2021上半期自句/小エッセイ「体験ベース」
2021年の上半期、1月から4月まで句会に参加させて頂きました。その後はしばらくお休みしていたのですが、先日主催のKusabueさんが総評をして下さり、上半期の一句と佳作としていくつか選出して頂きました。
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大空を一葉にして枯欅
吹いてまた吹き荒れてまた淑気立つ
紅梅の一本が張る結界か
春暁の連れてきた語を書き留めて
初桜この日散りゆく人もいて
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昨年の句作も含め、選ばれた句たちを眺めていると「実体験に勝るものはない」といった所感があります。ただし、この実体験とはある種の夢想体験をも含むようです。逆に、書こう詠もうと意気込んで悟性を働かせる体験は除外されます。つまり書かれるべきものが既にある・あった、という体験を種として韻文世界が初めて開かれるように思います。
以前、学生百人一首を主宰されている方から、良い歌に共通する要素を聞かせて頂いたことがあります。個別的観点と普遍的観点が繋がっていること、体感的で臨場感があること、内省的であること、などだそうです。「内省的と体感的が相反することはないか?」と質問したのですが「そうではない、まず良い歌を読んでみなさい」と短く返されました。今になってようやく分かるのですが、体験の中で内省する、ということなのでしょう。悟性を使って練り上げることは内省とは呼べないようです。
最近noteの更新頻度が減っていた理由は「書けなくなった」なのですが、思い返せば、体験ストックが枯渇したとも言い換えられるかと思います。原因は至極単純なもので、出掛けなくなった。たとえば電車に30分も乗っていればそれだけで色んな体験ができます。オタ活帰りのペア、不倫してそうなサラリーマン、分厚い難しい本に没入する小学生、優先席をめぐる攻防戦、何度も滑り落ちる傘、、、こうして書き連ねていると、本当に多種多様な体験が自然とできていたのですね。
この状況がいつまで続くか分からないので、あらためて別の仕方で体験を増やしていく必要があります。数そのものは以前の世で得られたものに遠く及ばなくとも、少ない体験の深掘りなら、もしかしたら、厳しい情勢においても目指すことができるかもしれません。ピンチもチャンスに変える。韻文作家として、新たなステージに向かわなくてはならないようです。
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#俳句 #韻文 #エッセイ
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