見出し画像

摩崖の戒【掌編1600字】

摩崖まがいかい


 雨の振りそぼつ山間やまあい、断崖の一隅に辿り着いた男は、兜と鎧を濡らしながら一行いっこうに合流した。
「王はまだ崖に向かわれておいでか?」
「はい」
 答えたのは侍従頭の男。今朝方ったはずの髪が、乱れて額に貼り付いている。

「たまったもんじゃないですよ。この風雨の中、来る日も来る日も寝屋と食事の準備。しかも王付き侍従は肉を食えないだなんて、まったく力が出ないっす」
 侍従のひとりが軽口を叩くと、先ほど到着した武装の男が彼をきつと睨みつけた。
「言うな。普段なら不敬として斬り殺すところだが、今は抜くことすら禁じられてる。聞かなかったことにしてやる」
 その男、近衛隊長の腰に携えられた剣は、もうひと月も抜かれていなかった。戦場ではあれほど猛威を振るったというのに。

「ありがたいんだか、ありがたくないんだか」
 軽口の侍従は、王の目が自分らに向いていないのをいいことに、ふたたび軽率な仕草をしながらぼやいた。
「6万と1千と7百の死者を出した。その悔恨の念を払おうと必死でおいでなのだ。ご乱心とあざけられたこの事業も、必ずや後の世に恩寵をもたらす偉業となる」
 侍従頭が断言した。

 一行からやや離れて、王はひたすら崖に向かって短刀を刻みつけていた。彼を取り囲むように4人の僧が念仏を唱えている。

 マウリヤ朝、第3代の王アショーカはその粗暴な気性から99人の兄弟を殺して玉座についた。しかし隣国カリンガを制圧した後、屍の大地を目の前にして、彼は初めて己の気性を深く恥じた。
 生命を尊ぶ仏の教えに帰依した王は、領土の各地に碑文を残した。二度と過ちを繰り返すまい、たとえ何処にいようとも、仏の瞳が我を見据えている、と。
 そして首都に程近いこの摩崖の碑文だけは、なんとしても自身の手で刻みつけたかったのだ。

 改心したとはいえ、元は野蛮な王である。経文を写したこともなければ、彫刻刀の扱いに長けてもいない。権力と暴力に頼りきって生きてきた王の懺悔のために、国中から有識の僧らと有能な彫刻家らが招集された。
 絶対に途中で投げ出すと高を括っていた大臣たちを尻目に、王は信心と彫刻の技術を深め、摩崖碑文の完成まであと一歩のところまで漕ぎ着けていた。

「出来た! 出来たぞっ!!」

 王の歓声が雨天の山にこだました。
 家来たちが顔を見合わせ、王に駆け寄ろうとしたその時──

 突如、閃光が走り、雷鳴が轟いた。
 一同、衝撃と恐怖に身じろぐ。
 ややあって、閉じた瞼をゆっくりと開いていくと、摩崖碑文は無惨に砕け散り、その残骸が王の足元に転がっていた。

「なんと! 我が罪は永遠に消えぬと、仏はそう申しているのか!?」
 仰いだ先に分厚くどす黒い雲が佇んでいた。大地に平伏し咽び泣く王。「我が罪は……我が罪は……」と力なく繰り返す。
 王の改心と精進を知る侍従らと近衛兵らは、誰ひとりとして声をかけられずにいた。

「それは否にございます」
 僧のひとりが前に歩み出た。
「形あるものいずれは滅する、ということなのでしょう」
 雨と共に頭上から降ってきた声に、王はハッと両の眼を見開いた。そしておもむろに持ち上げたその顔は、もはや悲嘆に暮れてはいなかった。
「仏法を形に残して罪を軽くしようなぞ、浅はかな考えだったのかもしれぬな」
 王は立ち上がって豪語した。
「法の統治をもって贖罪をなす、それこそ我が道なり!」

 遠くから見守っていた一行は、王が我に立ち返ったことを察して安堵した。
 しかし侍従頭だけが訝しげに首を捻った。
「おい、たしか、召し出された僧は4人じゃなかったか?」
「え……あ……たしかに」
 ひい、ふう、みい、よお、いつ……?
 侍従らの不穏な会話を聞いて、近衛隊長が慌てて振り返ったとき、王に講釈を垂れた5人目の僧は忽然と姿を消していた。
 彼ら以外は何事もなかったかのように、崖の前を立ち去り、帰都の途についた。


〈了〉


定番の1000字に収まらなかった作品です
(^▽^;)

#小説 #掌編小説 #mymyth
#神話創作文芸部ストーリア

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!