Do not Disturb 【エッセイ】
風が怖い。すごく怖い。
おはようございます。今、出張先のホテルで書いています。チェックアウト、ギリギリまでいるつもりです。清掃の方、すみません。
隣り部屋のドアノブには昨日の夕方からずっと「Do not Disturb」の札が掛かっていて、ちょっと狡いなって思った。もちろん大きな物音を立てたりはしないけど、なんだか緊張を強いられる感じ。単なる愚痴。
それはさておき、最近、逆方向から、つまり賛美するのではなく卑下する方向で「男らしさ」と「大人らしさ」を意識することが増えた。アンチ・マッチョイズムからということだ。
そこで冒頭に戻る。
風が、怖い、非常に。笑
いい年した男が、と笑われるだろうか?
この頃は風だけでなく、驟雨や雷鳴も怖くなった。
〈なった〉というのが不思議なところで、たぶんもう少し若い(青い)頃はこれらは大して怖くなかった。
箍が緩んだのだ。
「男たるもの、大人たるもの、ちょっとやそっとのことでビビってはならない」みたいな決まり。
アレ要りますか?と思うようになった。
怖いものは怖いままでよくない?カッコ悪いとかどうでもよくない?と。
生理的な快・不快と、観念的な快・不快と、どちらが大事か? 安直にどちらと決めつけるのはよくないと思う。おそらく〈多少長く〉生きないと分からない部分があって、生理と観念が背反する場合もあれば、相同する場合もある。
怖いしそれはカッコ悪い。
怖いけどそれをカッコ悪いとは思わない。
怖くないし怖がるのはカッコ悪い。
怖くないけどそんなことはどうでも良い。
合理性という側面から考える。
多くの場合、多少の風に恐怖を感じることは非合理的である。しかし恐怖を感じるか感じないかを論じ、統制を試みることはもっと非合理的である。
こうやって考えていくと何となく感じるのだが、マッチョイズムの本質とはおそらく〈思考の放棄による脳の省エネ〉だ。
つまりそんな下らないことを考える暇があったら暫定的にこうしておいてその時間を他に費やせ、と。
こういう土壌からは発明は生まれにくいのではないか。発明がすべてではないが、この視点に立つとマッチョイズムに連なるあらゆる画一化がひどく味気ないものに思えてくる。
雨風をしのげる家屋が発明されても、その中で誰もが自由に怖がっていい。そうしたら誰かが雨漏りしない屋根を発明してくれるし、防音壁や強化ガラスを発明してくれるよ。
ただ日本中のホテルの壁が全て高い防音性能になったとしても「Do not Disturb」の札がなくなることはないだろうし、隣の人は掛け続ける気がする。
彼にとっては、生理的不快の排除こそが、観念的な快の極地なのだろう。それはそれでハッキリしていて良いのではないか。
そして僕はもう少し寝ようと思う。
書いて出しで失礼。
ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!