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詩人症候群 【エッセイ】

タイトルはもちろん僕の造語で、意味は「平素より何となく苦しんで、深遠なことに思い巡らせ、生み出さなくてはならない」と思い込んでいる人たちのことを指し示す言葉だ。イタタタと思った人もおられるかもしれないが、同じくらい僕の胸もイタイ。
僕は苦しみの正体が知りたくて宗教学の研究にまで手を染めてしまった。しかし周囲の学生や教員らのモチベーションはカラッとしたもので、至極健康的な同僚先輩だらけだったのは意外だった。

ただそんな僕でも年に数回程度は現実に立ち返り「自分って意外と明るくてポジティブなんだよな」と正しく自己評価できることがある。
連載作品の執筆を終えたので、最近は久々に楽しむための読書に時間を費やしている。執筆しなきゃと思っていると、書の選択に「自分の創作に有用かどうか」が入ってくる。するとなんか小難しい本やら暗い本やらを選びがちだ。ちょっとしたぺダンチズム(衒学げんがく)が含まれているのだろう。
しかし今はだいぶ明るい読書に興じられている。平易な明るい本を選ぶ。すこし新しいジャンルにも挑戦してみる。第一目標はとにかく「楽しむ」こと。

自己との関係で考えると、執筆は「自己開示」とも「自己治療」とも言えるし、「自己実現」にも「自己満足」にもなりうる。これだけでもさまざまな表現が生まれるだろうし、そこに読者との関係や現実世界・創作世界との関係まで加えて演算すると、いったいどれだけの態度が現れてくるのだろうか。それなのに創作がひとつの立場に落ち着いてしまうのは変だ。それはきっと思い込みに過ぎない。詩人症候群に陥ってはいけないのだ。

思い込みの原因として、表現の幅が狭いことも挙げられるだろう。Aという文章で書き始めて「ABCDE」と行けばいいものを、無意識に「Aいうえお」に向かってしまう。そのような執筆のクセは心の幅をも狭めている。
言語には創造の素材としての側面だけでなく、素材の創造の側面がある。言語で素材を生み出すことで、その素材で何かを創造できる。その留まることを知らない円環運動こそが、言語表現なのだろう。

「Aいうえお」にならないために人の書いたものを読むのだろう。自分の中に「BCDE」があることを再確認するために読むのだろう。そしてその過程で「αβγ」がある事を知るのだろう。Input/Outputが両輪だというのは、自分のクセに固執して片方の車輪だけで同じ場所を回転しないことにも対応している。

これからどこへ行こうか? 最近読んでいる新しく明るくハッピーな物語は、僕の創作にも新しい素材と世界を呼び込んでくれる気がする。自分の外側にある(と思い込んでいる)ものを書く。こういう態度でいれば詩人症候群に佇むことはないだろう。それもまた自己への自己開示なのだと思う。

恒例になってきた、適当に書いた雑文です。失礼しました。

#エッセイ  #日記

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