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民話を書くまで【エッセイ】

今日は非常に残念な出来事があって、そのまま気分が落ち込んでいくような気がしたけど、割とすぐに持ち直した。
最近、そんなにめげなくなってきた。日常の心構えが文芸に対する姿勢と似てきて、妙な統一感というか、シンクロ率が高まっているような身体感覚がある(エヴァーのことはあまり知りませんが)。色んなことに耐性がついてきた。良い傾向だと思う。

つい先日、短編小説『アポロンの顔をして』の再掲載を終えたところだった。初出は2017年。5年の月日が流れた。noteユーザーやフォロワーが増えたこともあって、前回よりも多くの人に読んで頂けた。サポートや感想をくださった方々、どうもありがとうございましたm(_ _)m
僕はこの経過にほとんど満足しているのだが、客観的に見たときに物足りなさを感じないわけではない。心のどこかに反響とか人気とか、よこしまなものを期待している自分がいる。5年経ってそれを達成できないのは、そういう才能も手腕もないということの証左だ。「じゃあもうやめれば?」という声が聞こえる。でもそれはなぜか、明確に僕自身の声ではないのだ。

note神話部という文芸サークルを運営している。神話に対してどんなイメージをお持ちだろうか? ある人はオカルトと言うだろうし、ある人は権威と言うだろう。今や創作にとっては装飾品やラフ画として気軽に扱えるものでもある。
ただ僕にとって大事なのは、神話とは寄せ集めで、そこに加えられなかった話が五万とあるということだ。権威が採用しなかった声、というものがある。僕はそれらに思いを馳せ、掬い取れるものならそうしたいと願う。神話部とかいって神話を愛している風な肩書きを背負いながら、僕のやっている文芸はアンチ・ミソロジーでもある。

従順と反抗。アンビバレントな感情が共存する。しかしそれらを穏やかに共存させられるのが文芸の良いところだと思う。簡単なことで、ひとつはアンソロジーを編めばいい。異なる姿勢の文学を併置させれば良いだけのこと。
そしてもう少し突っ込むのであれば、登場人物に役割を当てればいい。アンチとプロにそれぞれ声を上げさせ、ぶつけさせればいい。詩ならふたつの声があってもいい。

いくつもの声がひとつの体に共存するという状況は、実生活ではまあまあストレスだが、文学的には至極普通のこと。そして人間とは根本的に文学的な生き物である。いくつもの声、というものは言葉によって練り上げられたものだし、感情と言語の関係はどちらが先ではなく相補的なものだ。

冒頭に戻るなら、落ち込んでいきながらも元気に仕事をするのだ。抑圧ではないか?と思われるかもしれないが「落ち込むのを隠して元気に振る舞おう」ではないのだ。他方ではしっかり落ち込んでいる。でも他方で仕事は元気にやる。そうしているうちにふたつの声がゆっくりとひとつに重なっていく。いや、重ならなくてもいい。文学の結末はどうなっても良いのだ。

神話に採用されなかったものは、民話や伝説である。それは大きな権威や信仰を高める役割を持っていなかったがゆえに、採用されなかっただけの物語だ。ただ神話となったものと比較して、物語としての優劣があったわけではない。

時代は神話的なものから遠ざかっていく。多様性という言葉はあまり好きではないが、さまざまなコロニーやクラスターの物語が散在しているのが現代社会だと思う。この傾向は加速するだろう。そして、それらの文化は中央集権的に構築されるものではないが、友好的に共存すべきだと思う。

『アポロンの顔をして』は特に女性に人気の小説だったと思う。主人公の女性は、男性性にいとも簡単に蹂躙されるのだが、最終的にはその男根的な神話に飲み込まれるわけでも、否定するわけでもなく、自らの足で乗り越えていく。それぞれがそれぞれのコロニー(居住地域)に帰っていく。自分はこういった多神教的、交代神教的な物語を描きたいんだと、改めて思った。
この物語には音楽とダンスが好きというだけで駅に集まる若者たちが登場し、主人公を間接的に助けてくれる。彼らの特徴は若いという点、そしておそらく互いの名前や連絡先も知らずに集団としてのアイデンティティを持たない点だ。たとえば不良グループとして名前を与えてしまったら台無しだったと思う。

名もなき声をあげる。それは名前がつくことを欲するのではなく、ただ声があることを示すだけのこと。
自分の文芸では、物語を示すことが、手段と目的とが一致する活動なので、どう転んでも「じゃあもうやめれば?」にはならないようだ。
つまり「めげない」
神話に組み込まれるかどうかなんて思いもよらなかった時代の、コロニーの民話を描いていく。

心の赴くままに書き殴ったエッセイです。乱文にて失礼しました。


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