式が一通り終わって姉の車で先に帰宅した時、
世界が少しずつ変わってしまっている感覚になりました。
いろんなことが僕の周りで起こってはいますが、その渦中に僕はいません。
それでも各問題の紐は握っている状態です。

SくんもPくんもQ先生も楽団も家族も
問題としているのは「僕以外の何か」です。
それでも無視はできませんでした。
だって「人の問題を抱えている時は自分の問題を抱えなくてもいい」と思っていたから。

でも僕はそのせいで潰されてしまいます。
人の悩みを優先して自分を見つめる時間が取れなかったせいで。

そしてこれらが重なって、僕の不登校へ繋がります。


⑩緊張の糸が切れた瞬間


秋に入って修学旅行がありました。
3泊4日、行先は沖縄です。

不登校ぎみだったSくんも修学旅行くらいは来ようと頑張っていました。
荷物も沖縄に送って準備万端でした。

僕は朝早く起きてSくんの家まで迎えに行こうかと考えましたが、
帰りの都合上、親の車で送迎してもらったのでそうはいきませんでした。

誰よりも早く学校に到着し、バスに乗ってSくんを待ちました。
結局Sくんの姿はありませんでした。
Q先生からも「Sくんの母親から連絡があった」と聞きました。

その時点で僕のテンションは底辺でした。
この日を楽しみにしていたSくんを知っていたからです。
バスに誰より早く乗り込んで落ち込んでいる僕を
クラスメイトがいじってくれたのは救いでした。

そしてSくん不在で沖縄旅行へ出発しました。
いつまでもテンションの低いままでいるのもクラスメイトに失礼なので
それはそれとして満喫はしました。
お土産話を作るためにも。

そして修学旅行中にとんでもないことが起こりました。
大きな会場で集まって夕飯の食べ終わってタイミングで、理系科目担当の先生がマイクを持ちました。
とある生徒が大会に参加するために途中離脱しなければならないとのことでした。
そのお見送りと、せっかく誕生日が近いのでそのお祝いをしようじゃないかとサプライズを用意していたようです。

会場は大盛り上がりの中、その生徒は見送られました。
そんなお祝いムードの中、学年主任のQ先生がマイクを持ちました。
するとそれまでのお祝いムードは一変し、場の空気は重くなります。

少し時は遡って修学旅行前の学年集会です。
沖縄へ事前に荷物を送っており、空港で全ての荷物がチェックを受けたと集会中に報告がありました。
すると3名の生徒のバッグから、持ち込み禁止のスプレーの缶が見つかったとの事です。

それは事前説明で散々入れるなと注意されているものでした。
Q先生は3名の生徒をみんなの前に呼び、面前で大声を出して怒鳴りつけました。
この時点でこの先生の品格どうなってんだ。

しかし、結果から言えばこの生徒たちは悪くなかったことが発覚します。
というのも、この3名の生徒は同じクラスで、そのクラスの担任にスプレー缶を入れても良いか聞いて「大丈夫だ」と言われたとのことだったのです。

そうなれば話は別です。
教師がいいと言って入れたのにみんなの前で大声で怒られているのはあまりに理不尽です。
もちろんそこの誤解を解くのも、教師側の非を認め謝罪するのも必要だと思います。

さて、話を修学旅行に戻しましょう。
あろうことかQ先生は、そんな盛り上がっている会場でその謝罪を始めました。
生徒としても「今じゃなきゃだめ?」と困惑です。
しかも淡々と謝っていたわけではありません。
Q先生は号泣しながら謝罪をしました。

責任感とか生徒の尊厳を損ねたからとか迅速に謝罪しなきゃとかあったのかもしれません。
それでも修学旅行から帰った後とか、行く前に謝るとかやりようはあったはずです。
誰がどう考えてもただのQ先生の自己満です。

僕ら生徒はなんとも言えない雰囲気の中、夕食会場を後にしました。
苦笑いしか出ませんでした。

それからは何事もなく修学旅行を終えて無事帰宅しました。
帰宅後、Sくんの家に立ち寄ってお土産を渡していろんな話をしました。
本人はいかにも気にしていない風でしたが、修学旅行に行けなかったことを悔しがっていたと思います。

ちなみに修学旅行の日程は月曜日から木曜日までだったため、金曜日は普通に登校日でした。
全学年受けさせられる「語彙読解力検定」とかいうなんの役に立つんだって検定を受けさせられました。

さて、修学旅行やSくんの不登校等を経て心身ともに疲労が溜まります。
しかしその週の土日には大きなイベントがありました。
それは、所属する楽団の定期演奏会でした。

小さな楽団と言えど使うホールはそこそこ大きいため、ひな壇の設置やバミリの位置の確認、当日の流れに通し練習と事前準備に余念はありません。
とはいっても観客は地元や身内の人だけなのでそこまで緊張するものでもないんですが。

土曜は準備とリハーサルに、日曜は本番と打ち上げ。
土曜も日曜も朝から晩まで動き回っていました。
当時楽団内でも最年少クラスだった僕は力仕事を中心に動き回っていました。


そして全て終わった月曜日、いつも通り登校しました。
僕は誰よりも早く教室に到着していたため、一人ポツンとぼうっとしていました。
しかし明らかに倦怠感のレベルが「疲れ」とは違いました。

朝のホームルーム前でしたが明らかにヤバいと思い保健室に行くと38度の発熱。
修学旅行に楽団の定期演奏会と、溜まっていた疲労が体調に出たのだろう思います。

さすがに熱が出ているとなれば早退せざるを得ません。
すぐに早退と判断され、まっすぐ家に帰りました。

今まで頑張っていたからなのか、抱え込んでいた分なのか、
帰宅してからは脱力感と無気力に襲われました。
そしてこの早退をきっかけに、張り詰めていた緊張の糸はプツンと切れてしまいます。


⑪不登校の始まり


そして僕は体調を崩したまま4日くらい休みました。
熱は引いていたのですが、身体のだるさが抜けなかったのです。
咳やくしゃみ、鼻水などの症状も無いので単純な疲労です。

休んでいる間、僕は家に1人です。
だからこそ色んな事を考えこんでしまいました。

まずSくん。
僕が休んでいる間もSくんはやはり学校に行けていないようでした。
前よりももっと行く頻度が減ったと言うより、もう来なくなってしまったというのが近いです。
これは後から知りましたが、この時点で進級云々を言っていられない状況になっていたそうです。
退学して働くか通信制に転入するかなど、色々検討していた段階だったとか。

僕は「Sくんが学校に行くことはもうないだろう」と薄々勘づいていました。
そういえばSくんの不登校の理由を言っていませんでしたね。
詳細にはかけませんが、中学時代は所謂「いじめ」が理由です。
高校時代は「PTSDによる不登校」と「レベルの合わないクラスへのストレス」です。

想像させたくないのでいじめについては具体的に書きませんが、
身体への暴力は無かったようです。
精神的に追い込まれていたらしいです。
それがきっかけに胃潰瘍など身体に症状として現れ始めて......というのが中学時代。

高校時代は特にいじめられたとかじゃないです。
本人曰く「朝になると身体が動かなくなる」とのことです。
Sくんの名誉の為にも補足しますが、別に怠惰だったからではないです。
経験された方......というか経験しないと分からない感覚だと思いますが、
身体が動くことを拒否することがあるんですよね。

前日の夜までは全くそんなことないんです。
でも朝起きると視界がグルグルしたり身体が起きなかったりするんです。
嫌な記憶のフラッシュバックで吐いたりもします。
脳の防衛本能的なものだと思います。

大体の場合「行けばなんてことない」と言います。
実際そうです。いじめとかが起きていないのであれば行けば本当になんてことは無いんです。
でも行けなくなるんです。
これは本当に仕方ないことだと思ってください。
悪いのは中学時代にSくんをいじめてトラウマを刻み込んだ大馬鹿野郎たちです。

そして、身の丈に合わないクラスに編成されたことも彼のストレスを加速させていました。
クラス編成は自分で望んで決まるものではありません。
教師側で判断してクラス分けをするものです。
組み分けられたからには仕方ありませんが、学力が見合っていないのに編成されているのは違和感を覚えます。

後日談になるのですが、Q先生はSくんが中学時代に不登校であることを知って気にかけていたようです。
だからSくんを自分の手元に置いて支援してあげようと考えていた......とのことです。
しかし1年次のSくんの担任はQ先生ではありません。
ならなぜ2年次になってから......?
それに学力については教師側が一番よく把握しているはずですし、
身の丈に合わないクラスに編成するのであれば一声あってもいいはずです。

自分の管理下に置いておかないと安心できなかったのではないかと今でh思います。
それか「もしまた不登校になっても自分なら対応できる」とでも思っていたのでしょうかね。

ちなみにこのクラス編成についてもひと悶着あるので後述します。

つまりは「Q先生の余計なおせっかいのせいでむしろストレスを抱えてしまった」ということです。
少しでも成績が落ちることの許されない雰囲気にSくんはついていけなかったわけです。

僕はSくんの症状がどんどん悪化しているのも分かっていました。
登校する頻度が減っている時点で誰でも思いますけどね。
そのためこれからも同じ高校に通うのは不可能だと確信していました。

だからこそ僕は安心しました。
いくら行きたかった高校と言えど、ストレスを抱えたまま壊れてしまうのなら素直に辞めてほしいと思っていたからです。

そして僕は考えました。
このままA高校を辞めるのが確実であるなら、僕がA高校に縛られ続ける意味もないな、と。

入学当初から辞めたくて仕方がなかったA高校でしたが、辞められない理由の一つであるSくんが学校を去るとなれば話は別です。

僕が先に辞めてしまってはSくんを気に病ませてしまうかもしれないが、Sくんが辞めるのであればその心配はありません。

まあ、僕の責任感なんてこんなもんです。
辞める理由が欲しかっただけだろと言われればそうです。
むしろそれくらいの理由がないと僕はずっとストレスを抱えながらA高校に通い続けていたかもしれません。
他人が理由になるのは褒められたものではありませんが。

そして「学校を辞める」という選択肢が生まれた時点で、大方の問題がどうにかなると考えました。
Pくんのいじめ疑惑なんて悩まなくてもいいです。
Q先生の癇癪に怯えなくてもいいです。

当時の僕はこれくらいのことしか考えられませんでした。
嫌なものから逃げたくなる性分は小さい頃から変わらなかったみたいです。

僕は体調不良を境にめっきり学校に行かなくなりました。
もちろんずっと行かなかったわけではありません。
気が乗った日が行くような感じでした。

その時点では親にも担任のQ先生にも友達にも学校を辞めたいとは言っていませんでした。
2学期末のテストをなんとか赤点回避して、無事に冬休みに入ります。

⑫伝える難しさと気力


3学期の始業式には行きませんでした。
ちなみにSくんは既にA高校を辞めて、私立の通信制高校に通い始めていました。

始業式の日の朝にようやく母親に「学校を辞めたい」と伝えました。
母親は一度飲み込み、その旨を担任にも伝えて後日面談をする運びになりました。

面談当日、母親と二人で学校に赴きました。
相談室に通されるとQ先生と進路担当の先生がいました。
そして4者面談がスタートします。

僕はすぐにでも辞めたい旨を伝えました。
あらゆることに対して無気力になってしまい、勉強なんて出来ませんでした。
なので2年次の単位を取らずにA高校を辞めて、通信制の高校に2年次として入学してやり直したかったからです。

勉強についてもですが、進路についても練り直したかったのです。
それまでは人文系の国公立大学進学し、心理学を専攻してカウンセラーになろうという夢がありました。
しかし現状の学力や精神状態では不可能です。
そのためプラス1年の猶予をもらって勉強と進路変更をしたかったのです。

僕が一通り説明し終えるとQ先生が口を開きます。


「なんかわかってないみたいだけど、通信制の高校って大変なんだよ?」

「それに1年下の子と同学年になるんだよ。嫌じゃんそんなの」

「せっかくなんだし2年の単位だけ取ってから転入しな」

「進路を考え直すなんてすぐにできる」



さも「お前なんも分かってねぇな」と馬鹿にするような言い方でした。
不登校中に考えて、自分なりに調べた結果を全て否定されました。

というか論点が違うんです。
卒業する年が1年遅れることとか、大変かどうかとかは問題じゃないです。
不登校によって周囲と出来てしまった学力等の溝を埋めるために1年ほしいと言ったんです。
そこが良く伝わっていなかったのかもしれません。

しかし当時僕はこう思ってしまいました。


「もう何を言っても無駄だからいいや」


反論する気力は失せていました。
きっとこれから僕の言うことは全て否定されて、Q先生が描く理想に軌道修正されるだけなんだろうなと。
それからQ先生に言われたことの全てに首を縦に振りました。
進路担当の先生は淡々と通信制の高校の紹介や必要な書類について説明してくれました。

僕の進路が勝手に決められて4者面談は終わりました。
帰り際に母親がQ先生に対して
「これからも休みがちになると思うので休みの連絡入れなくてもいいですか?」
と聞いていて、Q先生もそれを了承していたのを覚えています。
正直僕もそこについては親にも学校にも悪いと思っていたため気が楽になりました。

それから僕は全く学校に行かなくなりました。
単位がどうこうと言ってはいましたが、僕は取る気もなかったため学校に行く理由が無かったのです。

しかしそれでもたまに顔を出していました。
なぜならクラスメイトのことが嫌いじゃないからです。
心配かけさせている同級生たちのためにもちょこちょこ登校するようにはしていました。
登校した際に同級生から抑えめに殴られたことはあります。
その人なりにとても心配してくれていたらしいです。優しいなぁ。

この時点では担任と進路担当以外に僕が学校を辞めることを知っている人はいませんでした。
言わない様にしていました。
気を遣われるのが嫌だったからです。

もちろんそれはSくんも例外ではありません。
なんなら嘘をついて、普通に学校に通っていることにしていました。
さらに隠し通せるのであれば辞めた後もA高校に通っていることにしようとしていました。
辻褄さえ合えば、ネタ晴らしはいつでもいいだろうと思っていたからです。
思わぬ形で学校に行っていないことはバレるんですけどね。

そして学校に行かない日が続き、学年末テストもすっぽかしました。
もちろんそれでは成績を付けられません。
ある日Q先生が「放課後でいいから一度学校にきてほしい」と連絡してきました。
僕はその言葉通り放課後にA高校に行き、Q先生の元へ行きます。

するとQ先生はこう言いました。


「教化担当の先生に言って回って課題を作ってもらった。これで単位を取ったことしてあげるから」


当の本人は「やってあげた」と言わんばかりの態度でした。
僕はその場で固まってしまいます。
本当に要らない事しかしませんね。

しかしやはり反論する気にはなれません。
そこで反論して癇癪を起されたほうが面倒だと思ってしまいました。
僕はその課題を受け取って、家で静かにこなしました。

提出期限の日に僕は課題を提出する為にわざわざ学校に来ました。
全て終わらせて持ってきていたはずでしたが、プリントを入れたファイルをそのまま家に置いてきてしまいました。
正直それはそれでよかったです。単位が取れないほうが僕にとっては嬉しいので。

教科担当の先生を巡って、プリント以外の課題は提出しプリント類は明日出しますと言いました。
中には「普段の様子は知ってるから、提出は別にいいよ」と言ってくれる先生もいました。
日ごろの行いって大事ですね。

一通り周り終わると、Q先生は僕を相談室に呼び出しました。
課題を忘れたことを咎められると思っていましたが、少しそれとはズレたことを言われます。


「私がせっかく頼み込んで課題を作ってもらったのに、それを無碍にするの?」


あ、そこなんだ。
怒っているのは期限通りに持ってこない事じゃなくて
「あなたのために頑張ったのになんで応えないの?」ということなんだ。

僕は相槌だけ打ってずっと黙っていました。
僕は翌日に約束通り課題のプリントを提出しました。
渡し終わるとQ先生はご機嫌に「これで問題なく単位持って通信の高校にいけるね」と言います。

僕は一言も「単位が欲しい」とは言ってないです。
でももうここまで来たなら何も言えません。自己責任で乗り掛かった舟です。
適当に相槌を打って帰りました。


3学期の終わりごろは週3~4くらいで学校に行っていた気がします。
まだ誰にも学校を辞めることは言ってはいません。
僕も一緒に3年次へ進級する前提で話を合わせていました。
努めて明るく。いつも通りに。

そしてある日、同級生の女子がSくんに渡したいものがあるとA高校の近くに僕とSくんを呼び出しました。
その子はSくんが好きだったららしいですが、当て馬として僕が召喚された形ですね。クソが。
僕はSくんの家に自転車で迎えに行き、一緒にA高校へ向かいました。
ちなみにこの日も休んでいたためバレない様に制服を着ていました。

自転車で指定の場所に着くと同級生の女子がいました。
なんでも、バレンタインデーのお菓子を渡せなかったから渡したかったとの事でした。
僕も一緒に受け取って少しおしゃべりをしていました。
しかしその女子は話の流れでとんでもないことを言います。


「まさは最近学校来てないもんね」


Sくんは「そうなのか?」と僕を見ます。
Sくんに隠していることを誰にも伝えていないのでいつかバレるような話ではありますが、
この時ばかりはさすがにこの女子のことが信じられませんでした。

A高校を辞めて私立の通信制高校に転入したばかりでまだ食傷気味のSくんには
まだ伝えるべきでないと思っていましたが、
バレてしまったのなら話すしかなくなります。

その女子と別れて帰りにファミレスに寄りました。
そしてSくんには全てを打ち明けました。
修学旅行後から学校に行かなくなったことと
A高校を辞める予定であること。
本当は話す予定もなかったことも含めて全て話しました。

Sくんはさほどショックも受けている様子もなく話を聞いてくれました。
内心どうだったかは知りませんが。
その日はそれで解散しました。

⑬さらばQ先生


そして一つ上の先輩の卒業式の日です。
僕は休みました。
卒業式に参加したくなかったからです。
お世話になった先輩もいないし、行事ごとになると先生たちもうるさいのでストレスを貯める可能性があったからです。

確かそれからはずっと休んでいて、終了式の日に登校しました。
朝のホームルームが終わるとQ先生に呼び出されて職員室前に行きました。
するとQ先生からこう言われました。


「なんで休みの連絡を入れなかったの?」


僕は意味が分かりませんでした。
4者面談の日に母親は「連絡しなくてもいい」と確認をしていたはずです。
それなのに今になってそのことを咎められています。
てかそれを言うなら僕じゃなくて保護者である母親に言えよ。
都合よく生徒に当たんなよ。

卒業式を休んだことにご立腹なのかもしれませんがそんなことは聞きません。
それに「連絡しなくてもいいって確認してましたよね」とも聞けません。
どうせ変なこじつけで反論してくるだけです。

僕は黙ってそのままでいるとプリントを持つように言われてそのまま教室に戻ります。
今日でA高校最後の日でしたが、最悪のスタートでした。

終了式が終わり、帰り際にまたQ先生から呼び出されます。
今度は何だろうと思えば、帰りのホームルームでみんなに挨拶をするかしないかの確認だそうです。
なんでそういう気は回るのに......と思いながら「します」と答えました。

そしてホームルームの時間になりました。
いろんな総括的な話の後にQ先生が「まさくんから話があるから聞いてあげて」と話を切り出して、僕は教卓に立ちました。
僕はその日初めて「A高校を辞めて通信制の高校に行く」ことをクラスメイトに伝えました。
本当に誰にも言ってなかったため、クラス中が驚いた表情をしていました。

一通り話し終えて席に戻ります。
若干騒然としていました。
席の近い人からは「マジ?」と言われた記憶があるようなないような。

するとQ先生は「今だから言えるけど」と話を続けました。
今年度のクラス編成についてです。


「本当は事前にそれぞれ面談して『例年と違って選抜クラスを作りります。そこに編成するけどいい?』って聞く予定だったけど時間がなくてできなかった。それは本当にごめんなさい。でもここまでついてきてくれてありがとうございました」


この言葉を聞いた時、やっぱりQ先生のことを許せなくなってしまいました。
その面談を事前にしてくれていれば変わったこともあるだろうに。
しかも今になって言うのか。
やはり辞めて正解だったと実感しました。
口を開くたびにヘイトが溜まっていきます。

そして放課後、教室で記念写真を何枚か撮りました。
他のクラスからも僕が辞めるという噂を聞きつけてやってきた友達もいました。
僕は終了式の日まで黙っていたことを友達に謝りながら、A高校を離れる前の会話を楽しんでいました。

そして一通り話し終えたところで僕はQ先生に呼ばれていたため職員玄関に向かいました。
Q先生が「お世話になった先生に挨拶に」と言い、教科担任や学年の先生の元へ順に回りました。
最後は校長先生にご挨拶しました。
なかなか会うことはありませんでしたが、気にかけていてくれていたようです。
ある一件で僕のことを認知してくれていたようですが、それは別の話なのでいつか。

そして最後に職員玄関に戻ります。
それではこれで最後というところで、Q先生は口を開きます。


「クラスの子たちも、悪い人じゃなかったでしょ?」


僕はまた固まってしまいます。

「クラスの人たちが嫌だから辞める」と一度でも言ったことはありません。
しかし辞める明確な理由を伝えていないので勘違いされても仕方ないのは確かです。
本人を前に「お前が嫌いだから辞めんだよ」なんて言えるわけないですし。
最後っ屁で立つ鳥跡を濁してもよかったですが、それはそれで面倒です。

僕はその言葉に「そうですね」と返し、最後に握手をしてA高校を後にしました。
これで正式にA高校とはおさらばです。
そして不登校もこれでおしまいです。

ちなみに大荷物を持って帰っているところを友達の母親に見つかりました。
担々麵を食べて買い物を付き合って車で家まで送ってもらいました。

⑭後日談とあとがき


無事に僕は通信制高校に3年次として転入する事が出来ました。
単位制のため必修単位と必要単位数を埋めるための科目を取る必要があります。
不本意ながら2年次の単位を持っていたこともあり、必要な単位数は同じ3年次の人と比べてもかあり少なかったです。

週1で通学して対面授業を実施します。
そこで貰う課題を提出する必要があり、提出方法は専用の封筒に入れてポストへ投函するのが一般的です。
通信教育的感じですね。

僕は空きコマが多かったため授業で貰ったプリントを自習室で終わらせて直接提出する事が多かったです。
通信制高校ではそこまで難しい内容を取り扱わないためささっと終わりました。
大体は教科書を読んで穴埋めするだけです。
前期後期に定期テストがありますが、それもよほどのことがなければ落とすような内容ではありません。

しかし取った科目の噛み合いが悪く、コマが被ってしまうこともありました。
その時はもうひとつの開校日である火曜日に通学し必要な授業だけ受けて帰っていました。
帰りのホームルームも単位に含まれるらしいですが片方だけ通っていれば大丈夫です。

僕は欠席提出漏れなしフル単で卒業しました。
何かの折に書いた作文も出来がよかったからと学校の広報に乗ったそうです。
今までと判断基準も学力の基準も違うので気分としてはなろう系ですね。

「ただ普通に学校に通って課題提出しただけだが......」


これは蛇足ですが、通信制高校というだけあり多種多様な人が通学していました。
年齢は上から下まで幅広くいました。むしろ高齢の方のほうが多かったかも。
老齢の女性に話を聞くと「私の時代は『女は勉強より家のこと手伝え』って言われていたから学校になんて通えなかった。ようやく余裕ができたから学校ってものに通いたくなったの」と素敵なことを仰っていました。

あとは何かしら抱えている人ですね。
それがどんな問題なのかは深入りしませんが、病気やいじめで全日制の高校に通えなくなってしまった人。
単純な学力的な問題の人もいました。
中学を出てからすぐ働きながらって人もいました。
僕にとっては多種多様な人と接するのが刺激的だったのでよかったです。


ちなみに進路の練り直しについてですが、
専門学校へ行って資格を取って手に職、というルートに舵を切りました。
経理や簿記の勉強をすることにしました。
働き始めてからもなんとか軌道修正出来るだろうと思ったので。

ちなみにこの進路は卒業後にまた大きく逸れることになりますが、
それは別のお話です。

そしてA高校に置いていくことも出来ず解決しないままにしていた家族仲についてです。
これはさらに悪化しました。
祖母の隠ぺい体質に痺れを切らして僕が怒鳴ったり、いつまでも態度を改めない父親に嫌気がさしたり。
通信制に編入したこともあり家にいる時間が増えて嫌なところももっと見るようになりました。

そしてそれは高校卒業とともに大爆発します。
それが大きく逸れた進路と関係しますが、それもやはり別のお話。


ということで、僕が不登校になって学校を辞めるまでをダラダラと書き殴りました。
ここまで駄文をお読みいただきありがとうございます。

思い出したくないことも沢山ありましたし、書き漏らしていることも沢山あります。
それでも当時思っていたことや今思えばこうだったなってことはかけたんじゃないかと思います。
なんだか懐かしい気持ちにもなれました。
それにようやくあの頃のモヤモヤを清算できたような気がします。
いつか書こうとは思っていたのですがなかなか筆が乗らなかったので......。

今回は不登校中になにをしていたかではなく、どうやって不登校になったのかをスポットにあてて書きました。
人の問題に首を突っ込んだ人間がどうなるかって話ですね。
今思えばもっといろんな人にその都度ストレスをぶつけていけばよかったなって思います。
頼れる人がいなかったという話もありますが。


長くなりましたが今回はここまでです。
約25000字に及ぶ本記事を読んでいただき、ありがとうございました。
今度は明るい記事を書く用に努めます。

それでは。

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