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『アイズ・ワイド・シャット』と社交ダンス

 「社交ダンスとは?」と漠然と考える内に、「これは近い距離での対人関係を円滑に行うための共通ルールでは」と思い付いた。ダンスホールという場所で見知らぬ他人同士が顔を合わせ、誘い誘われ一曲組んで踊る。昨今の日本の社交ダンスはヘテロも男同士女同士で組んで息を合わせて踊るらしい。詳しくないので断言出来ないが、ダンスホール(ボールルーム)でのマナーを対人関係に応用すれば、見知らぬ人とも楽しく共同作業が出来るの知恵と技術ではないか、と思ったのだ。
 例えば、挨拶の仕方、ダンスの申し込み方、申し込みの断り方、断られた後は一曲待ってから他の人にダンスを申し込む、断った場合は「相手が決まっているから」ならその相手と踊る、等。自分の気持ちと相手の気持ちを尊重し合う気遣いがそこにあるように思える。
 これが身に付いているなら、仮面舞踏会でも楽しく過ごせるように思ったのだ。相手が何者であっても、相手が女性と名乗り男性の衣装に身を包んでいても。相手の正体など、一曲踊るだけなら知る必要はない。相手も自分も一定のマナーに則って行動する限り、プライバシーをさらけ出さなければ仲間に入れない、等ということはないのではないか。
 私は結構、この社交ダンスに期待するものがあった。
 日本文化にはあまりこういう感覚がない。同郷であったり同窓であったり、何か自分との共通点を見出して相手のプライバシーを知ってからでないと近付けないと考える。会話すら思い浮かばない。私も雑談は得意ではないが、他人のプライバシーを共有することでしか身内意識が芽生えない事にとても抵抗があった。それはよほどの身内だ。例えば、家族──。

 そんなときに思い出したのがキューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』だった。
 あれは新郎新婦に送る定番の箴言をもじった言葉だという。曰く、「結婚する前は目を十分見開き相手を見、結婚したら目を半分閉じて相手を見なさい」。半分どころか、「目を広げて閉じる」とは。謎めいたタイトルだが、私はこれは夫婦よりも対人関係にも応用出来る言葉のように思う。夫婦のように多くの権利を共有したり、共同生活をする相手ではない友人知人なのだから、自分に影響のない点になど言及しなくてよいし増して根掘り葉掘り他人の事を知りたがったり、知られ踏み込まれる事はない、という。

 しかし実際にどんな映画だったかDVDを振り返ってみたら、私の社交ダンスへの興味とは全く違った内容だった。まあ大抵、フィクションの中の仮面舞踏会はいかがわしいものなので構わない。余程の事がなければ、健全な仮面舞踏会はフィクションに出て来ないだろう。
 この映画には2つのパーティが出て来る。一つ目はニューヨークの社交界のごとき富裕層の華やかなダンスパーティ。二つ目は仮面を被り合いお互い正体を秘した乱交パーティだ。最初のパーティは表向き健全であるし華やかだが、一体何のために行われているのか目的不明なパーティでもある。というのも、主催者のジーグラー氏から毎年招かれるハーフォード夫妻も何故自分達が招かれているのかわからないし、この招待客の中(おそらくは富裕層や著名人)に主催者夫妻以外の知り合いもいない。「ただ社交を楽しむ」という無邪気な動機で成立するパーティでもないはずだ。この集客は何のために行われているのか、ハーフォード夫妻にはわからないのだ。
 一方、二つ目のパーティは相手が誰かもわからないが目的はわかりやすい。儀式があるのでおそらく共通の秘密を共有し合う仲間達なのだろう。そして行われるのは乱交である。仲間意識の再共有と悪徳。仮面をしているが、おそらくここのメンバーはお互いに相手が誰かを知っている。だから初参加のビルに気付くのだ。
 最初のパーティは社交ダンスの陽の面を逆手に取っている。二つ目のパーティは、マスカレードのいかがわしさを借りながら内実はシンプルだ。
 私はこの映画を、今のところ、「夫婦関係の破壊と再構築の話」だと思っている。話自体は定番の主題だし、「関係性の破壊と再構築」はそれこそ無数に話の骨子になっているだろう。この主題を、「パーティ」という社交の陰陽を使い分けて描いたところが面白いと思うし、夫婦関係の破壊の原因になる「不倫(恋愛関係の排外性を担保する結婚契約の不履行)」の舞台を大規模で不道徳なマスカレードまで大掛かりに発展させた事も面白いと思う。そしてそれらは現実とも夢とも妄想とも願望ともつかないあやふやなものなのだ。しかし現実と同じくらいに当事者に強い影響を与える。妻アリスの避暑地での不倫への欲求も現実に実現はしないが彼女の中では心に強い影響を残すという意味でリアルな体験だった。映画の視点は夫ビルの体験を通して進行するので、ビルが体験した二つ目のパーティはほぼリアルにビルに迫っている。そして、そのパーティにアリスはいない。いないが、アリスは同種の乱交を夢で見ている。しかもその夢ではビルと共に参加しているのだ。アリスの夢の出来事も、ビルの「体験」と錯覚したくなる二つ目のパーティも、同位なのだ。
そこがとても面白いとも思う。
 結末もまた定番通りだ。現実に不貞を働いていない二人は現実の不貞を行いお互いにそれを告白し合ったも同然の心境になる。それは決定的な決裂になり得る。しかし妻はおそらく、決裂から回復に進もうとする。次の段階を示唆するから。それは暴力的な単語で語られる。それだけに、ダブルミーニングになりどちらを妻が意図したのかは放り投げられてしまっている。しかしどちらでもいいのだろう。
 ダンス、または、パーティという点でこの映画に付いて語るのはこのあたりになる。

余談

 本当は、もう少し、語りたい。この映画は、ジーグラー氏の存在に重きを置くと(置かざるを得ない作りなのだが)、夫婦でジーグラー氏にからかわれた話か、妻さえもジーグラー氏にそそのかされて共に夫をからかう話になっているから。そういう点で善良な男が虚仮にされる酷い話でもある。だから何だと言いたくなる悪意に満たされた話なんだが、この視点で見ると、何もなすすべのない凡庸で善良なアリスとビルの夫婦が愛おしく思えて来る。この世間ずれしないおっとりした夫婦の感じに、ニコール・キッドマンとトム・クルーズは最適なのだ。お人形のようなきれいな若い美男美女。そういうカップルをいじめ倒したくなる変態富豪ジーグラー氏の目線。そして、その夫婦を演じるキッドマンとクルーズは実生活でも夫婦だったのだ。その夫婦生活の疑似的なものをスクリーンの前で演じる二人。それを見る観客は好奇心に勝てるだろうか。負ければ、それはジーグラー氏の目線を鑑賞しながら追体験する事になる。観察者の存在を映画の中に置き続けたキューブリックの最後の作品は、観客にそれをさせる仕掛けだったのかと想像したくなった。


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