人の話を聞き疲れてキレた話

自分が人の話を聞いていて頭に来たという出来事を人に聞いてもらいたくて筆を取る、というのも傲慢な行為であろう。まあでも、この話をうっかり開いてしまっても、付き合いきれなくなったらクリックして過ぎ去ってもらえるのがネット記事の気楽なところである。
私は元々異常に人の話を聞くタイプだった。
話すのが下手だから、気のおけない人としか話しても楽しくないし、聞いている方が楽だから聞き手に回るのは嫌いではなかった。聞くのは平気だ、と、長らく思っていた。
ある時、私はとある事情から、「興味のない相手に興味を見出し、その相手と半日や1日楽しく過ごす」という事を達成しなくてはという思い込みに駆られる。しかも丁度精神的にかなり弱っている時にこの活動を始めたため、興味のない相手と2時間一緒に楽しそうにしながら過ごすだけでストレスのあまり泣き出しそうだった。しまいには「興味のない相手と一緒に飲む」と思うだけで心が疲れ果てた。私はその頃、「他人の都合に合わせて振る舞う」という行動を自分の限界値までおこなってボロボロだった。もう自分にとって楽しくない相手と同席したくない。疲れた疲れた。
そんな気持ちで一杯の時に、無理して人と会った。
その人は、私がその人に興味を持っているものと判断し、自分自身のプレゼンのように複数いる場を一人で喋り捲った。皆おとなしくその話を聞いている。私は何を言われても全く相手の話が自分の琴線に触れなかった。もうそれは仕方がない。一応私は興味ある振りで相手の話を聞き、相槌を打ち、質問を挟み、としているつもりだ。それが相手の望むリアクションかはわからないけど。
私はその人と同席することがどれだけ退屈というストレスになったか、後日紹介者に思い切り愚痴った。紹介者は責任を感じてかなり私に気を配って色々してくれた。申し訳ない事をした。
ちなみに、その人とはその後、紹介者の配慮もあってまた何度か顔を合わせた。何度か会ううちに、私もその人の良いところがわかって来て、悪い印象は薄まった。
私が悲しかったのは、私の話を聞かない人は、私がその場にいない方が良いと考えているのも同じだと感じられた事。相手にとってはそんなつもりはないだろうし、そう感じる私の心はナーバス過ぎる。
「聞く」も技術である。そして聞き上手と話し上手は表裏一体の特性だ。どちらかだけしか得意でない場合、それは実は話すのも聞くのも不得手なのだ。私はよく聞く役をやっていたつもりだったけど、私に対して話している人があまり楽しそうでない、私に向かって喋り続けるのが「サービス」と化している事を何度となく感じ取った。申し訳ないと思った。でも「サービスしているのだ」という事さえ私に感じさせないほど話し上手の聞き上手な人も何人もいたけれど。
一方的に話す人は今も苦手だ。出来れば会いたくない。とはいえ、「一方的」と私が感じるのは、私自身が相手に興味を持っていないからだ。その人の意見にも物の見方にも面白みを感じられないからだ。勿論相手によってはその人の話を聞きたい、と強く思う事もあって、そんな時は、時間に限りがあるのが悲しいほどその人の一言一言が貴重に思えるのだけどね。
聞く役でストレスが貯まるのも不毛なので、聞く時は聞く事も楽しめるような話す技術を身に付けたいものである。

サポートをクリックしていただくことで、投げ銭をいただくことが出来ます。いただいた寄付金は今後の運営費として活用させていただきます。