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憧れ焦がれ【エッセイ】

連載小説の合間にこれを書いている。連載といっても不定期連載で、書き始めたのがなんと2019年12月……しかもそこから丸2年が経とうとしているのに10話(1話あたり2000字程度)までしか進んでいないのだから、もはや連載の名も小説の名も取っ払うべきだと恥入る思いをしている。

執筆に限らず、仕事や他の趣味においても、自分にはお決まりの行動パターンのようなものがある。大きな岩を動かそうと長い時間押し続けるがビクともしない。「あぁ、もう無理かも〜」と思い始めた頃に、ふっと岩が動いて先に進めるようになる感覚。なぜだか直線的には進めず、階段状に進む。そのようなパターンの中で、立ち止まる(自分では必死に歩こうとしているのだが)ことは必然なのだ。

IN-OUTの問題もある。引きこもって机とPCに齧り付いているだけで良い作品が生まれるとは思えない。人を描くには町に出る必要があるし、心情を描くには人と話す必要がある。上野のゴッホ展にも行くべきだし、ジャニーズJr.の単独ライブも行きたかったし(全落ちした)、ドトールの窓際の席から道行く人を眺めていたい。それはなかなか忙しいことだ。

OUTするためには「世界から」とは別のINが必要になってくる。それは名作、良作からのINである。要するに文字しか使えない世界で、ゴッホやジャニーズやドトールを顕現させるために、名作がどう小説世界を生み出してきたかを鑑賞する必要がある。楽しむための読書では不充分だし、理解するための研究でも不充分。その間の「鑑賞」であることが重要だと思う。一人称と三人称の間で読む、というイメージが近いかもしれない。名作、良作とは「自分にとっての」「少量」で充分だと思う。世界中の作品を読み漁っていたらOUTする時間など生まれるはずがない。

こうして寡作の言い訳をするのは滑稽なこと。しかし以前は多作の人に「嫉妬」を抱くことも多かった僕が、今は多作の人への敬意を表しつつ、寡作の自分を尊重できるようになったのだと思う。自身の行動パターンや最適な方法を知れたことは大きい。自分への見方はそのまま世界への見方にも繋がる。嫉妬とはつまり自分のことも相手のこともちゃんと見れていない状態で、比較と尊重を前提とした「鑑賞」に、嫉妬の入る余地はない。他人に対する憧れを憧れのまま、焦がれにはせず、糧とする。これがきっとスタートライン。

獄中で独り書き続けたマルキ・ド・サドのようになりたいか?と訊かれてYesと即答する人は、本当の孤独も狂気も知らない人だと思う。ふつうは他者との交わりがなければ作品は生まれないし、奇跡的に生まれたとしてもその反響はきっと哀しいものだろう。自分のやり方やテーマに固執せず、自身に影響を与えてきた世界や社会や他者のことをもっと信じてあげても良いのかもしれない。その契機が、僕にとっては岩の動く瞬間なのだろう。

さて、ここまでも存分に「わたくしごと」を呟いてきたのだが、さらに個人的なことをもう少し。僕が主宰を務めているnote神話部という文芸サークルが12月で発足2周年を迎えます(ちょうど冒頭に書いた連載小説の始まりとともに活動が開始したのです)。当初はどれくらい盛り上がるか、どれくらい続くか、なんてことを考える間もなく、こいういうのやりたい!という勢いだけで始めましたが、賛同してくれた皆さんの協力のおかげでここまで来れたというわけです。ほんとうにありがとうございますm(_ _)m

(……正部員ひとりひとりにお礼の言葉を書いたのですが、恥ずかしくなって消しました←)

正直、この2年間は運営の方にばかり目と手が向いてしまい、なかなか自作を練り上げられずにいたのですが、3年目はプレイヤーとしても頑張りたいと思います。今後も刺激し合い、モチベーションを高め合いながら、神話×文芸を楽しんでいきましょう!

note神話部に皆さんが投稿してくださった作品が目次としてまとめられています。制作者・悠凛さん、ありがとうございます!!


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ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!