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禅の響 - ZEN no OTO-

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「禅の響 - ZEN no OTO -」は2020年10月から始動した年4回行われるコンサートです。 ここに、言葉と音のアーカイブを残します。 尺八の音は音楽ではない。   …
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#呼吸法

「禅の響 -ZEN no OTO- | 息観 」2万7000回の呼吸

息をみて 息をみて その人をみて 自分をみて 姿をみる  人間が1日どのくらいの呼吸をしていると思いますか。だいたい2万7000回だそうです。では皆さんは2万7000回のうち、どれだけ呼吸を大切にしていますか。実際には無意識に行われていますから、とても難しいでしょう。  僕は尺八を教える時、尺八を長い時間練習するよりも、日々の生活を丁寧にした方が上手になると伝えています。それには理由があります。その前に、皆さんは何か大切にしているものはありますか。物でも人でも言葉

「禅の響 -ZEN no OTO- | Epilogue」遊んでいたい

一つの終焉  今回のEpilogueは自分の知識で作らない音を求めました。それが、なかなか難しい。考えてしまいますし、音が出なくなるのも怖い。吹禅の最中に気が付いたのですけれど、そうした気持ちを外すのは、楽器と対話する事と遊ばせる心でした。  僕にとってもは、とても苦手な事ですが、遊び心というかユーモア、そして、それをしてみる恐れない心。そうしたものが新しい音であったり、世界観を作っていくのだなと思えました。  演奏後に記憶が過ったのが、小学生の頃の遊びでした。小さい頃

「禅の響 -ZEN no OTO- | 回向 」青く赤く

心は穏やかなままで過ごす事は出来ない。 生きる事は荒々しい。 それが活力であり、一つの道標でもある。 日々、一日の終わりに、今日はどれだけ苦しんだか自問自答する。 生きる荒々しさの先に初めて安らぎを知る事ができる。 もし、あなたが安らぎを必要としているのであれば、 より一層苛まれる事だ。  コロナ禍になり、より一層思う事は、生に執着する事です。まだ出来る事があると歯を食いしばりながら生きる。誰かのせいにも、誰にどう思われるのでもなく、しっかりと自分の足で生きていく事。  

「禅の響 -ZEN no OTO- | 三谷清攬」のらりくらり

自然を制覇したと酔いしれる人間よ。 それが、どれだけ浅はかな行為か知っているであろうか。 自分に喜びを与えるのではなく、 他人に喜びを与えるのではなく、 自然に喜びを与えよ。 もっと感謝せよ。 そうすれば、繰り返される些細な四季の変化だけであっても、心は十分である。 多くを求めず、じっくりと生きよ。 大切なものは、いつも手の届く範囲にあるものだ。  ここのところ、本当に強く、こうした思いを感じます。例えば、花を飾るとき、大抵の人は花屋で買ったり、咲いている花を切るで

「禅の響 -ZEN no OTO- | 心月」のらりくらり

「心月孤円 光呑万象」 心とは何か。 万象とは何か。 この世に明確なものなど一つも存在しない。 もし在ると言い切れるのであれば、それは人の傲慢さに他ならない。 生きとし生けるものは何の理由もなく、存在しているのだから。 そして常に複雑なものである。 安易にわかりやすくする事は、私にとっては、まだまだ、とても烏滸がましい行為である。    心というのは本当に不思議で、一つ境界線を作ると明確になるのに、真実が失われていくように感じます。両親への気持ちや、恋人、友人への気持ち

「禅の響 -ZEN no OTO- | 霧海篪」佇む心

私は大海原で濃霧に呑まれ、一寸先は何も見えない状態である。 波に身を委ね、無心で尺八を吹く。 海鳥のように、または生まれたての赤子のように。 浜辺にいる者は、そうした得体の知れない音に聴こえたかも知れない。 意図とは常に自身の思惑とは異なり、他者の心に反映されるものである。 そして、そうした偶然的必然が、“それ”を呼び起こさせる。  人生で何度、濃霧に包まれるような経験をしただろうか。私は失敗を恐れない傾向があるので、大抵、濃霧の中を漂っている。失敗から学び180度、生き

「禅の響 -ZEN no OTO- | 別伝 鹿の遠音」アバンギャルドな生き方

言葉でない伝え方ができるとしたら、 私たちの生き方はどうなるのだろう。 嬉しい時、怒った時、おかしい時。 動物からすると、人間の伝え方はどう感じるのだろう。 不自由、虚、無感情。 野生は心に溢れいている。 「別伝 鹿の遠音」は音源になっているものが少なく、またそれぞれが技術も含めて全く異なる曲となっています。別伝とありますが、通常の「鹿の遠音」と比べることが出来ない別の曲です。かなり前衛的で江戸時代に作られたとは思えないほどです。  推測するに、私が知っている曲とは全く異

口伝は守破離の自然体でできている。

 本来、古典本曲(江戸時代の尺八音楽)を吹禅する時、暗譜をして奏します。私は暗譜までに譜面や多くの音源、師匠との録音などを聴いて、身体に入れていきます。そうして稽古に打ち込んでいると、口伝について思いを馳せる事があります。おそらく、現代の演奏家は曲の譜読みを先にして、分析し、演奏する事が多いのではないでしょうか。それは最も合理的である意味、譜面が完成されているからとも言えます。私も古典本曲以外の練習方法はそうしています。が、そうともいかないのが、この古典本曲です。  もとも

まえがき

 今年の5月頃からぼくは実験的に始めた事があります。ブログを書くという事です。それとFace BookなどのSNSを再開しました。ぼくは演奏家の傍ら、環境の啓蒙活動や、これから話す地無尺八をライフワークにしていまして、持続可能的な生き方を目指していました。過度なPRなどをなるべく控えて。演奏家としてはかなり致命的な活動方法だったと思います。でも後々色々と見えてくる部分もあって、それはそれで良かったと思っているのですが。去年くらいから、そんな自分を深い底からひっぱり出してくれた