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舞台「DUST STATION」感想


タイトルからひかれていた。
きっかけは、崎野萌さんの出演があったからだが、この「DUST」が人間を意味しているのか、それとも、本当にただのゴミの最終処理場を意味しているのか。
 
人間を意味していれば、当然、一人一人がDUSTになった背景があり、闇深い物語になりそうだと感じていた。以前、自分が書いた小説に少し近いテイストがあり、そっちを期待していた。
一方で、最終処理場であれば、もちろん、ただのゴミではないだろうが、そこにいる人たちの人情などが描かれる・・。それはそれで、気持ちが温かくなるかもしれないとの楽しみを持っていた。
最終的に、「STAR DUST STATION」となるが、納得できるところだった。
 
物語は、夢の中の話から始まる。チルとサク。この夢の中でのチルは、笑顔で可愛い。この作品の中では、唯一と言っていいほど、素敵な笑顔が見られるシーン。現実に戻ると、チルは感情をなくしたようになる。それこそ、ロボットの様に。
対してサクは、ロボットに見えないロボット。より人に近い。怖いのが、人の形をした器ということ。どう育てるかで思想から何から全て変わる。
人に近いロボットは理想かもしれない。これから先、一人で孤独な高齢者が増えてくるかもしれない中、その相手をしてくれるロボットは寂しさを解消し、人間らしい生活を与えてくれるのかもしれない。
だからこそ、器に入れる教育が、教育者の存在は大きい。
 
配信でも観て思ったのは、そもそも、ロボットは夢を見るのか?  という点。劇中でも、チルとの夢を見たとサクが言った時、慌てる描写があった。
夢を見るという理由、諸説ある中で、起きている時に得た情報を、寝ている間に脳が整理するからというものがある。
もしそうならば、サクの脳は「CPU」ではないのかもしれない。いや、CPUが夢のメカニズムを理解し、見せているかもしれない。
いずれにしても、その”処理”は、人間のそれであり、人間と変わらないということ。
人間の多くの感情のパターンを理解し、そしてそれに合わせて答えを導くことができるCPUを持っていたら、人は心から操られてしまうかもしれない。ロボットが人間に近づく。その怖さは、ここにあるのではないかと感じた。
 
そして、現実に戻った時のサクとチルのやりとり。
チルの方がロボットではないかと思うほど、感情が欠落している様に見える。
「なぜ人間は死ぬのか」→「チルも死ぬの?」→「人間はつまらないもの」
そんなやりとりは、まるで自身が人間ではないように見せながら、「チルは死にたくない」と感情を露にする。
そして「死んだらダメだよ、悲しいから」「チョコレートが食べたい」と、数少ない感情を見せる。
チルが死にたくない理由。それは涙が枯れたから。元に戻るか分からないが、待つしかないから。自分がいつ死ぬかわからない、そしてその死までに涙が戻るか分からない。だから、永遠が欲しい。
最後に大きな感情を表す。
感情がないようなチルは、感情を戻したくて永遠を求める。それが一番の感情「欲」とは気が付かずに。
 
チルがDUST STATIONに来た理由は明確にされなかった。ただ、後半部分、一度目のサクとの出会いで、だいぶ感情を取り戻したという描写があった。
そこから察するに、DUST STATIONに来た時も、チルは程度の違いはあるにせよ、感情を失っていたのかもしれない。
 
そう考えた場合、冒頭の夢は、一度目のサクとチルの現実が、夢となって現れたものではないか、そんな事も考えつく。
 
今のチルは2度感情を失っているのだとしたら。
冒頭のシーンは、一度感情が戻った時の姿だとしたら。
そこには演じる上で差が生じる。どう差をつけるのだろう。
 
劇場では一度しか観られなかった。そんなことを考え、配信でも観劇。
チルを演じるのは、最近、立て続けに主演も務め、演じる役の脚本”外”の部分を見せてくれる崎野萌さん。
 
チルには感情があった。それが欠落した。
そうなると、ただのロボットではない。一度感情を入れたチルを作り上げ、そこから感情のみをそぎ落とす作業が必要になる。
もし、2度感情を失っているのであれば、今のチルを演じるには、2度、それも一度戻った感情を更にそぎ落とさないといけない。
 
それが出来なければ、ただの無表情のチル、人形になってしまう。無感情なのに感情移入させる。そんな演技が求められる中、崎野萌さんをキャスティングしたのは、さすがだなと思った。
その理由は、前述した通りなのだが、今回も素晴らしかった。
 
崎野萌さんを初めて観た頃、舞台で無表情の演技をするシーンがあった。
その作品はコメディだったが、この頃、与えられる役も可愛さを売りにした様なものが多かった気がする。
それだからこそ、無表情で淡々とロボットの様に掛け合いをする姿は、観ていて面白く、それはそれでとても良かった。
その経験もあるだろう。だが今回は、感情が落ち、無垢に近い状態となっている。その雰囲気は、子供が時折見せる残酷さにも通じるものがある。いや、そうしないとならない。ある種の恐怖を観る人に感じさせ、チルは完成する。
まさに、その姿となっていた。
一見すると、笑いになってしまうが、それだけではない。その雰囲気を醸し出していたのは、やはり、あの瞳だろうか。
 
視線が一点に集中している。
誰かと話すとき、何かを見ているとき、視線が動かない。目をそらさない。
人はどうしても、目を離してしまう。なんとなく気まずかったり、恥ずかしかったり、特に人と目が合えば視線をそらしてしまう。
そもそも、心理学的にも、視線を外すことが効果的とも言われる。ところがチルは違う。無邪気な仕草をしながら、視線はずれることがない。
おそらく、意識的にやっているのだと思うが、それが少し怖さを感じさせる。無邪気が故の怖さ。
思えば、子供もそうかもしれない。じっと見つめている。見つめられる。
あの視線が、まだ”何か”が入る前の無邪気でない怖さを演出していたのだと思う。この辺りは、さすが、崎野萌さん。
 
 
そして対比される人間らしいサク。チルが怖さを垣間見せることで、サクはどうなってしまうのだろう、優しいサクが大きく変わってしまう、化けてしまう。そんなことを暗示している様に見せている。そんな気もした。
 
そんなチルだが、一つ気になっていることがある。
チルの兄の存在。そして度々出るチョコという言葉。加えて麻薬常習者の存在。
 
チョコを出すのは、チルの兄であるラベン。
最初に出てきた時、チョコを出し、それはダメだと言われる。その後、ブドウ糖の説明をするが、あそこで「チョコ」をダメだとまでいうことが、少し違和感を感じた。
 
そしてチルを見つけた時もチョコを出し、無造作に落として取りに来させようとする。落ちているものを勝手に食べたらダメだという描写もあるが、それはクコに対してだった。もちろん、一種の伏線として捉えられるが、そうなのだろうか。
あれは、本当にチョコだったのだろうか、と思う。
チョコが表す隠語から察すると、あれは、覚せい剤だったのではないか。それならば、落として「取りに来い」というのも分かる。
麻薬常習者のクロバこそが伏線。
途中、チルが「チョコレートが食べたい」と言う場面があった。何も知らなければ、そのままの意味だろう。涙とともに、記憶をなくしたと思われるチルだが、心のどこかに「チョコレート」を欲する自分がいて、何も知らずそれを聞いたシャガは、そのままの意味のものを渡した。・・・もしかしたら、知っていたかもしれないが。
 
そしてチルが一度目、家族の前から姿を消した理由がそこにあったとしたら。そうしたのは兄だとしたら。
苦しみ、苦しみ、それがチルの涙を枯らした理由だとしたら。
DUST STATIONに来たとき、感情がなかったのは、それらが原因だとしたら。
そしてその状態が続いているチルを救ったのがロボットのサクだとしたら。
チルに対する気持ちが大きく変わる。
 
勝手な妄想に過ぎないけれど状況的には考えられる。
崎野萌さんの描いた、DUST STATIONに来る前のチルは、どうだったのだろう。
公演後に話す機会があったが、書き途中だったため、聞かなかった。
今度会う機会があったら、インタビューしたい。
 
 
さらに、ダストステーションで育ったという姉妹、ユウとクコ。この二人がまた、子供の様に見える。チルとは違うタイプの子供として描かれている様に見えた。ダストステーションは終末の場所。そこで育てられた者が、無垢な存在として描かれる。悪意というものと縁がないように見える。
現実世界では、終わりの場所と言ったら決してイメージはよくなく、犯罪もはびこるような場所。それがここでは違う。
終盤、逆に外の世界、つまりは我々がいる世界へ飛び込もうとする二人。
それを心配する周りの大人たち。
それは、外の世界が悪意に満ちているということ。それを身をもって知り、悪意に殺された者たちが堕ちてきたのがダストステーション。
 
この「悪意」というものが、この作品を全部俯瞰してみると、とても印象的に描かれている。
ダストステーションには悪意はなかった。それは姉妹が証明している。クズどもがくる場所と形容もされている。
外の世界で弾かれたものがくる場所。それはなぜか。どうして弾かれたか。
一人一人考察してみたいところだが、共通するのは、そこには「悪意」があるから。もしかしたら、悪意を持っていたものがいるかもしれない。でも、それでここに逃げてきたわけではないように思う。殺人犯というのも、何から逃げてきたのだろう。人の悪意で心がつぶされ、それでもう戻れなくなり、歩き続けた結果、行き止まりにぶつかった。
そしてそこには、色々な形で悪意に殺された人たちが来ている。
傷のなめ合いではなく、悪意の怖さを知っている者同士だからこそ、悪意のない姉妹を見て、憧れ、守りたくなる。
この場所のDUSTは、悪意を指すのではないかと思う。
悪意をここに捨てることができたら、そして心が救われた人間は、クズではなく、輝く星屑となり、再び外の世界へ降り注ぐ。
そんな意味があり、STAR DUST STATIONと呼ばれている。
そんな事を思った。
 
だがそこに、悪意が入り始めた。それにより、安全だった世界が脅かされる。そしてその悪意の脅威、これをチルを通して見せてくれた。
 
チルを殺すことで起きるサクへの反応を見たい。本人にとっては何の悪意もない。まだこれを「必要悪」としてとらえていたら良かった。だが、そのつもりが全くない。とにかく純粋に、目的のために、チルの殺害を遂行したい。
計算されて作られた悪意より、純粋な気持ちから作られた悪意の方が、より怖い。
だからこそ、チルはあれだけのおびえ方をした。
チルが感じた純粋悪。
心の壁を壊すほどの恐怖。本能で逃げないとならないのは分かっている。
人の感情を読みとれないように見えていたチルが感じ取った悪意の塊。
チルの怯え方が、一挙手一投足が、観ている側に恐怖を伝える。
 
そしてその恐怖は、少しずつ、でも確実に我々の心を揺らしていく。揺さぶられた感情はなかなか収まらない。
そしてサクの「チルの涙は枯れていない、あげる、あの時みたいに」という言葉に、記憶が繋がった表情のチル。
チルに感情が戻った瞬間。この時の表情は、如何様にもできると思う。でも、この時の崎野萌さんの創り上げた表情は凄く好きだった。それまで点と点にもなっていなかったものが、一気に繋がるその瞬間の顔。
遠くの席からだと見えなかったかもしれない。でも配信ではしっかりと捉えてくれていた。何度も観てしまった…。
 
そして倒れたサクを抱え、「ヤダよ・・・」と続くわけだが、ここでの声はトーンが上がり、起伏が出る。感情がある、人間の言葉。そして視線も、一点ではなく、動いているように見えた。感情が入ったチル。でも、冒頭の楽しそうなものとか対極の感情。だからこそ、また違う姿に見える。こういう細かい演技をするから、それ見つけるのが楽しいから、崎野萌さんの舞台は観に行ってしまう。
 
最後に。
1stはキブシ、2ndはサク、でも、サクは一度壊されて、今のサクは2回目の人生。今のサクは、3rdと呼んでもいいような存在かと思っていたが、最後に、やはり、2ndなのだと思った。
そしてチルも、最後の瞬間、最初のサクとの時間を取り戻したことで、2回目の感情をなくした事はなかったことにできたのかもしれない。
ロボットは間違いを犯さないとサクは言った。でも、人に近づきすぎれば、自分がロボットということを忘れてしまったら、それは人間で、間違いを犯す。
サクは間違いを犯しても構わないから人間になりたいのだろうか。それとも、間違いを犯さないで永遠を持つロボットのままでいたいのだろうか。
もし、後者を選んだ場合、人の感情を持ってしまったら、愛する人を見送り、なお、自分は永遠に生きていくとしたら、耐えられるのだろうか。
死とは何か。
そんなフレーズが劇中にあった。
人の憧れと言われる不老不死。それはロボットになるのと同意義なのだろうか。
チルは、最後、感情を取り戻したチルは、変わらず永遠を求めているのだろうか。涙を取り戻したチルは、もう永遠を求めないのだろうか。チッテいくことを望むのだろうか。
 
劇場で観て、配信で観るうちに、その深さにどっぷりとハマってしまった作品でした。


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