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おばあちゃんへの手紙 14-3


”感謝して すべての人の幸せを祈り、
有木伸宏 78歳 四国霊場巡拝119回”

「感謝して…すべて…119回…」

何もかもが衝撃だった。


返す言葉もない。


ただただ自分がない。

自分がなければ不安や悩みも存在が許されず、
さぞ心穏やかで清々しい境地であろう。



そこにあるのはもはや尊い祈りだけなのだ。


「祈りと一つになっている…」
私は小さく呟いた。


隣で覗き込む愛も
一瞬で目頭を熱くして
「はっ」と息をのんでいる。

ほんの僅かではあるが、
このお遍路の厳しさと
充実した楽しさの両方を経験してきただけに、

この言霊の持つ意味の深さは、
私たちの心の琴線に触れる。




自分たちがこれまでその未熟さから
苦しみ悩んできたその陰で、
人知れず、その苦しみのなくなることを、
その悩みの晴れることを願い、
幸せになってほしいと
祈ってくれている人がいた。

自分が気づかなかっただけで、
この世の中には
そんな優しい人々が現にこうして
存在していたというのが衝撃だった。


そして、そういう人たちは知っている。


己に生じた悩み苦しみは、
根本的な解決において、
他者にはどうすることもできないのだ
ということを。

自分自身の心と
しっかり向き合うより他はないのだと、

自分自身の経験の中から、

自分自身で気づき納得していくことだけが、

永遠の安らぎにつながる道であり、

時に親切という名のお節介が

どれだけその貴重な道筋を
閉ざしてしまうかということを。



だから、
安らぎに至った人々は、
ただ静かに祈るのだ。

このささやかな安らぎが、
心苦しむ人々へ届けと。


それ以上でもそれ以下でもない。


自分の心をしっかり整え、
清らかな安らぎの境地から皆の幸せを祈る。

そんな姿をこの世に顕現し続け、
そんな綺麗な心で
この世に在り続けることだけでしか、
いかなる欲にもまみれる事なく、
皆の心を導く方法はない。

今、ここを歩き、祈り続ける。


ただそれだけしかできない

というこの長い道のりの先に
辿り着いた諦念が、

逆に揺るぎない信念の祈りとなって、
人々を惹きつけ気づかせる。

現にこういった霊場が
今なお維持されてきたというのは、
こう言った先達たちの
歩みをやめない祈りの先にあり、

そのおかげで我々もこうして
気づきのチャンスを頂いている。


自分以外の人々の幸せを
真剣に願う人々が
この世界にはいる。



そして、
自分の幸せを求めずとも、
他の人々や他の生命の幸福を願うことによって、
自ずと自分は幸せの境地に
安住していられるのだということを。




”感謝して すべての人の幸せを祈り”


ただその一念のために
100回以上
この長く過酷な八十八ヶ所を
巡り続けられるポテンシャルは
一体どこから来るのだろうか。


そう、しかも119回なのだ。
端数の19回でも大変な偉業だ。

しかも年齢はどんどん進み、
体力も失われていく中で、

おそらく人生の大半を
このお遍路に捧げなければ、成し得ず、

ということは、
人生の思いの大半が、
この祈りということになる。


その言葉の持つ純度たるは、

我々が同じ言葉を口にするのとは訳が違い、
もはや質量すらも持っているのではないのか
と疑うほどのまさに言霊である。


「言霊の咲きおう国」
何かの本で読んだことがある。

言霊の力で
国に幸福がもたらされるというものだ。


身の内から発光するような
有木さんの白衣姿に、
いつしか息を呑み込んでいた。



悠久の時を越え、
今こうして無骨でありながら
厳かに佇む岩々に囲まれながら、

「この土地には仏の姿が溢れている」
と私は思わずにはいられなかった。


ふと木の香りがかすかに通りすぎた気がした。

心の内に低徊する
有象無象の言葉どもを投げ捨て、

気づけば私は有木さんに向かって
ただ手を合わせていた。

思わず合掌していたのだ。


「あっ、すみません。
なんかとてもありがたい気持ちがして…」

隣で愛も目を潤ませながら手を合わせている。



我が細君は涙脆い。

幼い頃に交通事故で母親をなくしているせいか。

こと命に関することには涙脆く、
ひいては人と人とのつながりに関して。

どこまでもそれを大切にしていて
心優しいのである。


有木さんはそれを見て、
何かに納得いったように微笑み、

私らに手を合わせて合掌を返してくれた。


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