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舞台「The End Of 通勤急行大爆破」感想


Aチーム観劇。

通勤電車。身近な存在。色々な舞台を観てきた。自分の環境などとリンクし、心を動かされる作品もあった。リンクしなくても、自分に置き換えて、切なくなる作品もあった。
通勤電車。こんな身近な存在。生活に密接している。それでいて無機質。あって当たり前。そこに感情はない。
身近なものでも自分の好みで選べるものは多い。衣食住の3つをとっても。でも、通勤電車は違う。いくら自分の乗る電車が気に入らない、あっちの方がいいなって思っても、必要であれば選択の余地はない。ましてや満員電車のストレス。身近すぎて忘れていた。でも、異常なことだった。

その無機質さを表すのが、最初、「がたん たたん」という演技。効果音などたくさんある。事実、開演前には電車の音が流れていた。ところが、本編だと、「音」を演じるのは役者たち。
そして、その表情の「無」。完全なる無表情。それが、ああ、あの満員電車だ。そこには感情などない。嫌だという感覚すら捨てないと乗っていられないあの満員電車。
それがあの無表情で表現されていた。
自分が座っていた席から、一番よく見えたのは沖田桃果さんだったけど、その無表情さにぞっとした。
効果音が終わると、途端に満員電車でのストレスが再現される。でも、全員が嫌な顔、苦しい顔をしているわけではない。これが日本の満員電車。何でもないよって顔をしてる。

そして突然の死体。後から冷静に考えたら、満員電車であんなことになったら、ホント、トラウマ。もう乗りたくなくなる。というより、乗れなくなる。だから、人身事故の瞬間とか、本当に遭遇したくないと思ってる。

そして描かれる通勤電車の実態。ここが本当にリアル。物語はコロナが終わった後という設定なのに、起きていることは今、まさに起きていること。
昨年、緊急事態宣言が発令されて、時差出勤やテレワークが推奨された。私が務めている会社も時差出勤と、一日半分の人数のテレワークを実施した。
それでもそこまで電車は空いてなかった。そして慣れた今年、緊急事態宣言が出ても、電車は変わらない。
余談だが、昨年の段階ではテレワークの準備ができていないのもあり、自宅だとできることが限られた。でも、これじゃいけないと思い、色々とできることを増やした。会社が用意してくれない設備面は、自分が技術でなんとかした。結果、先月までのテレワークでは、ほぼ会社と変わらない仕事ができた。そして思ったこと。周りから聴こえてきた声。
「通勤時間、無駄じゃない?」
色々と外の声を聞くと、同じような意見が多い。だけど、それを上の人たちが理解しない。「どうせテレワーク・在宅勤務は遊んでるんだ」
自分たちができないから、若い人たちもできないという認識。
そして止められていくテレワーク。
真実に気が付いた人たちは、それが新たなストレスになり、通勤自体に抱えるストレスが増えているのが現状。
でも、変わらない。それが日本。

今回の作品でも、一時期、通勤を見合わせたり、時差出勤になっていたけど、少し落ち着くとまた元に戻っている。しかも、電車の中で人が突然死ぬという異常事態にも関わらず。
ここに恐怖を感じた。何より、人間の怖さ。
人が死んでも、もしかしたら次は自分かもしれない。それなのに、通勤電車に乗って通わないといけない状況。会社の上の人が動かないと、テレワークできない。その通り。だけど、命がかかっているのに。コロナとは違う。目に見えた恐怖がある。コロナはかかっても助かる可能性がある。でもこの話は目に見える恐怖。
でも、やっぱり、この作品の通りになるんだろうなあ。自分はどうせ大丈夫。それが本質にある。どんなことでも、一体、人は、自分の周りで何人が死んだら、自分のことととして真剣に考えるようになるのだろう。そんな事を考えてしまった。

そしてもう一つ。渥美が問われた「どうして正社員にならないのか」という質問。
数年前に派遣切りが世の中を騒がせたとき、企業は叩かれた。企業イメージがあるから、反論もしなかったけど、本音は「こういう時に切りやすいように派遣を雇っているんだ」と思っていたはず。「派遣も自分たちにとってメリットがあるから派遣でいるんだろう」という意見もあったはず。そういう人たちもいるだろう。渥美がまさにそうだった。
もちろん、正社員になりたくてもなれない人もいるだろうけど、なれるのにならない人もいる。それを、この作品では「逃げ道」と表現していた。
正社員が正しいとか、そんなことをいうつもりは全くないし、仕事をしっかりこなすなら、むしろ関係ない。それは年齢も関係ないと思う。
でも、派遣という立場を「逃げ道」として使っている人もいる。でもそれはなかなか言えない。なぜなら、派遣は「弱者」という考えがあるんだと、社会が無言で言ってしまっているから。そもそもその考えが派遣に対して失礼な気もするけど。
本当は、働き方の違いで、自由に選べるべきものなんだけど、どうしても優劣をつけたがってしまうのが哀しい。
そしてこの作品では、その「逃げ道」が大きく関わってくる。
「逃げ道」を持つ渥美と、「逃げ道」を捨ててしまった稲場。
途中、分かり合える要素の合った2人が、結局、道を違えたのは、ここに大きく起因している。

「定年まで続く地獄」
逃げ道がなくなった稲場は、よけいに苦しむ。辞めてしまえばいいのに。満員電車に乗らないで済む仕事にすればいいのに。でも、その選択肢が考えられない。
きっとそれは、なんだかんだ言っても仕事が好きだから、ただ通勤電車が嫌いなだけ。
満員電車は慣れれば大したことない。でも時々、足を踏まれたり、作中の様に大きな咳をしたり、バランス崩して倒れてきたり、色々。
「どうもじゃねーよ」という言葉があるけど、本当にそう。「どーも」でも言うならまだまし。それが今の満員電車。友達と乗っていても会話すらできない。会話したらうるさいって目で見られる。コロナで不要な会話はお控えくださいっていうけど、それはその前から。
思いやりのなさ。それが満員電車をストレス電車にしている。

「がたん たたん」という時は無表情だった。でも、それが終わっても、ほぼ表情が変わらなかった。全員が能面のような、感情を一切殺した演技。でも、それはまさに真理。
あんな顔をしている。その姿はまるでロボット。それも、半分壊れかけたロボット。
自分もその中にいたかと思うとぞっとする。幸い、今はさほど満員電車ではないので。

そして、この作品は、こういうところが本当に緻密に精密にできている。一人ではない。全員の演技が一つになり、時には長く続く周波数の様に繋がる。
もちろん、それは他の作品でもそうなのだろうけど、この作品は特にそう。
さっきの電車のシーンも、一人一人の目線の位置も計算されているのではないかと思うほど。どこを見ても、怖さしか残らない表情。
個人的には「がたん たたん」がこだわりあるのかと思った。他の人の感想でもあったけど、やっぱり電車の効果音は「がたん ごとん」が多い。「がたん たたん」は珍しい気がした。
「たたん」という言葉の意味まで探ってしまった…。

そんな現実を目の当たりにさせられているのに、「この世のものではない」ものが、そのままの服装で、いたる場面に出てくる。それこそ、アンサンブルのように、色々な役割を果たしているのだけれど、その非現実的な世界が、また演劇の世界へと戻してくれる。
と思ったら、厳しい上司の叱責。でも、裏ではしっかりと評価をしている上司。
組織には嫌われ者が必要。その役はみんなやりたがらない。
その姿を見ていると、また現実に引き戻される。
それを繰り返しているうち、もう、目が離せなくなる。
現実と非現実をさまよっているときに、この世界は誰かの夢だと言われる。
絶妙なタイミングでの一投。
自分が今いるのは、誰かの夢なのかとすっと受けいれてしまう。そこまでの受け皿を、見事に作られていた。

この作品には、伏線がたくさんあって、大きな仕掛けがあるというわけではない。複雑に見えるけど、冷静に考えればそこまで複雑ではない。
でも、その錯覚を起こすのが、最初の「がたん たたん」から始まる現実と非現実の繰り返し。これが大きな仕掛けなのかもしれないが、この仕掛けは凄く難しいだろうし、演じる側もほんの少しでも間を間違えたら、見ている側の錯覚が崩れる。
だからこそ、緻密で精密な作品だなと感じた。

今回、注目していたのが三姫奈々さんだった。以前の芸名の時から名前は覚えていたけど、その魅力に惹きつけられたのは昨年の舞台。そして今年、撮影会で初めて会ったけど、きちんと最初から認識して観るのは初めてだった。

終わっての印象は、率直に「すげー」と思った。軽く見えちゃう表記だけど、本当にそうだった。可愛くて元気な役が似合うイメージだったけど、今回はそんな単純な役ではない。
偲をサポートし、助けている。
最初に気になったのは、お店で「三名様ですね」のくだり。「ウソはついてないです」という断言。おかしいなと思っていた。そしてその能力が分かるのはもう少し経ってからだけど。
そしてカフェでのシーン。
実は、演じていた加東倫ではないかと思った。それまで、偲といた時の印象と全く違っていた。淡々と、いや、最初から不機嫌そうな顔と声。
台本見て、倫だったと気が付く。
となると、一つ疑問が。
あの不機嫌なのは、心を読んだことによるものなのだろうか。2人が刑事だと知り、不機嫌そうだったのだろうか。
そして後に繋がるランチタイム。刑事2人は倫と会うけれども、そこで「全員揃っている」として質問していくけど、カフェではなぜ質問しなかったのか。全員揃わせる必要があったのだろうか。
ここの真実に、三姫奈々さんの演技の真髄があるような気がしている。これはもう一回台本を読まないと見えてこないかな・・。
それにしても、別人に思わせることが目的でないとしても、その変化に驚いた。怖い役とか似合わなそうだなって思ってた。なかなか面白い。

それと次に、倫の過去の話。「バイバーイ」のところ。あの「バイバーイ」は、言い方は軽いけど、もう会うことはない別れ。声は高く明るい。カフェの方がよほど暗く迫力がある。
でも、ここではこのトーンと、あの表情が正解なのだろう。
「哀しさ」の表現がそこにはある。そして、ここでは3つの例しかなかった。でも、この別れは、子供のころからなんだろうと察する事が出来た。いつから能力があったかは明確ではないが、長いこと別れを繰り返し、期待しては裏切られ、いつの間にか別れに慣れてしまった。だからこその、あのトーンと表情。あのシーンだけ見ても、倫のバックボーンが感じ取れる。それを表現しきったのは凄い。

それと倫の最期、あの脱力感も好きだったなあ。椅子に座っていたから、派手に倒れることはできない中で、腕が力なく振れる姿。糸がきれた操り人形の様だった。

あと、沖田桃果さんの「つくりものの目を気にしてきたんだ」という場面。まさに見せ場なのは分かるんだけど、それにしても、完全にあの瞬間、あの時間、あの空間を喰ったという印象。あの瞬間、地震が起きても気が付かなかったかもしれない。そのくらい、他に何も見えなかった。沖田さんは圧巻だった。
あまりにこのイメージが強すぎて、次に見る役が楽しみで仕方がない。

今更だけど、DVDは来るの分かってるけど、Bチームも見たくなってきた・・。時間作って見ようかなあ。

なにより、細川さんの作品は、照明が好き。深海にいるような感じを受ける。深海に潜ったことがないから言えるのだけど。サンサーラでも感じたけど。
こういう照明の使い方と音楽が本当に要所要所でしめてくれて、観た後の満腹感が半端ない。それなのに、おかわりしたくなる。
今回の作品も、リアルとファンタジーの境界線を融合させて新しい世界がそこに生まれている。どちらの入り口から入っても、また同じところから出られる。でも、そこは同じはずなのに少し違う出口。でも、自分ではそのことにすぐに気が付けなくて、それが小さな心の変化で、ずっと心に残る。
自分には到底思いつかない世界観なのに、どうしても好きでたまらない。
また次が楽しみ。

そして最後に。アイガクで初めて知り、演技を見たことなかった人もたくさんいた。まだ観てないBチームにもいる。とてもじゃないけど書ききれなかったけど、演技を観れたことで何となくまた親近感も沸き、またアイガクで観るのも楽しみだなあと思った。相乗効果が生まれるのはいいことだと改めて感じた。

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