見出し画像

冥府への案内犬 【掌編1000字】


 少年は、桟橋で足を滑らせたところまでは意識があった。そのほんの刹那で、死を覚悟したのだった。
 連日のスコールで川は増水していた。濁流は彼の身を下流へとさらい、その魂を深淵へと押し沈めた。


「…………ケータス……ナチケータス!!」

 呼び声に目を開くと、見覚えのある顔が迫っていた。つぶらな瞳、よく通った鼻筋、ピンと立った耳、墨でくま取ったかのような艶やか毛並。そうそう、この舌のざらつき、相変わらず紙やすりみたいだな──

「っ!? ま、まさか、ハスキー?」

 一昨年、最期を看取ったはずの飼い犬だ。なぜこんな処にいて、人の言葉を話しているのか。少年ナチケータスはすぐに察した。自分は死んだのだと。
 辺りは暗い山谷のようで、紫煙が立ち込めている。この世ならざるのは明らかだった。

「ごめんね、ナチケータス。僕らは君を連れていかなきゃならないんだ。死神ヤマさまの御前まで」

 ハスキーが鼻先で示した先にもう1匹の犬が控えていた。その奥には、深い深い谷道が続いている。

「死神、ヤマさま?」

「うん」

「こわい人なの?」

「うん、こわくて、理屈っぽくて、この世界で一番えらい人。……ボクらにはやさしいけど」

 ナチケータスは再び察した。ハスキーにはすでに別の主人がいて、仕事まで与えられているのだと。見るに寝食には困ってなさそうで、そこはかとなく安堵した。

「もう僕と居たときのハスキーじゃないんだね。分かった、連れて行ってよ、ヤマさまの元へ」

 少年ナチケータスとハスキーは、もう1匹の犬の先導で足を進めていった。
 途中、思い出話に花を咲かせ、かつてそうしたように互いの尻を追いかけ回し、土手の傾斜を滑っては転がったりもした。
 戯れ合う2人を、先導の犬は何も言わず見守り、時には足を止めて待ってくれた。

 やがて一行はY字路に差し掛かった。

「お別れだ、ナチケータス。ここからは君ひとりで行くんだよ」

「ありがとう、ハスキー。短い時間だったけど、最後に会えて良かった」

 少年と飼い犬は熱い抱擁を交わした。それはあまりに長く続き、見かねた先導犬がナチケータスの服の裾を咥えて、右手の道へと引っ張った。
 ナチケータスは何度も何度も振り返りながら、右の谷道を下っていった。


 少年の背中が見えなくなると、ハスキーは相棒の犬に問いかけた。

「なあ、あっちは冥府の門じゃなくて生者の道だろ? 勝手にしたらヤマさまに──」

「案内犬はお前や俺だけじゃなかったわけだし、これも何かの巡り合わせってことで。俺にも、現世で飼い主いたしな」

「……ありがとう」

「でも、今日は晩飯ばんめし抜きかもしれないな」

「ワンっ!!」

#掌編小説  #小説 #mymyth202211

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!