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直観か手法か 【エッセイ】

直観を大事にしたい、と常日頃おもっている。思っているだけで全く実践できていないのだが、文芸においても人生においても直観の大事さというものを幾度か味わってきた。

小説は書くものではなく向こうからやって来るもの、と言った散文フィクション研究者がいた。俳句とは言語以前の世界に一瞬で繋がること、と或る俳人は言った。また最近Twitterでは「方法ではなくひらめき」という言葉を見つけた。
こういう言説に僕は心の底から納得するのだ。

一方で文芸論・文学論の場で、よく練られた蓋然性の高い理論が面白いのも確かである。この場合は説得させられることになる。これはこれで貴重な体験であるし、汎用性・再現性という魔力も帯びている。

結局は何かに納得することになるのだが、速さが全く違う。つまり一目惚れか婚活かという話だ。首を傾げている読者を無視して話を進めるが、やはり恋は一目惚れなのではないかと思う。それが行く道として正しいかはさておき、刹那に大きな感情を衝撃として受ける、それこそが恋であり、ある種の文芸でもあるのだろう。


て蝶か病衣をさする手の無力

青田ぐ千の瑞穂が向く空よ

大空を一葉にして枯欅かれけやき

冬晴れのベビーカーから伸びる手よ


久々に自句を取り出してみた。どれも俳句サークルで良いと言ってもらえた句だが、一句を詠むのにかけた時間はどれも10分以内だった。一方で頭を掻きむしりながらああでもない、こうでもないと練りまくった句(鼻息荒く「どうだ!」と凄むような句)の大半は佳作にはならない。

俳句という最短定型詩だからか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
直観か方法かという二分法に当てはめるなら、最近連載を終了した『葬舞師と星の声を聴く楽師』は直観的に書かれた作品で、その前に連載していた『花の矢をくれたひと』は方法的に書いた作品だった。散文という形式だとそれが読者に伝わることはないかもしれないが、動機としては明らかに違っていた。長文の作品でもそういった事情はある。

直観讃美のように書いてきたが、実際には手法と時間なくして文芸は成り立たない。今はこの状態にいて、直観として感受するものがないわけではないのだが、それを作品にする時間と技巧が自分に備わっていない。こんなエッセイを書いている暇があるなら作品を書け、とも思うのだが、文芸にはどうしてもある程度まとまった時間が必要なのだ。

1日1枚、年間365枚、と言ったミステリー作家がいた。手法を重視するミステリーだからじゃないのか?と言い訳がましく批判したところで、僕に書く時間が舞い込んでくるわけではない。

直観として感受したものを形にする力が欲しい。そこに時間の概念も含まれるのであれば、なんとかそれらを相克できないものか。
そんな虫のいい話はないか、と諦めながら、しかし未練がましく、忙しない日々を過ごしている。

朝陽は美しい。それは刻一刻と変化する様を見ても、その段階を区切って見たとしても、美しいことに変わりはなかった。


殴り書きした雑文です。

#エッセイ  #日記

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