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話は通じないのが普通

「人の話を聞き疲れてキレた」というタイトルの投稿が、私の過去投稿の中で閲覧数が多いほう。なんか意外だ。私以外にも、言わないだけで人を話を聞いて疲れている人が結構いるのかな。意外、というのは、「聞き役疲れた」という話をあまり聞かないから。
それとも「聞き疲れてキレるなんてわがまま」という狂犬観察に晒されているのだろうか。

しかし「聞き役に疲れている人が多い」という観点で周囲を見回してみると、確かに一方的に喋る人の周りでは、聞き役に回らざるを得なくてうんざりしている人が観測される。興味持って聞く人もいるけど、興味ないけど合わせて聞いている人もいる。

こんな事をいうと怖くて喋れない人を出しそうだが(そしてそういう人ほど親切に他人の話を聞いてあげる側だろうが)、私はどちらかというと、聞き役で疲れた人たちが、「聞いてばっかりで疲れたよ」「その話は興味ないから話題変えない?」という意思表示が出来るようになるとよいねと思っている。で、相手にそう思わせた人も言われた事をあまり気にしないようになれないものか。

どうもこの「お互いに気分良く過ごすために、自分はこう思っていると伝える。相手が伝えて来たら傾聴するだけして、傷付かなくていいと思えるようになる事」がうまく出来ない。

かなり前に、「日本すごい」系の人から、「相手の気持ちを察する事が出来るのは大人」「言われなければわからない、という空気を読まない態度は子供っぽい」という発言を聞いた事がある。これは日本以外の西洋のある国の「空気を読まない文化」という俗説に対して言われた言葉だ。

その時は、日本で似たような人ばかり集まった環境では確かにそう言える事もあると思った。しかしその後、世界には数々の文化と言語と宗教と好みと住宅環境と地域性と他ほかほか想像の及ばないくらい多くのものがあり、目の前の人がそれらの中のどんな背景を持っているのか全くわからない、という状況があり得る事を知った。
そういう時は、「私はこういう事を大事にしている人物である」「こういう事が望ましく、こういうことはされたら嫌である」という事を相手に明確に伝えないと、相手もこちらに対してどうしていいかわからないのだ。

この「日本すごい」の人は、自分の生まれ育った環境以外の事も本当に知らない。自分が何も知らない事も知らなかった。むしろ自分はよく知っていると認識してしまうような人だった。そして知らずに、自分にとって理解できず意味不明な外国人を一方的に嫌っていた。
自分と違う他人とわかり合うのは面倒臭いし厄介だ。相手の事をなんでも理解できたとしたら楽だよ。でもそんなの現実には成り立たない。訳の分からない嫌いな人と、傷つけ合わないように生きていかなくては自分の身も危ない。

もう少し、傷付けないし傷つかない意思の疎通が出来るようになると、いいと思う。日本の場合、「お互い似たような存在」という前提で相手を見る人が多いからね。そうなりやすいんだろうね。他人と自分はそんなに似てないのが当たり前なんだけどね。似ているように思えてもね。

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