「でもでもやっぱり」

人には時間の経過の力で忘れられる恐怖がある。
それは、奈落の崖に落ちそうになったけど、間際で落ちずに助かったような恐怖だろうか。

私は、仕事が続かなくなった専業制作業の人の仕事のない苦しみを間近で何人も見た。どんな仕事でも受けるし、これまでの経歴に傷が付くようなそれまでと場違いの仕事も進んで引き受ける人も見た。若ければ単発アルバイトも得られるけど、50代を過ぎると、アルバイトも見つからない。
専門職のプライドにこだわらず、自分の食い扶持を稼ぐためにどんな仕事にも挑める人でも苦労していた。まして、「専門職」「フリーランス」の名目を失うのが嫌で自宅の仕事場から一歩も出られない人は。

でも、私は自分自身がそこまで追い詰められたわけではない。

もっといやらしい事を言うと、未だに、「あの時ああしていれば」と「もしも」を考える。「専門職にこだってアルバイトすら探せない人に構っていなければ」「かわいそうだからと付き合っていなければ」「面倒見てやらなければ」──「私はもっと金も時間も自分のためにつぎ込めて」「そして」「そして?」──。

その先は言えない。

「未練は思い上がり」というタイトルの歌があった。
自分自身が奈落へ落ちて懲りるまで、私も挑戦した方がいいのかもしれない。
「フリーランスがやって行けない世の中なんて嫌だ。だから私はあの人を助ける。生活費なら私が稼ぐから、あの人はやりたい仕事を続けたらいい。依頼がなくても作品を作り続けたらいい」と言い、いつまでもいつまでも筆すら取ろうとしない相手をやがて心の底から嫌いになり「もう嫌だ。知らない。私は自分の将来の方が大事だ。私に人助けなど出来ない。私には他人が背負えると思い上がっていたのだ。下ろしたい。一人で歩きたい。ゆるしてほしい。私の無力をゆるしてほしい。私は自分自身のために生きたい」。そう告解した時のように。

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