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そして大人はいらなくなった【エッセイ】

バレンタインデーが過ぎましたが、この時期になると思い出すことがあります。職場の隣り部署のトップに近い人の話です。実力・実績があり地位の高い人だったのですが、よくある話で不倫をしていまして……さらによくある話で同じ部署内のW不倫。で、ここからチョコっと珍しい話なのですが、バレンタインの日に不倫相手からチョコを貰えなかったことで臍を曲げてしまい、その日と次の日は周囲のフォローが必要なくらい拗ねていたそうです。もちろん大の大人がです。その話は職場中に知れ渡り「子どもだねぇ」と嘲笑の対象になったのでした。

「大人になる」という言葉があり、大人はしばしば人に「大人になれ」と言います。僕も何度か言われた経験があります。でもいざ自分が一般的に大人の年齢になってみて周りを見回すと、「大人」らしい人はとても少ない。法の網を掻い潜る大人、責任を回避しようと躍起になる大人、すぐに感情を爆発させる大人、慈悲心なく我関せずな大人……彼らは極端だとしても、ほんの少し誠実な人に出くわすだけで「あぁ、この人は大人だなぁ」と‪思うくらいに、大人の数は少ない。若い頃に見ていた、いや、見させられていた「大人像」はいったい何だったのだろうか?

よくよく考えてみたら、地位の高い人、実力のある人、自立している人、法を遵守する人、人に対して誠実な人、慈悲に溢れる人、そのどれもが「大人」と呼ばれるわけではありません。僕が思うに「大人」とはあくまで「対・子ども」の概念で、場に子どもっぽい言動が存在することで現れ対照される幻想に過ぎないのではないでしょうか。近頃問題視されている「主語の拡大」と本質的には一緒で「本当にそんな人存在するの?」と疑ってかかることは大事かもしれません。

英語ではmatureという形容詞(用言)が「大人」あたるので、それぞれの個体や集団に対してmature/immatureの判断がその都度入りそうです。一方で日本語「大人」は、形容詞matureを備えた人物を示す体言で、一方で単に年齢や制度で区切られる集合名詞でもあります。こうしてみると日本語の曖昧さって賛美するだけではいけない気がします。人格の成熟、理性の成熟、人徳の成熟、それらは年齢とは別個に考えていくべきですし、ましてや「大人」とかいう規模の大きな語を用いた二元論で語られてはいけないように思います。

こんなことを言うのは、バレンタイン・スネ夫君を引き合いに出して大人を批判したかったからではありません。むしろ逆で、最近「子どもっぽさの欠如による未成熟」にもよく遭遇するからです。言いたいことを言えない、感情を態度で表現できない、欲しいもののためにガムシャラになれない、欲しいものが何か分からない、自分を元気にするものが何か分からない……etc. そんな人がわんさかいます。要は「人格」が理性や人徳に喰われてしまっている例です。これは度を超えると生きにくくなってしまいます。

私たちが子どもっぽいと揶揄するものってそんなに悪いものでしょうか?
子どもって本当に未成熟な存在なのでしょうか?
自他に理性や人徳を過度に要求することで、喜ぶ人など本当に存在するのでしょうか?

もし自分に窮屈さを感じたり、自分らしさが分からない人がいるとしたら、子どもの自分に問いかけてみるのも良いかもしれません。

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