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正解のない宛先

知人より「職場内のプレゼン資料を見てほしい」と頼まれ、カフェでスライドを拝見した。そうしたら2枚目で気が散ってしまって、進んでいくスライドの内容が全く頭に入ってこなかった。

「ねぇ、菌名はふつうイタリック体表記じゃない?」
「いや、そういう些末なところはいいから本質の部分を指摘して」
「あのね、サブリミナルな違和感が視聴者を本質から遠ざけるの。直した方がいいよ」

僕が食い下がると知人は腑に落ちないような顔をしながらも直しはじめた。「サブリミナルな違和感」云々はもちろん詭弁なわけだが、お約束ごとなのだから仕方ない。作法を指摘するなんてみみっちくてカッコ悪いな、と分かってはいるのだが。。。

しかし最終的に知人が僕の提言を受け入れなかったとしても、それで良いと思っている。知人の職場の事情は彼自身がもっともよく分かっているだろうから。ただこちらも時間と労力を割いているので多少不機嫌にはなるかもしれないけど、それも数分もかからず元どおりだろう、たぶん。笑

これはつまり、その発表や文章が誰に向かって発せられているのか、また発表者がどういう立場で話しているかと捉えられうるか、の話に収束していく。知人も私も、細菌学者でもなんでもない。だが視聴者に学会員がいたり、専門的な論文や著作を精読している人がいる場合もある。逆に、勝手に自分がそのような立場で見られてしまう場合もある。些末な表現に気を使うのは、生じうる違和感に対するリスクマネジメントに過ぎない。

この話は文芸や執筆にそのまますり替えられそうだ。私は誰に発するのか、その人たちから私がどのように捉えられうるのか、このあたりで文章の質感は当然変わってくる。

「読まれるnoteの書き方」みたいなものも、そのような流れの中で生まれてくるのだと思う。プラットフォームが年単位で続いたことで、緩やかだとしてもお作法的なものが精製されてきたのだろう。

面白いのは「読まれるnoteの書き方」に「内容」が付随していくような形で、読まれやすい内容も自然と似たようなところに収束していくことだ。日常の小さな幸せ、小さな不幸、小さな主張、小さな我慢etc. それらと、お作法としての「読まれる書き方」は親和性が非常に高い。

(たまにnoteで作法に則っていない凄い記事が反響を呼ぶことがあるが、それは著者か内容かが際立った単発の作品であることが多いので、今回の話には含まないでおく)

先日、古代史を学び作品に落とし込んでいるnoterさんが「内容柄どうしても『〜と言われている』の表現が多くなる」と嘆いておられた。僕も宗教史に関する文書を書くのでよく分かる。

これは些末な問題のようで結構深刻だ。伝聞表現の乱発が要求される場面では、文章の流麗さを切り捨てなくてはならないことがよくある。そんな中でも不自然にならずに文章を紡げる彼女のことを、かなり卓越した書き手だと僕は尊敬している。

(当人は気にしていないだろうが、noteでは客観性に立脚した文章よりも、著者の体感が感じ取れる文章の方が受けやすいように思われる。そんな中でしっかり読まれている彼女はやはりすごい)

noteに長く浸かっていると、自分の内容や書き方が、自分の意志や意図とは別の方向に引っ張られていく感覚がある。抗おうとするんだけど、そのことによって小さな疎外感が芽生えたりもする。

引っ張られていくのも悪くない、抗うのも悪くない。さまざまなベクトルの総和で自分はできているし、自分の文章にはそこにもっと微妙な要素も含まれてくる。noteに限らず、どのプラットフォームでも、学会でも業界でもそうなのだろう。

この記事は「読まれる書き方」「読まれる内容」を批判するものではない。どちらかというとこれらを利用して「読ませる」ことを目指す意図で書いている。そのために、書き方にも内容にも、著者には意識しにくい場の流れがあることを書き留めておいた。

流れは飲み込まれるものではなく、乗るものだ。どんなに強く押し流されても、自分の書きたいこと、書くべきことからは決して手を離さないこと。そうした胆力こそが、いつか訪れるかもしれない孤独に対抗しうる「執筆力」に繋がるのだと僕は思う。

#エッセイ #執筆

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!