頭文字PD(パブー・サルベージ)

(以下に貼るのは、かつてテキスポ、のちにパブーに発表したものです)

「例是道」を語るためのキーワードの頭文字PD。4つの意味があります。

1.フィリップ・ディック
スリップストリームとかアヴァンポップとかポストモダン文学とか、呼び方はいろいろあるようだけど、主流派文学(かなりマジに思想を表現するための文学)とポップカルチャー(またはサブカルチャー)をフュージョンしていくような文芸の系譜がアメリカにはありますね。(無料版ではこれらを”文芸ポップアート”と呼んだ) ディックとヴォネガットでそういう世界に魅かれ、一時かじっていた時期があります。オースターのNY三部作、エリクソンの『ルビコンビーチ』、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』、D・F・ウォレスの『ヴィトゲンシュタインの箒』とか。
実際のところ、レーゼシナリオに関心を持つに到ったのも、戯曲など劇文学に対する興味からではなく、このへんの文学への興味に端を発してると思います。
http://ameblo.jp/maruki/theme-10002125105.html
↑私のディック論、オースター論、ヴォネガットへの追悼などは、ここで読めます。

2.パーソナル・ドラマ
すでに書いたはずですが、個人鑑賞用の(映像)劇という意味。レンタルビデオが普及しなければ、私にとってはアメリカ映画なんて「マッチョマンが悪者やっつけて~」みたいなイメージのままだったでしょう。アメリカ文化についても「そういう映画をガサツなカウボーイがハンバーガー食いながら観てる~」みたいなイメージを持ったままだったでしょう。ところが実際は、芸術的な映画祭と言われるカンヌ祭でも、1969年に「イージーライダー」がカメラドール(新人監督賞)、1970年にアルトマンの「マッシュ」がグランプリ(後のパルムドール)を受賞してからは、「スケアクロウ」「タクシードライバー」など、アメリカ勢がかなり優勢です。野球で言えば、「人気のセ、実力のパ」などと言いながら、人気も実力(オールスター戦や日本シリーズの実績)もセ・リーグが優ってた時期もありましたが、70~90年代は、「エンターテインメントのアメリカ、芸術性のヨーロッパ」が嘘で、「芸術も娯楽もアメリカ」という感じになっていった、と思います。「ワイルド・アット・ハート」「パルプ・フィクション」のようにカンヌで受賞しながら商業的にも成功する作品を生み出せるのがアメリカの凄いところでした。最近はそうでもないかな?
カウチポテトという言葉は定着しなかったけど、そのようなライフスタイルを送ってる人は多いはず。レンタルは返却しなきゃならんのが粋じゃないという面があったけど、VHSからDVDへ、より廉価なDVDからVOD(ビデオオンデマンド)へという流れになって、ますますパーソナルなりつつありますね。「例是」なんていう言葉をワザワザ作って、それ以前の劇文学(劇詩、謡曲、戯曲)と区別する意義は、このような時代背景の中で書かれる劇文学、というところにあるのです。坪内逍遥が「小説」という言葉を作った後の物語文学は、それまでにあった源氏物語などとは似て非なるものである。「例是」も、そのような断続性、画期性を表す言葉なのです。
VHSは1万6000円くらいが一般的価格で、名作認定(←キューブリック作品はいつも早いうちから安くなってた)されると、セルビデオ用にディスカウントされ、CDなみの値段になる、という感じだった。それは、DVDに取って代わられる最近まで、VHSはそういう感じだった。DVDはかなり最初のうちから、5000円以下のものが多かった。洋画ならさほど有名じゃない作品でも2000円以下はザラ。邦画は・・・まだ、CD買うより気軽というわけにはいかんね。
さてビデオオンデマンドはどうなるか?私の環境(とリテラシーw)だけで判断すると、まだ、「レンタル店利用より快適!」というところまでは全然いってない。GYAOは途中から巻き戻しが不可能になってしまい、本社にメール送ったら対応してくれたけど、返信されてきたメールの質問要項が多すぎて、面倒になって、利用するのを止めた。シネマナウというサイトでウェブマネーで買った作品は、見ることができなかった。こちらの手落ちでしょうが、考えたり本社に問い合わせたりするのも面倒なので、その後利用しなくなった。そして、シネマナウはまもなく閉鎖してしまった。以上は私のリテラシーの低さのせいでもあるのでしょうが、そんな私でも音楽などは何の苦労もせずにゲットして鑑賞してる。客の手を煩わせるようではサービスとしてまだまだですな。
ところで、YOUTUBEやニコニコ動画でときどき全編見られるようにアップしてあるけど、あれ、大丈夫なのか?

3.ピーター・ドラッカー
高校時代から名前は知ってたけど、その頃は経営学(者)なんて、経済学(者)よりワンランク下というイメージでしたが、コンサルタントの大前研一の講演会を聴いたあたりから「経営」という語のイメージが変わりました。そして、学生時代に経営学必修の友達の試験勉強を手伝ったときに、非営利組織までも射程に入れてるドラッカーに興味を持ちました。
高校時代に経営学関連で習ったのは、社会科じゃなくて、数学の「行列」のオペレーションズ・リサーチくらいか?あれじゃ、関心もてないな。経済学でもそうだけど、そこで語られる労働とか商品は非常に抽象化されたものですね。たまに商品の例として出てくるのがラシャ紙とか亜麻布とかじゃ・・・・。どんな仕事したらいいのか、何作ったらいいのか分からんお年頃の人に抽象化された商品や労働の効率について語ってもポカーンでしょう。
そう言えば、大学時代に同じ下宿の友人の同窓生が遊びに来てて、「あ~あ、(経済学部じゃなくて)経営学部に入ればよかったよ~」などと言ってたけど、そのときに彼が言ってた理由も私が経営学について考えていたことと同じような感じでした。大前研一が大活躍してた頃ですし、「断絶の時代」以来の第二次ドラッカー・ブームという感じでもあったので、当時の社会に関心を持ち始めた若者の心を捉える何かが、経営学やマネジメント思想の世界観にあったのでしょう。それは、多分アメリカ的ということだと思います。しかし、いまは不況のせいなのか、経営思想の世界のヒーローってあんまりいないですね。
日本でイヤなのは、いつの間にか金儲けの話にすりかわってしまうところです。多分、人文系の人を呼び込む魅力が今ひとつ欠けているからでしょう。でも、ドラッカーにはそれがある。

4.パブリック・ドメイン
「O・ワイルド没年を紀元にした文学史」などと書いたことありますが、ホントはどこが紀元でもいいのです。「古い順」史観が嫌だというのが一番のポイントで、どこかエポックになる近過去をテコの支点として「重い全史」を持ち上げたいのです。そのように思うようになってから、誰の作品が著作権切れかということに注意を払うようになりました。だから、偉人の生年ではなく没年ばかり記憶するようになってしまった(笑)。
セキュリティ上、画像はパブーに登録してあるものしか使えません(http://texpo.jp/texpo_book/image/1310/)

右上のバナナみたいのは、手です(笑)。支点から棒の両端への長さは、時間的な長さの喩えではない。現実感の強さの喩えです。時間的に近いほうが現実感が大きい(=棒が長い)

3までは、アメリカがらみですね。私は村上龍氏のように基地の町に生まれたわけじゃないので、アメリカのパワーを高校生くらいまではよく分からずに育ちました。ちょっとばかり軍事的に強い新興国のように見なして、西欧より見下していた。

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