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水車になってどこにも行かない 【エッセイ】

妄想がしっくりと来てしまうことがある。

老後を想像する。
身も心も衰えて介護施設に入所している。その一室の陽が斜めに差す片隅で、つまらない詩やくだらない物語を書いている。衰えているから、そこそこの期間を経てもノート一冊分にもならない。そのノートは葬儀の時に祭壇に飾ってもらえるのだけど、誰も手に取らないし見向きもしない。それなのに「変な人だったわね」と言われ、見送られるのだ。少ない弔問者の冷たくも生温かい言葉で。物悲しいと思うだろうか? 実際の死の現場はもっとずっと凄惨なので、これすら叶い難い大きな望みなのだろう。

以前のエッセイで「権威に採択されなかった神話を書きたい」という希望を述べた。先ほどの老後の妄想と重なるところがある。
どうしてもイメージが湧かないのだ。自分が偉い人に認めてもらったり、人気者になっている姿が。自尊感情の低下と言えばそれまでなのだけど、たぶん自分には「静かに暮らしたい」という本能の叫びがある。庵に憧れている。庭園に一興を呼び込むための◯◯庵などではなく、語義通り人里離れた粗末な小屋。

noteで長くお付き合いのある人はご存知だと思うが、僕の創作の中心にあるのは厭世観だ。だからインドの思想を学んできたし、物語の中では輪廻転生もすれば隕石も落ちる。

ただこの厭世観というものが純粋な個性というわけではなく、病的な色を帯びた感情の発露である自覚がある。疲れてくると、睡眠時間が短くなると、比例して厭世観が強くなる。
だからかもしれない。それらを創作のネタにしている限り、成功とか人気とかいう華々しいイメージと自分がどうしても結びつかないのだ。
ただ、至極小さなものまで含めればおそらく30年ほどは創作の世界に身を浸してしまった。そうなれば、何も創らないという過ごし方は想像もつかないのだ。

また別の記事で『詩人症候群』というエッセイをアップしたところ、予想以上の反響をもらって困惑している。タイトルの妙なのかもしれない、おそらくそうなのだろうが、鼻をほじりながら書いたような短い記事だったのだ。驚きである。
正直、むちゃくちゃ手間暇かけて書いた長編の方をヨロ!と全員に言いたいところだが、そんな強制は許されるものではないので口を噤んでおく(いや、言ったじゃんか←)

静かに生きたいとは、厭世を飼い慣らしていたいということだと思った。もはや人に持ち上げられたり手を引かれて明るい場所に行きたいとも思わない、一方で厭世が度を越して日常生活を送れなくなったり、家族友人に迷惑をかけるのも嫌だ。
結果的に僕は、適度に創作をしながら、厭世観の生産と消費の輪を回し続けるしかないのだ。それはどこかに行くための車輪ではなく、水を受け水を送っていく水車みたいなものなのだろう。

懸命に水車になりきっている時、厭世感情はなりをひそめる。水の圧力を受け、自ら回り、水の行方に思いを馳せる。そのさまを俯瞰することは厭世観に他ならないかもしれないが、主体としてそう在ることは忌避すべきものでもない。脇目も振らず書く、とはそういうことだ。水車になって、どこにも行かないことだ。

noteをしながら、SNSを駆使しながら、という明らかな矛盾がある。厭世のくせに世に関わってるじゃん!と言われたらぐうの音も出ない。でもやはり心の底では憧れている。誰にも読まれない詩物語を残して「変な人だったわね」と蔑まれ、立ち去るときに「厭だったけど悪くなかった」と負け惜しみをほざくのだ。


書き殴っただけの雑記。矛盾だらけの自覚はありつつ、矛盾は創作の常であり種だと自分に言い聞かせている。

#エッセイ  #日記

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