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「飴細工」と「は」と「が」 【エッセイ】

学生時代の小さな後悔がある。

ある店にいちども立ち入らなかったことだ。最寄駅から大学へと向かう道に佇む飴細工屋さん。客同士がすれ違えないほど小さな店で、店番との距離も至極近い。「入店したら購入しなきゃ」のプレッシャーを感じやすい僕にはハードルが高かった。
どうしても勇気が出ず、通り過ぎる数秒間の範囲で店内を具に観察したものだ。「あの人いい加減、入ればいいのに」と店番に思われたりしただろうか。それとも僕みたいな人は珍しくもないのだろうか。

飴細工は綺麗だ。ただ綺麗なだけでなく、詩的情緒がある。個人的には磁陶器や金属よりも好きだ。ガラス細工にも同じような情緒を感じるが、飴細工の方がより突き抜けている。その本質は「制限されてない」ということなのだろう。半透明で、刹那的。空間と時間が制限されていない。
価値とは違う、触れてはいけなさそうな禁忌性が僕を惹きつけて離さない。
そういった「危うさ」もまた、僕に店との絶妙な距離を取らせたのだった。いちども入店していないのにこんなに熱く語ったりして、本当に恥ずかしい。ただこんな後悔や慚愧すらも淡い思い出に変えてしまう飴細工。精緻さと曖昧さを兼ね備えたその美は、まさに日本語に似ていると思った。

日本語を母語として文芸をしていながら、僕はひどく日本語が苦手だ。人の装いを揶揄する時に「服に着られてる」と表現されるが、まさにそんな感じで、日本語を操っているのではなく「日本語に操られている」感覚がいつもある。言葉の奴隷だ。
僕の隷属のひとつに助詞の「は/が」がある。主格を表す格助詞「が」に対して、主題を表す係助詞「は」だ。主語にはどちらも使えるが、特別な含意を込めないのであれば「が」を使うべきだと思う。
しかし僕は曖昧さの妙に捕縛されて、つい「は」を多用してしまうのだ。「は」の持つ音の柔らかさに甘えているところもある。
「が」の持つ強さを避けるのは、陶磁器や金属の持つ強さに窮屈さを感じている時とよく似ている。
英語をはじめとした印欧語にはない問題だと思う。日本語の「は/が」を区別するような含意が必要になる時、印欧語では構文自体が変わることが多い。

よく言い切り調とは「である、だ」と言われるが、主格か主題かの問題も意識した方が良いと思う。

「矢口犯人だ」

この場合、事実関係は緊密であり、「矢口像」も「犯人像」も限定されたものである。

「矢口犯人だ」

こちらの場合だと、前後に何かしらの文章が想定される。「情状酌量の余地はあるものの、〜〜」「〜〜が、被害者も相当な悪だ」のように。

含意を提示しないで「は」を使う場合、語句の透明性、辺縁の曖昧さが増すように思う。詩歌ならば意識的に狙うべき表現だろう。しかし散文の中での無目的な多用はいかがなものか、と考えるのだ。
僕がうまく「が」を使えないのは、病的なほどに「事実の限定」に抗いたいからな気もする。
まるで、いちども立ち入らなかった飴細工屋を夢想するかのように、僕はいつまでも「は」の曖昧さに囚われているのだ。

もっと頑張れないだろうかと思う。文芸の力、フィクションの力、ファンタジーの力を信じて、文法に囚われず、文法を駆使していきたい。
飴細工の精緻さ、職人の腕を目の当たりにしたら、僕の言っていることは甘ちゃんの戯言にしか過ぎないのだから。

#エッセイ  #日記

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