訳のわからないものを読む

 バタイユとゾラを読み比べていてちょっと思う事が。
 ゾラの短編集も私には概要を把握しきれない感触はあるのだが、でもそれほど関心が向かなかった。何故かはよくわからない。一方でバタイユの『マダム・エトワルダ』は魅力に満ちていた。プロットは単純にもかかわらず、そこで描かれる謎めいた出来事━━いや「街娼と性交する」という説明の中に収まるはずの出来事が、それ以上の事を描いてしまう意味の広がり、そして広がりは感じられるのに、その先はどこへ向かっているのか把握しきれないという意味で謎━━は、まさに神秘性を描いているように思える。「神秘体験とは」について書かれた物語だとしたら、それは性を通してでなく、食欲や眠気に置き換える事は可能なのだろうかと想像する。ある程度までは可能ではないかと思いつつ、やはり決定的には性でなくてはならないのではないか。どうして性以外では書けないのか、そう考えるとまた興味が深まる。
 果たして、得体の知れない小説は底無しの興味を喚起させるのである。

 というのが、主に私の読書への興味だ。
 私はひじょうに騙されやすい人間だと改めて不安になった。これは危険だ。得体の知れないものばかりが好きだ。そして、好きな理由はわからない。けれど、その得体の知れなさには文学的であったり、学術的であったりする意義があるのだろうと、ただ直感している。その直感が働くか働かないかが、私の「この本が好きだ」の指標なのかもしれない。
 ただ、では、━━よく知らないのに引き合いに出して申し訳ないが、ゾラの小説が文学性や学術性がないはずがないのである。何故関心が湧かないのか。それは、おそらくゾラの追求する、あるいは志向する方向性には私の興味が向いていないから。結局は好みなのだ。

 思えば子供の頃からずっと「得体が知れないけど多分文学的に大きな意義があるんだろう」という見込みと想像で訳のわからないものをありがたがり、追いかけ、生きてきた。途中、本当に追っては行けないものを追い、意義のないものに意義があると信じ込んで痛い目を見たりもした。結局あまり懲りていないのがまずいと思うが。
 これ本当にやばいな。ともかく、私は若い頃から「これ好き」と思うものをほぼまともに他人に説明出来なかった。それはそう簡単な事でもないかも知れないが、その「好き」の理由の背景に思い込みの「たぶん学術的に意義がある」とか「きっと文学的価値が」は権威主義的では。いや、その学術的とか文学的の根拠は教科書に載っているからではあるのだ。教科書に載っているから確かに間違いではない根拠にはなっている。だが、その「何故教科書に載っているのか」と「文学的意義がありそうだから好き」の間がずっと激しく広く空いたままなのが本当に危険だ。極まりない。

 もし、好きだと思ったものが教科書に載るような作品でなかったら、それは何故なのか、私はちゃんと考えた事がない。うーん。これは。やばい。

 いま興味深いのはキルケゴールで、こちらは、バタイユのように雰囲気だけでなく、キルケゴールの思想性の基本を多少は踏まえながら良さと好きなところを掴んで行けそうに思う。それは市民講座で習う機会があったからなのだけど。やはり、ちゃんと段階的に理解しながら学ぶ事を大事にしなくてはだめね。好きになって追いかけてもものにならないわ。

※写真は「バタイユ」という名から「バタフライ」、音から転じて「蝶」のイメージ。蝶のイメージの連鎖で胡蝶蘭の写真をお借りしました。蝶なら毒性を感じさせる極彩色の羽のものが自分のイメージに近いけど、ゴスに寄り過ぎる気がするので造形類似に留めた。

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