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クソガキのその後【エッセイ】

祝日の朝、普段よりもだいぶ遅く目を覚ましてぼんやりとテレビを見ていると、情報番組の中で中学受験密着というコーナーをやっていた。本日は初見だったにもかかわらず運命の合格発表の日で、結果は見事合格。本人の努力は相当なものだったろう。12歳という若い年齢にもかかわらず、具体的な夢を掲げ、そのステップの1つとしての中学受験。素晴らしいことだ。弾けるような笑顔が家族にもスタジオにも伝播していて、テレビの中のこととは言え、僕の頬も思わず弛んだ。家族総出でそれぞれが出来ることを絞り出し、受験生を支えたこともよく伝わってきた。

ここまでは手放しに喜べる話。ここから先は幸せに水を差す内容になりかねないので、読みたくない方はご退出ください。

かつて僕も中学受験というものを体験した。時代と地域のせいもあってか、受験をして入れる学校がさほど多くなく、倍率も高く熾烈な受験競争だったと振り返る。僕にも両親の支えや、塾の先生の指導、学校の先生の応援があって、見事合格を勝ち取ることができた。合格発表の日のことは今でもよく覚えていて、今日よりもずっとずっと寒い午前中に、両親と僕の3人で受験校に掲示板を見に行ったのだ。掲示板の周囲に群がる人々、その中腹まで近付いた頃にようやく合格者の受験番号を目が捉えられるようになった。合格……今日、情報番組で勝ち取った女の子と同じ状況だった。

ところが、僕はうまく喜べなかった。その時の気持ちは漠然としか覚えていないのだけど、親が「なんで嬉しそうじゃないんだ?」みたいなことを言って不思議そうな顔を浮かべていたことが脳裏に焼き付いている。天邪鬼列伝がいつ頃始まったのか定かではないが、12歳の頃から僕はこんな感じだった。両親も手を焼いたのではないかと思う。高校受験でもそんな感じだったのだが、この時は仲の良かった友人たちと離れてしまう寂しさもあったので、天邪鬼ということもないだろう。一度目の大学受験(僕は縁あって大学に二度行っている)の時なんかはさらに酷いものだった。このクソひねくれた若者の話が自分の過去だと思うと、さすがにどうかと思う。大学卒業時には国家試験があって、その結果を受けた後に、電話でバイト先の店長に報告した。「………………」「な〜んだ、電話の声が暗かったから落ちちゃったんじゃないかと心配したよ。おめでとう!」

そんな引っ叩いてやりたいようなクソガキだが、多分今の僕がタイムリープして言い聞かせたところで、ますますヘソを曲げるのだろうなと想像する。整理すると、過去の僕にとっては、世間一般に「喜ばしいこと」があまり喜ばしくなかった。それは主に社会が用意する通過点で顕著だった。じゃあ喜ばしいことを感じない子どもだったかというと、全くそうではなくて、様々なシチュエーションで喜んでいた自分を思い出す。ただ勝負事はあまり好きでなかった。受験に限らず、運動部での試合などもそうだった。

自分のやりたいことがよく分かっていなかった僕にとって、受験はただの勝ち負けゲームだった。12歳の頃には考古学者になりたいという夢を持っていたのだが、その夢を叶える道程に受験を置いて考えてはいなかったし、いつしかそれも漠然として霧散していた。受験戦争を勝ち上がれば人生の選択肢が増える、という意見もあるが、残念ながら僕は可能性の開けた未来をうまく想像できなかったのだ。社会の置いた節目を経るごとに、より窮屈になっていく感覚があったのだろう。

そんなつまらないアナーキズムだかペシミズムを飼い慣らせるようになってきたのは30歳を過ぎてからで、そのきっかけは思想哲学史を学んだ経験だった。普通に生活をしていると、周囲ではまともそうな人間が、まともそうな生活をして、みな従順に社会に適応しているように見えてしまう。そして、その範囲から外れた人は敗者か狂人としてしか見做されない(近年はだいぶ変わってきたように思う) でも実際はそうではないだろうし、歴史も決してそうではなかった。受験によって、すなわち偏差値の高い学校に行く事で選択の幅は広がるのだろうが、それ以上に人文学を学ぶことは自分の思考の解像度と自由度を高め、心に行き場を与えてくれるのだと思う。過去の自分に何か言えるとしたら「もっと本を読め」だろう。けれど多分届かないだろうな……

こんなことを書いていると、僕は自身のアナーキズム、ペシミズムのルーツを知りたくなる。しかしこれが本当に分からないのだ。ただ生来、物静かな子どもだったそうだ。もって生まれた性質だとしたら大事にした方が良い。今はそんな理念のもとで、破壊も遁世もすることなく、平凡に生きている。


#エッセイ #受験

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