感情の伝播範囲【エッセイ】
ヘッダー画像:鈴丸みんた
『恋をするつもりはなかった』(集英社)
僕が愛読しているBLコミックでは時に面白い描写が見られる。主人公(もれなくイケメン)や相手方(もれなくイケメン)の精神状態が関係のない周囲の者に伝播するというものだ。
例を挙げると、普段より女子社員からキャーキャー言われているイケメンが、男と恋に落ちて物憂げな顔で過ごしていると周囲を(男女かまわず)うっとりさせる。その中からうっかり彼に恋してしまうような人も現れてくる。
また、恋に落ちた主人公に恋をしてしまうライバルやモブキャラが現れる、というケースも多い。「俺じゃない◯◯さんのことを好きなお前を好きになっちゃった」という名言(?)もあるくらいだ。
恋心に限定しなくとも、感情は伝播しやすいもので、容易に主体や対象を間違える。彼がいるだけで場が和むみたいな好例もあれば、僕があの人のことを嫌いなのにあの人が僕を嫌っていると感じるみたいな悪例もある。
感情からは、契機(何が起こさせたのか)、種類(喜怒哀楽?)、量(どの程度)、持続時間(どれくらいの時間)、体験による再現性や緊密度、などの要素を抽出できるだろうが、それら以外に「伝播の有効範囲」というものを考えると面白いかもしれないと思った。大衆酒屋のホールの端にいる人の感情が伝播することは稀だろう。しかし、バーカウンターの背中が訴えかけてくるものに同調することはあり得なくはない。嫌なやつとはまず物理的距離を置け、というのは真理だ。
こういった現象は心理学的にも脳神経科学的にも散々考察されてきただろうし、一定の成果を上げているように思う。ただそういった既存の理論から体験を演繹的に説明しようとするのは、意識によるバイアス、操作、ひいては誤謬を招くのではないかと思う。やはり個々の体験から得られる帰納的な実感の方がよほど大事だろう。
個々の体験と言うとすぐに「読書体験は個々の体験になりうるか?」という問いが浮かんでくる。
文章に模倣や現実感が必要になってくるのは、感情の有効範囲となる場を作るためかもしれない。登場人物と読者を重ねさせるのではなく、読者は現場の目撃者としてそこに現れる。登場人物の感情に反応する位置まで読者を連れてくる。文芸作品にはそういった作業が必要なのだろう。
取り止めのない話に落とし所をつけたいと思う。
とりあえず、場について考えれば文芸作品の可能性は無限大だ。作る方も楽しむ方も。
実生活の方ではできる限り人をHappyな気持ちを伝播しながら過ごしたいものである。
杜撰な結論だが、割と大事なことだと思う。
#エッセイ #感情 #BL
ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!