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舞台「月虹乙女!!」感想

「好きなものを好きと言えないのはおかしい」
これが最初に心に刺さった。今、自分たちは「好きなもの」を見たからこそ、この感想も書ける。だからこそ、よりその言葉が強く深く刺さる。

当たり前が当たり前じゃない時代を描いた作品。戦時中の作品。多くの作品が作られ、たくさんの作品を目にしてきた。
爆弾で人が死ぬ、戦闘機で突っ込む、上官からの仕打ち、非国民と呼ばれて拷問を受ける。
多くの作品で悲惨さが表現され、また、戦争によって見えてくる人の狂気の部分が描かれる。

でも、この作品は違う。
日常を描いている。戦争による大きな事件らしい事件は起きない。脱走兵が出たり、盗みを働いた子供が殺されたり、そんなことはない。憲兵も言葉だけしか出てこない。
あくまで月島の町の出来事。一番権力を持っているのが組合長。そんな小さな世界。
でも、それが多くの人が住む世界であり、日常・「当たり前」の世界。

そこでの出来事を丁寧に描写することで、戦争というものがどういうものかが身近に感じる。

たくさんの爆弾が降ってきて、銃を持った兵士たちがいて、今では考えられないような日本人同士の傷つけ合いがある。そんなよく見るシーンは、分かりやすく戦争を表現しているが、実感できるかというとその意味合いは少ないのかもしれない。
何しろ、そんな場面に遭遇したことがないのだから。
それどころか、ゲームで銃器を持って闘うことがかっこよく見えてしまう。

ところが描かれるものが日常だと、これほど身に染みてしまう。それは戦争でなくても起きうるようなこともあり。戦争が身近な人もおかしくしてしまったと思わせたかと思うと、「あの人は真面目なのよ」という一言。
妙に納得してしまった。

今回、戦時中の日常を中心に描いたことで、浮き上がったのは人間関係の変化。これは、この数年のコロナ禍での出来事に酷似している。
特にエンターテイメントが戦争中も自粛しなければいけない風潮になったところ。今よりも娯楽が少なかった時代。だからこそ、落語のようなものは多くの人に人気があった。それなのに、「不謹慎だ」と言われる。
こういう辛い状況だからこそ笑おう、そのために娯楽は必要という考えと、娯楽など不謹慎という意見が対立する。

コロナ禍の時も同じことが言われた。演劇はもちろん、あらゆるものが中止になった時、「こんな時期くらい当然だ」と言う意見も多かった。
しかしそれに携わっている人たちにとっては、先の見えない「失職」の時期。そういうことを経験した人たちが、今回の作品を演じているのだから、その思いは強かっただろう。それが、この作品の厚みを増し、台詞に強さが生まれていたのではないかと思う。

そして最初に痺れた演技を見せてくれたのが、水谷千尋さんだった。
これまで何度も色々な役も見てきたが、今回、望遠鏡のところでの長台詞は圧巻だった。
他にも見どころはあったが、ここの印象が強すぎる。
親が子に物を贈ったというところから、大和撫子の話に。
望遠鏡を差し出せと手を伸ばしたのは組合長だった。そして親の話になり、組合長と婦人会長へ、自分たちも親なら分かるのではないかと訴える。そして最後に大和撫子の話。
人の真意を汲める、それが大和撫子ではないかと。
いつの間にか、対象が婦人会長になっている。普通なら、組合長の裏にいる強者は婦人会長だから、と打算的に考えてそういったように考えてしまうが、水谷千尋さんが演じると不思議とそうは感じない。そんなことはなく、純粋に、自分の考えはどうなのかとと問うているようにしか見えない。
「教えてください」の下りは、だいぶ昔に再放送で見た、教師主役のあるドラマを思い出したが、それに匹敵するくらいの強さがあった。
これまで、水谷千尋さんと言えば、普段が元気で笑顔の分、泣くシーンでの演技は印象強かったが、そうではないシーンでの姿にここまで感情が揺さぶられる演技を見せられたのは初めてかもしれない。つまり、普段の姿とのギャップによるものではない、「水谷千尋」という存在を完全に忘れるほどの「琴原咲」がそこにはいたのだと思う。琴原咲が琴原咲を演じていた。そんな感じと言えば伝わるだろうか。

そして、この乙女シリーズでの活躍が記憶に新しい崎野萌さん。

作品は日常を描いた中で、それほど戦火にまみれたものは出てこない。そんな中で、唯一と言っていいほど、戦争の悲劇を経験したのが、崎野さん演じる喜美。
目の前で家族や友人が燃えていく姿を目にすることなど、生涯経験することがないかもしれない。そんな光景を目の当たりにした時、人はどうなるのだろうか。
日常では経験できない、そして作中の中でも描かれていない非日常を、虚ろな状態になった喜美として表現されていた。
「うつろな表情で」とは、よくある表現。しかしそれを体現する、というよりも、これこそがうつろというものを、崎野さんが見せてくれた。
「虚ろ」つまり、「から」の状態。喜美は、まさに何も入っていない状態で、身体はただの器。電池で動くことだけはできるような人形。これが人間なのかと思わせるほどの恐怖も感じる。それだけでも、もう凄かったが、今回、特に凄いと思ったのは、組合長が一億玉砕宣言を発表した時。発表している時、全員がその言葉に驚き、組合長をじっと見つめていた。喜美も最初はそうだった。ところが途中、1人だけ視線を落とした。その後も表情が動き、1人だけ感情が表現されている気がしていた。
そう。他の人たちは驚くことしかできず、まるで人形のように表情が変わらないのに、それまで人形のようだった喜美が逆に感情を出していた。

配信で詳しく確認したところ、国民義勇隊として動員されるという部分からだった。そして戦闘にも参加できるというところで再び顔をあげ、また視線を落とした。
喜美は燃えている人間を見ている。他の人たちは燃えた後の人間を見ている。この違い、見ていることしかできなかった無力だった自分を知っている喜美とそうでない人たち。このシーンでの萌さんの演技は、それを象徴しているのだと思った。
その一方で、戦闘にも参加できると発表になった時も逆に唯一視線を落としたのは藤井菜央さん演じた若菜だった。一番若い役だけに、やはり、戦闘という言葉には恐怖しかなかったのかもしれない。
そうなると、あの時の喜美はなぜ顔を上げたのだろう。仇をとってやるという思い、それが何の意味があるのかという思い、あるいはその両方。
最初、玉砕という言葉にもひっかかるものはあったのだろう。何しろ、何もできずに命を奪われる仲間を見ているのだから。

そしてこの喜美が感情を取り戻す過程も本編では、そこまではっきりと書かれていない。もちろん、感情を取り戻すことになるきっかけのシーンは色々な場面で描かれている。これも決定的な大事件が起きて・・という展開ではなく、出逢いを含め、描かれていない日々での時間が、喜美の心を救っていったのだと描いているのだと思う。この作品で描かれる戦時中の日々。そこには人としての繋がりや絆もちゃんと残っていたんだと見せてくれた。
そしてその変化を、萌さんの表情で見せ、時間の経過も教えてくれる。他にも、スポットライトの当たっていないシーン、台詞もないシーンでの仕草や表情、この辺りが秀逸だった。

葵が肺がんで亡くなるのも、最後まで「日常」だなと思った。戦争による爆撃や、戦火で受けた傷が原因ではなく、家系によるものだと推測される肺がん。
戦争というものは確かに多くの人の命を奪う。しかし、それを切り抜けても、人には死がまとわりつく。戦争を生き抜いて、これから盆踊りも楽しめる安心な日々が帰ってくるのかもしれないと一縷の望みもある中での死。戦時中をテーマにしながら、戦争による直接の悲劇ではなく、戦争が奪う間接的なものを描く作品。
人とは何か。人はどうして変わってしまうのか。
そのテーマの一つに使われたのが戦争だった。

少し前は、戦争も今までよりも身近に感じた。でもそれもまた薄れてきている。
その前は、コロナで同じようになった。人が変わるのを目の当たりにした。今思うと、真面目過ぎる人たちが「警察」の代わりになったのかもしれないと思う。

コロナ禍で、人間関係がぎくしゃくしたり、希薄になる中、娯楽は自分の心を救ってくれたと思っている。
それは葵たちの考えに通じるものがあった。でも婦人会長のいう言葉も分かる。心から楽しむためには環境も必要なのだと。
コロナ禍で苦しい中でも演劇を続けてくれた人たちもいて、配信という新たな形も浸透した。おかげで行けない公演も観られるようになった。そこには、クリエイターとして創りたいものがあるのも当然だが、生きるために、仕事を失わないために公演を続けてくれた人たちもいると思う。
戦争の時は、自分の仕事などしないで国のために働けという前提があったから、「生きるため」と言っても娯楽を創ることは許されなかったかもしれない。
でもコロナの状況は違った。だからこそ、決して「安心して楽しめない」状況でも、楽しめたと、救われたと言えたのかもしれない。なぜなら、そんな状況でも、「好きなものは好き」と言えたのだから。

戦争は人を狂わせると良く言うが、もし本当に全員が狂っていたらとっくに国はなくなっていた。花山家のように、うるさいと言われても、不謹慎だと言われても笑っているような人たちが、実は「娯楽」の役割をして、人々の心を救うのではないか。笑うことは大切。それには人と人とのつながりが大切。そんなことを考えさせられた作品でした。

乙女シリーズは本当に良い作品ばかりで、今だからこそ、全シリーズ見直したくなった。期間限定、配信動画を有料販売で公開してくれたら・・と思ってしまう。
次の作品も期待して待つことにしよう。

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