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舞台「最哀の果て」感想

久しぶりの荻窪小劇場。
今年に入って知り、気になった役者の一人、愛須唯さんが出演、気になった団体の一つ、劇団ココアさんの作品ということで観劇。
今は事情があって、週一回くらい、早い時間帯しか観劇できないが、ずっと予定が詰まっていた中、なぜか、ここだけポッカリと空いていた。
運命的なものを感じて、ギリギリだったがチケットをとり、観劇へ。

まず目を引くのがタイトル。
「最愛」ではなく「最哀」。同じ読みでも意味合いが正反対になる。
それが気になり、目を引いた。タイトルも観劇を決めた要因の一つ。

呪いにより短命を宿命づけられた少女。良家の一人娘という事もあり、余計な蟲がつかないようにもされている。そのためか、学校でも孤立しているように見える。
それでも学校に通い続ける。
自分も特別友達が多いわけではなかったが、学校に行く楽しみの一つは、友達と会う事だった。学校に行くことの是非はもっと深いところにあるのかもしれないが、自分にとっては友達がいないと学校に行くのが辛くなっていたのは間違いない。
灯華も一人娘。同年代の人たちとの接点が学校であるのに、そこが閉鎖されている。
噂は噂を呼び、孤立を極めている中でも学校に通う。灯華には闇がつきまとう。

その闇を払拭しようとする樹。最初はそこまで意識的だったのではないのだろう。ただ、彼の優しさが、自然とそうしている。
クラスによくいる「おせっかい」。でもこのおせっかいが、時に人を救うことも少なくない。

樹は恐ろしいくらいにまっすぐ。前しか見ない。呪いと言われても、決して引かない。とにかく灯華と友達に、彼女を救おうとそれしか見ない。
そのまっすぐな樹に負けないくらいに、まっすぐな凛を演じていたのが、愛須唯さんだった。
純粋に樹だけを見ているその姿は、とにかく愛らしい。

思えば、愛須さんを初めて観た作品でも、純粋で可愛らしい役だった。不思議な透明感があり、純粋でまっすぐな役がとてもハマる。
それを考えた時、その一つは声なのではないかと思う。
少し高めのその声がとても通る。台詞の一つ一つ、単語の一つ一つ、文字の一つ一つが聞き取りやすい。すーっと耳に入ってくる。どちらの作品でも、声を張り上げるシーンがあったが、それでも聞き取りやすいのは不思議。
言葉を丁寧に発しているのだろう。そんな感じがした。
言葉を丁寧に発するのは意外に難しい。個人的な感覚だが、それらはまっすぐと前を見て、一つのものに対して真剣に接する。そんな印象をうける。
だからなのかもしれない。
愛須さんが演じると、まっすぐな役ほど印象的に残る。

そしてもう一つ。
これもどちらの作品に共通するが、驚くシーンでの表情。
今回は立花が恭二を襲うシーン。腰をぬかしてその場に座り込む凛。その時の表情が印象的だった。恐怖に怯えた表情ではない。純粋に驚いた表情だった。観ていたら、瞬きをすることなく、ただ、じっと、目の前で起こった事に対し、ただ驚いているのだ。
驚いた表情というのは、作り方ひとつでコミカルにもなってしまう。
前にみた作品では、自身が襲われたが、少し役が特殊で純粋無垢な少女。人の悪意を知らないような少女。襲われることに大して恐怖という感情が薄い。
今回は、自分が襲われたわけではない。でも、目の前で起きた衝撃的な光景。
恐怖は後から追ってくる感情。後からまとわりつき、人を怯えさせるから質か悪い。
ここでの表情は、まだ凛に恐怖がたどりついていない状態だった。
恐怖というものの本質を、実にうまく表現している。
この表情を観て、愛須さんのこれからの演技をもっともっと観てみたいと思った。全然違う役を演じた時、恐怖を与える側になった時、どんな表情と演技をするのだろう。
そんな風に感じ、応援していきたくなった。

この物語は、実に苦しい。自分の夢のため、支えてくれた恋人を捨てる清玄。それが呪いにつながる。娼婦となり、それでも命は紡がれ、樹へと繋がっていく。
呪いというと、そのものはなくなり、そしてその一族もそこで途絶えたような話が多いが、これは違う。それも明治時代というそれほど遠くない時代。呪いの元凶となった、いとの子孫が生きている時代。
自分のそう遠くない家族が、呪いの元凶と知った時、樹はどう思ったのだろうか。灯華との関係性からも、普通だったらなかなか受け止められない。

この作品、もう一度観たいと思った。なぜなら、もしかしたら関係性のところで見逃したのではないか、いや、直接的ではないが、伏線があったのではないかと感じたからだ。

いとの呪いを、樹が灯華から取り除くことができたはずだった。だが、実際は、樹が身に着けていたお守りが、そのままはね返して、灯華に載ってしまったということだった。それが原因で灯華は亡くなったと。
でも、そもそも樹が子孫だからと言って運命の人となり、呪いを解除できるのだろうか。
性別を変えた「代理愛」が成り立つからと言って解けてしまう程度の呪いだったのだろうか。確認したかったのはこの部分で、樹は誰の子孫なのだろう。もちろん、いとということは分かっている。でもそこに清玄の血は入っていなかったのだろうか。
清玄といとの子供の子孫であれば、呪いを解除できるのも納得がいく。
そしてそれを清玄も知っていたとしたら。だから、いとを捨てただけにした。
襲い掛かるほど、呪いをかけるほどに強烈ないとを、自分の子供を身ごもっていたとしっていたら、叩いて出てくる埃となっては困る、だから子を産む前に手にかけてもおかしくない。

もしそうだとしたら、清玄の最後の慈愛。でもそれは伝わることなく、呪いを生み、それは連鎖していき、慈悲をかけてくれたものの子孫を殺していった。
そしてまた、愛するものを呪いが命を奪った。
これを最哀と言えずになんというのだろう。
だが、最哀の果てにあったものは新たな命。呪いから解放されたであろう小さな命。それこそ最愛の果てに得たものだったのではないか。
最哀が最愛に変わったことは、冒頭の灯華が、亡くなった姿での明るい姿が示している。
樹の生活は物語では描かれていない。でも、命を失ってからでも、あれだけの笑顔を見せるのだ。どれだけ幸せな時間が流れたかは、言うまでもない。
冒頭での灯華の明るさ。これが、この物語のもう一つの最哀の果てなのだと思った。
そして子供を抱えた樹を、結局凛は助けて生きていくのだろう。凛は今でも樹のことが好きでたまらない。そう感じさせる姿にも、愛須さんが仕上げた。
愛須さんが演じると、その役のことを好きになってしまう。他のチームで演じている人がいるのもわかっているが、愛須さんの演じた役を観てしまうと、その役のイメージが壊れてしまいそうで、どこか観るのが怖くなってしまいもする。
これもまた魅力の一つだろうか。

そして劇団ココアさんの作品は、エステリーゼも含めてまた観たくなる、というか継続して観ていった方が面白いだろうなと思うものばかり。
また愛須唯さんを劇団ココアさんで観たい。


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